映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.07.28 「彼女の人生は間違いじゃない」 武蔵野館

2017.07.28「彼女の人生は間違いじゃない」武蔵野館、

 

大震災からもう6年が過ぎたのか。つい先日の様な、ずっと昔の様な。

みゆき (瀧内公美) は父親 (光石研) と仮設住宅に住む。母は津波で流された。遺体は上がっていない。毎日、出勤前に部屋の隅の急ごしらえの仏壇にご飯を供えて手を合わす。市役所に勤める。父親は保証金で毎日パチンコ生活、元は農業だった。

みゆきは週末になると夜行バスで東京・渋谷に出て、デリヘル嬢のアルバイトをしている。夜行バスの車窓から送電線の鉄塔をぼんやりと見つめる。6年前から時間が止まっている福島、そんなことあったなんて殆どの人が忘れてハシャぐ渋谷の街。みゆきは毎週この間を行き来する。

車窓からの鉄塔にPfの硬質な単音が被る。鉄塔にPfの単音は良く似合う。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)でも鉄塔にPfの単音が宇宙の奥から鳴っているように付いていた。みゆきは鉄塔を見るともなく見ながら何を考えていたのか。出口の無い日常から解放されてホッとしたか、突然狂ってしまった人生、この先どうなるのか、自分って? みゆきが唯一ひとり内省する時間。宇宙の中で一人たたずむ時間。もしかしたらこの時間を持つためにみゆきは毎週渋谷へ行くのかも知れない。やがて微睡み、目を開けるとスカイツリーが視界に入って来る。良いシーンだ。このシーンがあるので僕はこの映画をとっても好きになった。

確かに鉄塔は福島を犠牲にして東京に電気を送る、そんな象徴だ。声高ではない原発への抗議だ。そして僕はどうしてもその先に、宇宙と対峙するみゆきの姿を見てしまう。

 

反省。僕はこのブログでやたらと安易に“宇宙”という言葉を使ってしまう。どういう意味で使っているのかと問いただされても的確には答えられない。きっと歳 (現在68歳) のせいだ。“死”を身近なものに感じ始めて、来し方行く末が前よりも見渡せる様になった。“宇宙空間に漂う絶対孤独な私”という想念が若い頃よりもずっと頻繁に浮かぶ。老人の繰り言、笑わば笑え。僕は全ての映画をここから見ているのかも知れない。

 

映画は手持ちカメラで、家から軽でいわき駅まで行き、夜行バスに乗って東京駅に着いて、洗面所で着替えて、地下鉄銀座線で渋谷に着き、デリヘルの事務所に顔を出すまでを、ドキュメンタリーの様に追う。密着取材の様。

父親は時々仮設の引き籠りの少年とキャッチボールをする。引き籠りが少し治ったと親から感謝される。

隣の夫婦は夫が原発関連。徹夜作業で家に帰らないことも多い。原発で持てはやされていた頃から一変、周りの視線に妻 (安藤玉恵) は自傷行為を繰り返す。

市の広報の新田 (柄本時生) は、家は流されなかったものの、母親と婆ちゃんが宗教にハマり家を出てしまい、歳の離れた弟と二人で暮らす。弟の面倒をよく見ている。新田が通うスナックに東京の女子大生がバイトで入った。復興の様子を卒論にするという。色々質問され、違うと感じつつ、つい店に通ってしまう。

3.11以前の生活は無しになった。復興といったところで元の生活に戻れる訳ではないし、原発の影響は何時まで続くか分からない。6年も経てば仮設は仮設でなくなる。でもこの生活は仮なんだというところにしがみ付く。一生を仮設状態で生きて行く? 仮でない本来の生活って?

 

みゆきが何故デリヘルのバイトをするようになったかの説明はない。生き残ってしまった自分、津波が来た時は恋人とホテルの一室だった。その罪悪感からの自分への罰なのか。

 

デリヘルのマネージャー (高良健吾) は演劇を志す人だった。その彼に子供が生まれる。彼はデリヘルマネージャーの仕事を辞め、次の段階に人生を進めることを決めた。みゆきは彼の芝居を初めて観る。もしかしたらみゆきもデリヘルを卒業して人生を少し進めるかも知れない。

父親は一時帰還で汚染地域の家に戻り、妻の衣類を持って帰り、漁船から海に放り投げる。“かあちゃん、寒か!” 父も人生を少し進めるかも知れない。良いシーンだ。

夜行バスで朝帰りしたみゆきは子犬を飼うことにする。父親に“ちょっと待って、朝ごはん作るから”(不確か) 映画はこの台詞で終わる。仕事を見つけようとしない父親に “いい加減にしてよ!” とヒステリックに叫んだみゆきではない。何かが少しだけ変わった。ほんの少しだけ朝日が射しこんだ (ような気がした) 。

 

福島にはきっとこんな話がゴロゴロしているのだ。こんな話だらけなのだ。映画はそれを拾い集め、それに出来る限り作為を加えることなく役者に演じさせた。演出臭は細心の注意を払って除去している。そういう冷静で優しい演出なのだ。役者もみんなよくそれに応えている。光石研など現地の人をそのまま使った様である。

一つだけ、これは言っても仕方ないことであり美点でもあるのだが、みゆきの瀧内公美、彼女が綺麗過ぎる。端正な横顔に見入ってしまう。この映画のヒロインとしては美人過ぎやしないか。スラリとした体躯も初めからシブヤである。彼女の美貌で引っ張るのは商業映画としては当然で、もし普通の容姿の女優がやったら商業映画ではなくなっていたかも知れない。だから仕方がない。矛盾するようだが何かの賞でこの熱演は評価されるべきだ。

「日本で一番悪い奴ら」(拙ブログ2016.7.15)に出ていたとのこと、全く気付かなかった。

 

音楽、Pfの硬質な音で2分音符の2音の単純なメロが繰り返される。そこに小編成の弦が入り、Pfに代わってメロを取る。あるいは弦がリズムを刻む。一直線の桜並木の奥から除染作業の車が現れる冒頭、あるいは夜行バスの中から見る鉄塔、東京の光景、福島の光景に付く。遠くからの視点の音楽。人間の営みを無感情に見つめる音楽。ほんの数カ所だけ。でも効果的。良い映画音楽である。

ローリングタイトルで音楽家のクレジットを読み取れなかった。ネットで調べても載っていない。主題歌・meg「時の雨」は載っているのに。エンドロールに流れる主題歌はそれまでの世界を壊すようなものではなく、良い範疇。それより劇伴の作曲家をネット資料でもきちんと表記すべきだ。ローリングのクレジットをそっくりそのまま資料として掲載してくれればといつも思う。既成曲も何を使ったかが分かる。そう出来ないものだろうか。

 

「彼女の人生は間違いじゃない」、優しさに溢れるタイトルだ。

廣木隆一、良い仕事をした。

 

監督 廣木隆一   音楽 半野喜弘      主題歌 「時の雨」meg

 

8/15   本ブログを読まれた方より、音楽は「半野喜弘」であると連絡を頂きました。ありがとうございます。

2017.07.27 「ボンジュール、アン」 日比谷シャンテ

2017.07.27「ボンジュール、アン日比谷シャンテ

 

映画プロデューサー・マイケル (アレック・ボールドウィン)  と美しき妻アン (ダイアン・レイン)。場所はカンヌ、ちょうど映画祭が終わったという設定か。売れっ子プロデューサー、マイケルの携帯は引っ切り無しに鳴る。

友人のフランス人プロデューサー・ジャック (アルノー・ビアール) と3人でブダベストへ行くはずが予定変更、アンはジャックの車でパリへ行くことになり、マイケルが後から合流することになった。大人のアメリカ女と大人のフランス男のカンヌからパリへのフランス縦断の旅。車を飛ばせば一日の所を、フランスの名所旧跡を訪ねつつ、心の寄り道旅となる。

アンは一人娘が大学生となり、子育てから解放された。夫に不満がある訳ではない。ジャックは美食家でワイン好きで煙草を吸い女性を愛するフランス男。独身。

間違いが起きてしまうのではないか。この期待と心配のバランスで引っ張って行く。時々心配になったマイケルから携帯に連絡が入る。フランス人は夫や子供がいようと関係ない。ジャックはフランス人だ。

その通り、ジャックはやんわりとその気を伝えてくる。手間暇お金を掛け、決して押しつけがましくならないよう、細心の注意を払って大人の迫り方をする。

随所に思わせぶりを散りばめる。ホテルのフロントで出された鍵が一つだったり、都合良く車が故障してルノワールの『草の上のピクニック』(?) をやったり。次々にアンの興味を引きそうな所を案内してパリへ行くことなんかそっちのけ。いつの間にかジャックのペースにハマっていく。

事情があるとかで頼まれて、支払いをアンのクレジットカードでする。金策らしきジャックの電話を立ち聞きもする。もしかしてお金に困っている、借金まみれの詐欺師か。映画のプロデューサーなんて当たれば大金持ち、外れると借金まみれ、詐欺師に近い人だっている。

一方で、お互い心の奥にしまっていた哀しい記憶を話したりもする。若干の疑念を残しつつ、気持ちは通っていく。

ようやくパリに着き、遂に愛の堤防決壊かと思われるギリギリのところで大人の抑制が働き、決壊はしなかった。翌朝、バラのチョコレートとカードで支払った分の現金が届く。

 

随所にフランス人とアメリカ人の違いが語られる。しかし文化の違いがテーマという程ではない。子育てを終えた大人の女がこれから自分の人生を生きて良いのだと思わせてくれた2日間の旅。決して夫と別れるとかというものではなく。自分の人生をまだまだこれからやれるんだ、と思わせてくれた旅。

ジャックがちゃんと中年っぽくて二枚目でないのが良い。二枚目だったら単なる不倫ものになってしまう。二枚目でない男が迫り、大人の抑制を効かせて爽やかに纏めた。ダイアン・レインが素敵だ。彼女の魅力で成立している所、大。「トランボ」(拙ブログ2016.7.28)の奥さん役も良かったなあ。

音楽、女声のスキャットが入ったボサノバ調、あれ「男と女」? でもその内ジャズ風になってメロはサティだったり、クラシックのよく聴くメロだったり。もしかしたら全部既成曲メロをアダプテーションしているのかも。僕には全部は解らなかった。

かなり多いが、この手の映画、音楽がムードを作るのは重要で、そこはとっても上手くいっている。

熟年の恋愛映画という訳ではない、不倫映画でもない、自分探しの映画という訳でもない。どれもが淡くブレンドされた映画。一緒にフランスの旅をしている様な気になる。

中高年の叔母様たちでかなり混んでいた。

 

監督 エレノア・コッポラ   音楽 ローラ・カープマン

 

PS. 監督がF・コッポラ夫人であることを後で知った。80歳、初監督作品。手練れの職業監督かと思っていた。流れは澱みなくベテランの風。

2017.06.19 「花戦さ」 丸の内TOEI

2017.06.19「花戦さ」丸の内TOEI

 

華道は僧侶の手によって始まったことを初めて知った。利休と親交した実在の人物らしい池坊専好、暴君と化した秀吉に花を活けて自戒を促したという話。本当なのか。

専好を野村萬斎が演じる。専好は花の中に仏さんがいるという。それはよい。けれど活けた花で秀吉が改心するというクライマックスにどうにも説得力が無い。桜と梅のどちらが好きか、それぞれにかけがえのない良さがある。赤には赤の、青には青の、黒には黒の、金には金の、そんなやり取りで解ったような気にさせられる。脚本がどうにも浅い。浅いところで辻褄を合わせてイージーな整合性を作る。

何とか映画になっているのはひとえに萬斎の形のある演技による。台詞も所作もリアリズムではない。伝統に裏打ちされた形である。萬斎は普通の映画に出たら間違いなく、浮く。「陰陽師」も「のぼうの城」も萬斎の持つ形の演技を上手く取り込んで成功した。この映画は取り込むのではなく助けてもらっている。萬斎でなければ映画が成立しなかった。彼の形が浅い脚本にも拘らず何かが有る様な感じを作り出した。秀吉役の市川猿之助も同じ。猿之助の持つ形が何とかクライマックスを成立させている。形を持たない役者でやっていたら悲惨、映画に成ってなかった。萬斎、猿之助がやったから、かろうじて映画になった。それでも辛うじて、である。

セットはチャチ、引いた画は無い。予算が無かっただろうことは解るが。せめて幾多の無念の血が沁みつく三条河原のロング、それがあればこそ一輪の花に手を合わせた後に刈り取る萬斎に深さが出るというもの。TVサイズの寄りばかりでは花に仏が宿るなんて言っても説得力が感じられない。

音楽、複雑なリズムを駆使したミニマルミュージック(?)。弦のピッチカートや木管がリズムを作って、そこに弦のメロがのる。琴の音も聴こえる。映像に付けるというより映像を引っ張っている。音楽の無いラッシュはさぞ辛かっただろう。音楽が積極的に演出してテンポを付けてメリハリを付ける。萬斎、猿之助とともに久石の音楽が無かったら映画に成っていなかった。

茶道華道の動員付映画であることは間違いない。それをしっかりと逆手に取って普段作れないような映画を作って欲しかった。

 

監督 篠原哲雄   音楽 久石譲

2017.06.09 「海辺のリア」 スバル座

2017.06.09「海辺のリア」スバル座

 

仲代達矢が、かつては大スター、今は80の坂を超え施設暮らしをする呆け老人・桑畑兆吉を演ずる。

娘・由紀子 (原田美枝子) とその夫・行雄 (阿部寛)。かつて桑畑を尊敬し弟子だった。今は由紀子と結婚し、プロダクションの社長に収まっている。そこの社員で由紀子と深い関係にある男 (小林薫)、由紀子とは腹違いの孫の様な歳の娘・伸子 (黒木華)、出演者はそれだけ。五人が織り成す舞台劇の様な話。

桑畑と仲代がWる。無名塾を主催して今も現役の仲代と施設に入っている桑畑では全く違う。だが老いてなお芝居に憑りつかれているという点ではどうしようもなくWって見えてしまう。作り手もそれを狙っている。ロケは北陸の海辺一箇所のみ、大仕掛けはなく、ひたすら台詞で語られる。あまりに台詞ばかりなのでちょっと食傷気味になる。これまでの人生、子供との関係、腹違いの娘がされた仕打ち、今の状況、全てが台詞だ。それが海辺の似たような景色をバックに延々と続く。

仲代の立派過ぎる声と見事な滑舌はどちらかと言うと僕は好みではない。あまりに演劇的だ。体もがっちりとして良く歩く。あんな老人もいるのだろうが、随分立派な呆け老人である。仲代でなかったら成立しない企画なので仕方ないのだが。

音楽は頭とお尻、中ほどに少し。多分これ、曲はクラシックの既成曲。エンディングの曲は良く耳にする曲 (題名失念) なので間違いない。

冒頭、VCのソロで入る。中低域のしっかりした音。それに合わせて中央タテにキャストのクレジットがゴシック体 (?) で一人づつ入る。黒地に白抜き、最もシンプル。しかしVCの中低域と合って、落ち着きを作る。格調すら感じる。このクレジットタイトルと音楽、良い。音楽、劇中には1~2カ所入るだけ。後はエンドロール。有り物音源か演奏し直したものか。音楽クレジットはプロデュースの意味合いか。

台詞で殆どを語る映画があったって良い。それが映画的表現になっていれば。

 

黒木華が良かった。阿部寛は体を使えない芝居なので辛いものがあった。

それでこの映画は何を伝えたかったのか。

周りの犠牲も顧みず、自由に生きた名優の、呆け乍らも未だ演じることに憑りつかれている、そんな役者とは、ということか。あまりにストレート。こちらの思いを差し挟む余地なく、あゝそうですか、で終わってしまった。

 

監督  山本政広    音楽  佐久間順平

2017.07.19 「甘き人生」 スバル座

2017.07.19「甘き人生」スバル座

 

僕らの世代は“甘い”に弱い。“甘い”と来れば“生活”だ。背徳の匂いだ。「甘き人生」、どうしても背徳の匂いを感じる。ヴィジュアルも中年男に覆いかぶさる美女、退廃の芳醇な香り。そんな先入観の下で観た。

1960年代、ツイストが流行っていた頃、カトリーヌ・スパークが太陽の下で18歳だった頃。イタリアはトリノ、少年 (ニコロ・カブラス) と美しい母 (バルバラ・ロンギ) の至福の時が色調を抑えた画面で描かれる。少年にとって黄金の日々。

母が突然居なくなる。寝ている少年に“良い夢を”という言葉を残して。母は自殺したらしい。葬儀で初めて父親が登場する。もしかしたらシングルマザーかと思っていた。この時代、ましてイタリア、それはないか。父親は渋い。これは間違いなく女が絡む。父親の女関係がもとで精神を病み自殺した。間違いない。少年を溺愛する母の姿に少し神経症的なところも感じた。

少年・マッシモは母の死を受け入れられない。周囲も死因は心筋梗塞と言い、自殺とは決して言わない。自殺を罪とするキリスト教の背景もある。

母と観たTVの、仮面を被ったダークヒーロー (?) ベルファ・ゴールを心の支えとして、周囲とはそれなりに接するものの決して心底から心を開かぬまま成長する。

宇宙の起源、物体落下の法則、教会を明るくしないと母が帰ってこられない(?)。成長するにつれ、理性は母の死を理解しつつも、心はそれを拒否し続ける。そんな心を持ち続けたまま、マッシモは大人になる。

ジャーナリストになったマッシモ (バレリオ・マスタンドレア) はセルビア紛争の取材に赴き、そこで撃たれた母とその脇で必死にゲームをやり続ける少年の姿を見る。必死に紛らわせているのか、心の許容範囲を越えたのか。その夜マッシモは初めてパニック障害を起こす。それを救ってくれた女医・エリーザ (ベレニス・ベジョ) との出会いがある。

199?年、マッシモ が30代後半になった頃、初めて父親は再婚を考えていると、女性を紹介する。残念ながら父親に背徳の匂いは無い。息子は素直に認める。父子並んで歩く姿がどうにも親子に見えない。端正な父親に比して無精ひげの息子の方が老けて見えたりする。

 

母の死の受容と1960代~1990代の欧州を重ねて描くのかと思った。しかし僅かに触れる社会ネタも重きを置かれている訳ではない。むしろサッカーの話がこの親子に深く絡んでいる。丁度、長嶋茂雄のデヴュー連続3三振後の初ヒットがホームランだったり、天覧試合のホームランだったり、“巨人軍は永遠不滅です”の引退だったり、その活躍が僕らの個人史と深く絡まっているのと同じ様に。

父が死に、アパートの片づけをして母との思い出を整理する中で、叔母の口から母の死が病気を苦にした飛び降り自殺だったと初めて聞く。精神を病んでいたというようなことは全く出てこない。ましてや父親の女性問題など皆無。僕の読みは次々に粉砕される。

マッシモは遂に母の死を受け入れエリーザと結ばれる。ラストカットがポスターのヴィジュアルだ。ここにも背徳は皆無だ。あのヴィジュアルに「甘き人生」というタイトルが付けられてマンマと騙された僕がバカだったということだ。ただ単に病気を苦に自殺した母の死を40年近く掛けてようやく受け入れた男の物語だったのだ。本当に? どこかに見落としている所があるんじゃない? だって本当にこれだけだとしたらTVで充分 (TVに失礼か) なんだもの。

新聞の投稿欄の担当として、母を憎んでしまうという投稿に、帰ったら黙って母を抱きしめなさい、と回答して世間から絶賛を浴びたりする。このストレートさは何なんだろう。

幼くして母を亡くした経験は筆舌に尽くし難い。トラウマとなったり人格形成に大きな影響を与える。一方で僕らはIS等の現実を日々のニュースで知っている。母親が目の前で乱暴され殺される。マッシモだってセルビアで現実を見てパニック障害を起こした。母の死を受け入れるのに40年って、ちょっと「甘き人生」じゃない? 背後に退廃の芳醇な香りなんか一切無い、それだけの話。ダマされた私がバカだった。

 

音楽はポイントに時代を表わす既成曲、所々で小編成の楽曲がお決まりで付く。最後に弦の入った大編成でウェットに纏める。当たり前だが過不足無し。ツイストから始まって、ストーズやキングクリムゾンのLPジャケットが出てきたりして世代的には僕とWり、既成曲は懐かしかった。

 

描写は的確。’60トリノ、’90ローマと場所時間共にランダムに飛ぶも流れはスムーズ、素直に観られる。安っぽい泣かせに持って行かなかったことは良い。男は永遠にマザコンだ。

 

原題「Fai bei sogni」(良き夢を)、母が残した最期の言葉。それを「甘き人生」とした。“甘き”で僕の様な世代を深読みさせ、一方でこの映画の“甘さ”を自ら皮肉る、上手い邦題。

 

監督 マルコ・ベロッキオ   音楽 カルロ・クリベッリ

2017.07.07 「22年目の告白 私が殺人犯です」 新宿ピカテデリー

 

(ネタバレご容赦)

予告編で想像していたよりずっと面白かった。

時効を迎えた事件の犯人が名乗り出る。「64」はギリで犯人を逮捕した。こちらはノウノウと犯人が名乗り出る、「私が殺人犯です」という告白本を出版するというかたちで。派手な出版記念記者会見、一躍マスコミの寵児となる。警察は手が出せない。五人も絞殺している。しかもわざと身近な人間の眼前で。この理不尽、そこに焦点をあてた映画と思っていた。ところがもう一捻りあった。これは予告では全く匂わせていなかった。この緘口令は大成功。これが社会的なサスペンスの先にもう一つ、サイコロジカルなサスペンスを作っている。

名乗り出た犯人・曾根崎 (藤原竜也)、かつて寸でのところで取り逃がした刑事・牧村 (伊藤英明)、その事件を取材した作品で認められて今はTVのキャスターとなっているジャーナリスト・仙堂 (仲村トオル)、この三人の22年間、そこに殺された五人の遺族が巧妙に組み込まれて物語を作っていく。遺族にはヤクザ (岩城滉一) がいたり、医者 (岩松了) がいたり、都合良すぎるといえばその通りだが、そこはエンタメ、巧みに取り込んで不自然さを感じさせない。かつての事件はその都度カットバックで手際よく語られて、良く出来た構成の脚本である。

曾根崎が牧村の耳元で口を覆って囁く映像、リップは分からない。そこに予告編では“あんたがドン臭かったからだよ”と載せている。本編では台詞は聴こえない。実際にはあとで“早く殴って”と言ったことが明かされる。予告の台詞は全く別の所から持ってきたものだった。本編予告連携の上手い小技である。

犯人の殺人の動機を黒沢清サイコパスに持って行かなかったのが良い。サイコパスを持ってくると確かに不条理今風リアルにはなるかもしれないが、理屈を超えてしまうのでサスペンスとしてはドン詰まりだ。どうするのか。かつて戦場取材でテロリストに拉致され、目の前で仲間が絞殺された。自分だけ助かった。それがトラウマとなった。成る程、しかしそれだけで殺人鬼となるものか。日本に戻った仙堂の壊れた心が殺人鬼へと化していく様子を納得させてくれる1カットがあれば。無理難題は重々承知の上で。IS等を考えると全く有り得ない話でもない。

 

何より音楽が面白い。音楽というよりSE。楽音はほんの少し。どれもモノトーン。あとは打ち込みのリズムだったり、通信音 (?) だったり、歪み音だったりで構成する。有りがちなSynのパッドはほとんど無い。つい雰囲気とサスペンス盛り上げの為に入れたくなるものだが、それをしていない。代わりにSEが無感情に入る。

現代音楽? ミュージックコンクレート? かつて前衛芸術映画でその様な試みはあった。それをエンタメで実に上手くやっている。現代音楽の様に理屈から入るのではない。映画を如何に面白くするか、そこから発想している。絵面や物語の展開に合わせているところはある。打ち込みリズムはサスペンスを煽る役割もしている。が、何より音楽に通底している考えは、感情移入をさせないということ。いくらでも泣きは作れる。それを一切排除する。その為に音楽が重要な役割を果たしているのだ。

牧村と曾根崎は感情で動く。仙堂は感情が壊れている。感情が壊れた奴に22年間、感情で挑み続けた。音楽は少し離れたところから感情の壊れた世界を担う。だから感情的なサスペンスドラマを超えることが出来た。

時々バサッと素を作る。台詞や息遣いだけになる。これが実に効果的だ。音楽、効果も含めた音付けのセンスの良さに感心する。

エンドでノイズの様なEG (主題歌のイントロ?) がCIして、クレジットタイトル、エンドロールが始まったと思いきやタイトル1枚 (?) だけで直ぐに音楽と共にCO。 白くハイコントラストで飛ばした病院の廊下、両脇を抱えられた仙堂、何回か出て来たピアスだらけのチンピラ (ヤクザの義理の息子) が背後から…、 映像バサッとCO、同時にノイズEGが再びCI 、今度は間違いなくローリングとなる。目の覚める様な流れだ。

最後の最後で消化不良だった感情は一応収まる。納得する。後味スッキリというようなものではないが、エンタメの枠だけはキチンと守った纏め方である。

 

横山克という作曲家、初めて聞く名前、相当センスの良い人だ。僕が教えられた映画音楽とは全く違う感性。パルスやノイズなんて発想、僕には思いもよらない。楽音以外の音を完全に音楽として使いこなしている。映画音楽は“音”なのだ。

海外に旅立つ曾根崎 (拓巳) を見送る空港ロビー、ここだけは音楽らしい楽音が流れていた。

 

音楽はどんな体制でやったのだろう。全て当て書きとも思えない。全て素材録りの選曲とも思えない。「サイタマノラッパー」で評価された監督 (評判は聞いていたが未見)、音楽への造詣は相当あるはずだ。センスの良い選曲スタッフが居たのかも知れない。どのように作っていったか知りたいものだ。

 

監督 入江悠   音楽 横山克   主題歌 感覚ピエロ

2017.06.28 「ジーサンズ  はじめての強盗」 新宿ピカデリー

2017.06.28「ジーサンズ はじめての強盗」新宿ピカデリー

 

歳をとってもカッコイイ。ジョー役のマイケル・ケインアルバート役のアラン・アーキン、増々渋いウィリー役のモーガン・フリーマン、みんな80越え、カッコイイ人はジジイになってもカッコイイのだ。

3人とも同じ鉄工所に40数年勤めて、しっかりと企業年金も積み立てた。老後はこれで何とかなる。ところが会社が買収されて年金はそれとともに消滅した。裏で銀行が糸を引く。3人それぞれの事情を抱えるも年金消滅が生活の基盤を奪うのは同じだ。考えた末に銀行強盗をやることになる。荒唐無稽。

口笛とコンガが全面に出たボサノバ調、昔のTV「ナポレオンソロ」のような雰囲気のタイトルバックが流れ、3人がそれぞれに映し出された時には、こちらの感度は老人ハイテンションにピタッとセットされて荒唐無稽に違和感無し。

スーパーでの強盗の練習、自転車の荷台にウィリーを乗せての「ET」 (1982) のパロディー、時々出てくる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985) ドクのクリストファー・ロイドが映るだけで可笑しい。

もも肉もいいけど胸肉もいいわよとアルバートに迫るスーパーのおばさん、これが何と何とアン=マーグレット、後で解った。僕が知っているのはプレスリーの相手役の頃、解る訳がない。彼女が唄った「バイバイバーディー」(1963) の主題歌は子供の僕にはどうしても“バーイ バーイ バーヒ―”に聞こえた。

イデア満載ギャグ満載、セックスしちゃうしマリファナ吸っちゃうし、夜のベッド脇の電話での3人の会話には哀歓もある。何よりメールや携帯が出てこない、こんなの久々だ。

3人の役者が素晴らしいのは当然。それにも増して脚本 (セオドア・メルヒ) が良い。銀行強盗を決意するまでのプロセス、その後の準備と練習、決行とアリバイの証明、全てが何かの伏線になっていてそれが見事に回収される、小技のアイデアは山の様。

たけしの「権三と七人の子分たち」(拙ブログ2015.5.8) がよぎった。たけしという才能が次から次に溢れてくるアイデアを一気に纏めて演出した。才人たけしの瞬間パワー。一方こちらの脚本、クレジットは一人だがアイデアは多分多くの人が持ち寄っている。そして推敲に推敲を重ね、撮影現場では役者からのアイデアも相当出たはずだ。何せ演出もこなす3人である。それを最終的に監督が纏める。捨てられたアイデアは山の様にあるはずだ。それが映画の厚味になっている。「権三~」にはその厚味が無かった。

 

唯一不満だったのは音楽である。トーンはシンフォニックジャズ。弦も木管金管もラテンパーカッションも入る。前述のように「ナポレオンソロ」の様なレトロな響きもある。「What a Diff”rence a Day Made」(歌.ブレンダ・リー ?) の様な既成曲も上手く使っている。悲しめのところは哀しく、サスペンスのところはその様に、煽るところは煽って、映画音楽としてはきめ細かく丁寧に、洒落たジャジーさを保ちつつ、付けている。付け過ぎなのだ。後半、強盗のハラハラドキドキになってからはそれを煽るようにベタにつけるのはしょうがない。問題は前半だ。何であんなに絵面に合わせてベタに付ける必要があるのか。音楽による気持ちの先取り、感情の単純化と押し付け、前半は音楽を半分以上取れる。その方がもっと複雑な思いが滲み出る。老いの哀歓だって出る。音楽外して流れが悪くなるなんてことはない。編集はしっかりしていて音楽無しで充分持つ。少しシリアスになるかも知れないが後半とのコントラストが付く。見ながら、この音楽要らない、この音楽邪魔、とつぶやいてしまった。

 

ズラリ並んだジイさんたちの子供による面通しのハラハラドキドキ、誕生日プレゼントに貰った子供が喜びそうな腕時計のアップ、あゝバレたか。

強盗も成功して、締めはウィリーの腎臓移植。怖がりながらも提供するアルバート。並んで横たわる2人。次のカットはダークスーツのジョー、ネクタイは確か黒。あれ? まさかウィリー? それともアルバート? ここから先は目下公開中なのでネタバレ配慮。たっぷりと思わせぶりをしてコロッとかわすテクニックは見事。

銀行は徹底的に悪党として描かれる。庶民目線の資本批判はしっかりと通っている。ロンドンのダニエル・ブレイク(拙ブログ2017.3.28) を誘って行政批判のパート2なんてのは?

誰も死なない、安っぽい涙も流れない、懐かしい曲が沢山流れる、名画へのオマージュとパロディも満載、何よりスカっとして元気が出る、素敵な映画。

 

「ジーサンズ はじめての強盗」、この邦題、まあ良かったのではないか。「はじめてのおつかい」のパロディーとどれ位の人が気付くかは別として。

“三人のおじいさんが生まれて初めて銀行強盗をしました。それがなんと成功しちゃったのです”なんてコピーはいかが?

 

監督 ザック・ブラフ  音楽 ロブ・シモンセン