映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

 

二度見した。一度目は ”タイレル社” や ”レイチェル” と言う言葉を聞いて一気に30年前に戻り、前作を観た時の衝撃を思い出した。灰色に煙るLAの高層ビル群をぬって飛行するブレードランナーの空飛ぶ車、それを俯瞰で捉えたカット、シンセで作るリズム、地上にはビチャビチャと雨が降り、猥雑この上ない。返還前の香港の裏町の様。見上げるとビルの壁面に映し出された巨大な女が手招きしていた。今作ではそれがホログラフで浮き出て来る。あちこちに日本語が氾濫、Oh! ブレードランナーの世界。

30年ぶりの再会に興奮して、話を追い切れなかった。ただ、時々唐突に流れる、劇伴とは全く異質の、明るく汚れのない音楽が気になり続けた。もしかして「ピーターと狼」(以下P&W) ? まさか。ちょっと流れてはブツ切りとなる。精々一小節、二小節は流れない。ウルトライントロ当てクイズだ。何回聞いてもP&Wの出だし。ホログラフのジョイ(主人公Kのバーチャル彼女) の所に流れるから、ジョイのテーマとしてのオリジナルか。それにしては付け方があまりに無造作だ。エンドロールは膨大でどこに音楽関係があるかも分からないまま終わってしまった。

圧倒的映像、シンセのリズムで作り出す音楽の迫力、ジョイは何て可愛いんだ、あの曲はオリジナルそれともP&W ? 一度目はこれだけで終わってしまった。

P&Wだけでも確認したい。エンドロールの既成曲クレジットを見れば解るはずだ。ということで二度見となった。

 

良く出来た映画は一度見だけでは映画が持つ情報量の半分も解らないかも知れない。二度見で解ることが山の様にある。結論が分かっていても、そこに至る伏線小技が一つ一つ納得して行けて一度目より感動したりする。名作は何度見にも耐えられるものだ。

 

エンドロールの終わりの方、既成曲クレジットの中にP&Wはあった。やっぱりそうだった。ジョイが現れる時のジングル、着メロの様なもの。ウォレス社のジングルあるいはKがそう設定したのか。これで唐突に流れてCOするのが納得出来た。シンセだが劇伴とは全く違う音色、灰色に淀む中でここだけ晴天という感じだ。でも何故P&Wなのか。曲調がノー天気な位明るくて健康的で汚れがないのでコントラストが付くという理由は容易に考えられる。でもブーでもピーでもボロンでも良かったはず。映画音楽としてではなく、現実音として流れる訳だからもっとさり気なくても良いはずだ。音量は決して小さくない。しっかりと耳に付く。全体を通した時、この曲が唯一ピュアな点としてあることに気付く。ジョイという存在がそういうことなのだ。この選曲は大成功。でも何故P&Wなのか。曲調以上の意味があるのか。解る人は教えてほしい。

 

主人公はK (ライアン・ゴズリング)、ブレードランナーとして旧型レプリカントを解任 (殺害) する使命を帯びた新型レプリカントである。LAの雑踏を歩く時、“人間もどき”“もどき”の罵声が飛ぶ。ブレードランナーというポジションはたむろする人間たちより多分上なのだ。地球に残されている人間は切り捨てられた人々、選ばれた人々は汚染された地球を捨て9つのコロニーに居るらしい。そこを維持する為に地球がありレプリカントがいる。“もどき”の罵声は、移民のくせして俺たちより良い仕事についていやがる、に聴こえる。人間対レプリカントレプリカントの中でも新型と旧型、LAを囲む巨大な城壁の外Out of worldにはさらなる下層の人間とレプリカントが汚染の中で生きている。これをアメリカの現実いや世界の現実として読み解くことは難しいことではないかも知れない。しかしそれは製作者の本意ではないはずだ。本作は“人間もどき”が人間かも知れないと意識する物語、自分とは何か、を追い求める物語なのだ。レプリカントの苦悩はそっくりそのまま僕ら人間に置き換えられる。

前作でルトガー・ハウアーは寿命が尽きる寸前にデッカード (ハリソン・フォード) を救う。レプリカントにも心があった! で終わる。今作はそれを生物学的視点からアプローチする。生殖能力の有無である。

冒頭、解任される旧型レプリカントがKに最期の言葉として言う。“お前は奇跡を見たことが無い” 奇跡とは… 

レイチェルの遺体の帝王切開の跡、レプリカントが妊娠していた、そして子供を産んだ、レイチェルはそれがもとで死ぬ、子供はどこかで生きている!

タイレル博士 (フランケンシュタイン博士、それとも神? ) は完全な人間を創っていたのだ。

このことが知れたら人間とレプリカントの垣根は壊れる。レプリカントは人間と同等の要求をしてくる。

Kの女ボスがこの事実を無きものにせよと命令する。製造されたレプリカントを解任する指令は受けているが、誕生したレプリカントを解任することはインプットされてないと答えるK。“命令に背くの?”“命令に背くという選択肢はありません”

レイチェルの遺体が埋められていた場所に立てられていた白く立ち枯れた木、その根元に6-10-21という数字が彫られていた。Kが大切にしている木馬の置物にも同じ数字が刻まれている。偶然の一致か。Kは子供の頃、養護施設で仲間の少年たちからそれを奪われそうになったという記憶を持つ。しかし子供の頃の記憶は植え付けられたものであることを知っている。でももしかして… ここからKの自分捜しの戦いが始まる。

 

遺体の毛髪からDNAを解析して調べた結果、6-10-21誕生の全く同じDNAの男女がいたことが解る。双子だったのかも知れない。人間もレプリカントもDNAの塩基はA・T・G・C、私は半分の0・1 、脇でそうつぶやくジョイ。

 

作り出されたレプリカントには当然ながらそれ以前の記憶が無い。それが不安を呼び起こす。

人間の記憶 (あるいは意識) はFI (フェードイン) 、レプリカントはCI (カットイン)だ。CIだとその前の“無”は鮮やかに浮き出る。それが不安を呼び起こす。だからFIの物語が必要なのだ。FIする人間だってある時、それ以前に気が付く。時間の流れの中でポツンと一瞬ある自分、何らかの意味づけがほしい。きっと芸術や宗教はその為にある。

ウォレス社でレプリカントの記憶作りを担当する、免疫不全で無菌室の中で生活するステリン博士はその第一人者、つまりは最高の芸術家ということだ。記憶はフィクションでなければならない。本当に起こったことを移植することは禁じられている。でも彼女はKから子供の頃の木馬の記憶を聞いた時、思わず涙した。この涙、二度見でないと解らない。

彼女の登場シーンはこの映画で唯一の緑色の自然だ。灰色の中で突然現れる緑は凄いインパクトだ。しかしこれもバーチャル。

 

Kは感情を現さない。いつも無表情で任務をこなす。家に帰るとスイッチを入れ、P&Wが流れてジョイが現れる。ジョイはセクサロイドでその為のプログラムが施されている。Kに話を合わせ、思いやり、奉仕する。Kの為に喜び涙も流す。愛しているのだ。そうプログラムされている。Kが、もしかしたら自分はレイチェルから生まれたかも? と話すと、あなたはどこか普通のレプリカントと違っていた、きっとそうよ、と話を合わす。製造番号Kではなく、名前を名乗るべきよ。ジョイはKをジョーと呼ぶ。ジョイの純愛はKに取って、この映画に取って、唯一の救いだ。しかしそれがプログラミングの範囲であることをKは解っている。肉体を持たないジョイが人間 (レプリカント?) の娼婦を連れてきて、その肉体を借りてKと結ばれた朝、娼婦が帰り際にジョイに言う。“合体した時、ちょっとあんたの中を見たけど、何にもない、カラッポね (大体の意味)”ジョイは単一目的の為のシンプルなプログラムなのだ。一途な愛というプログラム。

 

一度見の時、ストーリーが良く解らず、複雑だなぁと思った。二度見で話は単純一直線であることが良く解った。自分はもしかしたらレイチェルから生まれたのかも知れない。それを確かめたい。この思いに則して前作と辻褄を合わせながら、大技小技を使って実に上手くエピソードが並べられていく。理屈で考えられたエピソードも時々入る圧倒的映像で納得させられてしまう。シンセリズムの音楽が話をグイグイと引っ張って行く。素 (無音)を巧みに使う。「ボーダーライン」もそうだったがこの監督は素を本当に効果的に使う。映像のメリハリと音のメリハリで飽きさせることがない。

 

Kはレイチェルの子ではなかった。双子は捜索を惑わす為のデッカードの偽装だった。レプリカント解放運動の女闘士もこの眼で女の子の誕生を見たとKに言った。“もしかして自分がそうだと思ったの? みんなそう思いたがるのよ(大体の意味)”

Kの木馬の記憶はステリン博士が禁を犯して移植した自分の体験だった。

エピソードは綺麗に並んだ。Kはデッカードの居場所を突き止め、最後の確認をすることになる。

 

満を持してハリソン・フォードが登場する。場所は廃墟と化したラスベガス。デッカードはそこで犬と暮らしていた。犬は本物かレプリカントか。そのホテルはかつてエルビスやシナトラがショーを行った所、彼らのショーがバーチャル映像でフラッシュする。エルビスは「エルビス オン ステージ」の映像? 多分そうだ。

ここまでブレードランナーらしいアクションは冒頭以外ほとんど無い。軸足は完全に自分捜しだった。膨大な予算を掛けたハリウッド大作、大衆受けはMUSTである。ここからは無理してのアクション。デッカードとKが戦う必然性が無い。そこで生殖の秘密を知ろうとするウォレスの忠実な女レプリカント・ラヴが戦いの相手となる。水中での戦いはハラハラドキドキを一生懸命演出してクライマックスを作る。水に浸かって大変な撮影だったと思う。でもここだけが狭っ苦しい。セット感がありありと分かる。もちろんただのアクションではなく、この監督らしく、戦いの中でラヴが強引にKにキスをするという演出がある。戦いながらも共にレプリカントとしての運命を生きるエール、良い演出ではある。しかしこのアクションの一連、無いとエンタメにならないのは解りつつ、どこまで必要だったか。他にクライマックスを作る手立ては無かったのか。無理を承知で引っ掛った。

 

ラヴを倒して、ステリン研究所へたどり着いたKは、中に娘がいる、とデッカードに言う。“俺は君の何なのか?”と確かデッカードは言った (不確か) “Father!”とは言わなかった。Kは沈黙で返した。ステリンの記憶を拠り所に生きて来たKにとってはそうだったはずだ。

深手を負って階段に横たわるKに雪が降り積もる。寿命が近いようだ。しかし一度見ではそれが解らなかった。階段に横たわるKの俯瞰のカットが立っている様に見えた。レプリカントだから死なないだろう位に思った。そのままエンドロールになってしまった。この終わり方だけは一考してほしかった。一度見でも寿命が尽きることを解らせなければ。俯瞰ではなく、Kの真横、そこに雪が降り積もっていく。走馬灯の様に人生がフラッシュバックする。そこにジョイの声がリヴァーブ一杯に響く。“ジョー!”長い余韻が切れたところでエンドロールの音楽がカットイン、そうすれば寿命が尽きることが明解になる。ちょっとセンチメンタルかも知れないが、エンタメは座りが良くなければ。今のままだとあまりに曖昧、そして荒涼としている。レプリカントも人間も同じという存在として死なせてあげたい。

Kが一度だけ微笑むところ、どこだったか記憶曖昧。これが気になるのだが三度見はちょっと億劫だ。

ハリウッド大作のエンタメとしてこんな映画を作ってしまうのだから、プロデューサー、監督は凄い。この監督は「メッセージ」でもそうだったが、深淵なテーマを娯楽映画として見せるテクニックを持っている。見せ方音付けが本当に上手いなぁ。

ベンジャミン・ウォルフィッシュ&ハンス・ジマー、この作品との出会いは彼らにとって幸運の一言に尽きる。メロディー感は最後だけ、そこに若干の不満もあるが、全体として見事なコラボレーションである。作り直しを何回もして、大変だったんだろうなぁ。「ダンケルク」とこの作品で、ハンス・ジマースタイルは極まった。

 

監督. ドゥニ・ヴィルヌーヴ   音楽. ベンジャミン・ウォルフィッシュハンス・ジマー

2017.10.31 「ゴジラ シネマコンサート」 無事終了

2017.10.31「ゴジラ シネマコンサート」無事終了

 

10月31日、「ゴジラ シネマコンサート」15時と19時の二回公演は無事終了。樋口真嗣、富山省吾両氏とのプレトークも、司会の笠井さん (CX) の軽妙な進行で、あっと言う間に終わった。二回とも同じ話をした。二人と、二回目は話を変えて笠井さんを慌てさせようかなんて話もしたが、笠井さんの一回目と一言一句違わない進行と質問に、結局はこちらも同じ話をすることになった。

プレトーク終わって客席に入り、二回とも鑑賞、全くのお客の立場で初めて堪能した。

改めて、良く出来た映画であること、そして現代音楽の様々な技法を駆使しつつ解り易く明解、格調高く映画を支え、より深いものにしている音楽に圧倒された。「砂の器」のエモーショナルとは対極の、これもシネマコンサートにピッタリの映画と音楽であると改めて確認した。この二本以上に邦画でシネマコンサートに向く作品を思いつかない。

生の大編成の弦のあの肌触り、コントラファゴットのソロでも充分な不気味さとちょっとコミカルさ、TPのスカっとした響き、TBやTUBAの低くしっかりとしたリズム、ズシッとくるドラやグランカスターの重い迫力、オーケストラって何と贅沢なものなんだと改めて思った。そしてオケを知り尽くして最大限の響きを導き出す伊福部先生の作曲力に圧倒された。さすが「管弦楽法」(先生の著作) の人である。

 

映画には台詞や効果があり、音楽がフルに全面に出ることはタイトルバックやエンドロールを除くとあまりない。その上当時の録音技術は光学録音だったので、音の高い成分と低い成分はカットされてしまう。どんなにCBの重低音を強調して作曲しても機械的にある周波数以下はカットされてしまう。作曲家は当然それを計算した上で作曲する。それでも録音された音は生の音の一回りも二回りも痩せた音になってしまう。台詞バックでは当然ながらレベルは下げられるし、効果が入るとマスキングされて音楽のデリケートなニュアンスは無くなる。でもこの日耳にしたものは作曲家が意図して書いた音楽がそのまま再現されていた。細かいところまで良く解った。こういうことだったのか。

上映会であると同時にコンサートである。だから二公演とも映画の音よりオケの生音を全面に出したバランスだった。台詞バックでも音楽はフルに鳴っている、そこを字幕が補っていた。僕は、シネマコンサートはこのバランスで良いと思った。映画の忠実な再現より少しだけコンサートに軸足を置く。フルオーケストラという贅沢を堪能しない手は無い。もちろん別の考えもあるとは思う。

 

音楽が全面に出た時、微妙に映画の印象が変わるとも感じた。全体に特撮活劇というより鎮魂の印象が強くなった。先生がかつて「ゴジラ」を一言でいうと、という質問に「異教徒の祝祭と鎮魂」と言われて、何てカッコイイ言い方をする! と参ってしまったことがある。異教の神がお祭り騒ぎをして暴れまわり、最期は鎮められる、”鎮められる” が強まった。

芹沢博士がオキシジェンデストロイア―を発見してしまったことの苦悩を独白するシーン、ここにはCelloのソロがほとんど全体に流れている。しかし映画ではほとんど聴こえない。当日はCelloのソロが堂々と芹沢の苦悩の台詞と対峙し、緊張感は高まり苦悩はより深くなった。

 

シネマコンサートに向いてる映画とそうでないものがある。これはしっかりと見極めなければならない。まずは元の映画自体が多くを音楽に委ねていること。シンプルで骨太なストーリーが一貫していること。台詞や複雑な物語に依拠するものは向いていない。そして音楽の量がある程度あること。最後にだけ決定的な音楽が奏でられるでは、映画は成立するがコンサートとしては成立しない。音楽の量は大きな要素である。

僕が見た中では「サイコ」も「カサブランカ」も「ゴッドファーザー」も向いてないと思った。音楽が生で演奏されて、何て綺麗な音楽なんだと感じるのは始めだけ。耳はそれに慣れてしまい、圧倒的な話の面白さに引っ張られてしまう。観終わって、良い映画を観た感はあったが良いコンサートだった感はほとんど無かった。「スターウォーズ」「ハリーポッター」は未見。多分こちらは向いていたのでは。

ラ・ラ・ランド」(未見) や「ウェストトサイド」(良かった) 等のミュージカル、これはまた別である。「ラ・ラ・ランド」は一曲終わる度に拍手をしてよいと指揮者が言ったとのこと。僕は逆に「ゴジラ」の最初 (オペラシティ) の時、途中で拍手しないようにというアナウンスをしたような(?) テーマやマーチが流れたあとファンが拍手しそうな気がして。ミュージカルは舞台でも1曲終われば拍手が起きる。これはこれで良いのかも知れないが劇映画では避けたい。「ラ・ラ・ランド」は一曲毎に場内の照明も変えたとのこと、映画を使ったライブパフォーマンスという考え方なのだろう。ひとつの考え方ではある。

 

ゴジラ」は映像と音楽が多くを語っている。台詞や物語に引っ張られることはない。

本多猪四郎監督も伊福部先生も、まさかこんな形で再現されようとは夢にも思っていなかったに違いない。映画「ゴジラ」は1954年の技術で完成された作品としてしっかりと残っている。これを少し音楽寄りの視点で再現するというシネマコンサート、きっとお二人とも喜んでくれているのではないか、なんて勝手に思う。

2017.09.11 「散歩する侵略者」 シネリーブル池袋

2017.09.11 「散歩する侵略者」シネリーブル池袋

 

宇宙人侵略物SFの形を借りた、夫婦の再生の物語。

3日程行方不明だった夫・加瀬真治(松田龍平) が別人の様になって帰って来る。妻・鳴海 (長澤まさみ) は上手くいってなかった関係を考えると、遂に限界かと思う。程無くして、真治は“僕は宇宙人なんだ”と言う。その唐突をさして違和感も無く受け入れられる様、いくつかのそれまでと違った日常を重ねる。松田がいつもながらのヌーボーとした無感情でそこにただ居るという演技をして違和感を自然なものに変える。「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) も「モヒカン故郷へ帰る」(拙ブログ2016.4.21) も「夜空は最高密度の青色だ」(拙ブログ2017.5.25) も、考えてみるとみんな同じ存在感だ。台詞のスピード感も同じ。トッピング程度のわずかな表情の違いだけで、どれもストンと役にハマっている。演じているのか地のままなのか、そこに居るだけで役に成り切れる、今や余人を以って代えがたい貴重な役者になって来た。だから「ぼくのおじさん」(拙ブログ2016.11.15) なんてやってはいけない。説明も無くそこに居るという役が良いのだ。宇宙人に乗っ取られてしまった役はピッタリだ。

 

真治 (を乗っ取った宇宙人) は地球を侵略する為に、その先発隊としてやって来た。人間とはどんな習性の生物なのか、その情報を収集して本国ならぬ本星へ送信するのが役目である。地球人から、個別の情報ではなく、その認識形態として“概念”を摂取する。その為に、“ちょっと散歩に行ってくる”と言っては誰彼構わず接触して、“あっ、それ貰った”と概念を集める。『家族』『“の”(所有)』『仕事』等。『所有』を奪われた引き籠りの満島真之介は外に出て明るく生き出す。『仕事』を奪われた光石研は会社の机の上で嬉しそうに大騒ぎをする。

一方、高校生のカップルに乗り移った別の二人の宇宙人は、ジャーナリスト・桜井 (長谷川博己) の前で警官 (児嶋一哉) の『自分』を奪う。奪われた者たちは自らを規程していた拘りから解放され、自由になる。哲学の講義でも聞いている様でいささか図式的、映画的膨らみがない。教会の牧師 (東出昌大) の『愛』は複雑過ぎて奪うことが出来なかった。

後半、乗っ取られた真治と乗っ取った宇宙人が一体化して、鳴海が愛する真治に成ろうとする。夫婦の再生の物語。俄然面白くなる。ヘンな言い方だが宇宙人は人間としては無垢なのだ。それまで絶対に食べなかった鳴海が作ったおかづを食べる様になる朝食のシーンが良い。

宇宙人真治は鳴海を通して『愛』を知る。総攻撃直前、それを本星へ伝えたのか。侵略はギリギリで回避される。もぬけの殻となった鳴海と人間に成り切った真治、“ずっと君を守る(不確か、そんな意味)” とナレーションがかぶる。

黒沢清にしては後味爽やか、ストンと落ちる。特別出演の小泉今日子の台詞、“こんな時期だからこそ侵略者が来たのでは? 人間に根本的なところからもう一度考え直させる為に (大体そんな意味? )”それとなくメッセージも込める。

 

長澤まさみが、極々普通の生活者として、宇宙人になってしまった夫に対する、何寝ぼけてんの、とばかりにあくまで普通に対処して、いつの間にか普通にその事実を理解し受け入れる、普通を演じ切って良い。笑わない長澤、大人の長澤である。綺麗な顔立ちと抜群のプロポーションは地味に日常を演じていても魅力的。飽きそうになった時、長澤の美貌と透けて見えるスタイルの良さはジジイの興味を持続させる。

 

もう一方の二人の宇宙人は高校生カップルに乗り移る際に行きがかり上、殺人を犯す。事件を追う桜井は、二人を密着取材、スクープになるかもと、疑いながらも彼らと行動を共にし、彼らのガイドになる。ガイドは概念を盗まれない。10代の生意気なカップルと中年男、60年代のフランス映画の様なシチュエーション。桜井は少年天野 (高杉真宙) にいつの間にか友情の様なものを感じ始める。最後は寿命が尽きそうな天野に、俺に乗り移れ、俺の身体を使え、と言う。

無表情な松田宇宙人と対照的な熱血地球人、荒唐無稽を違和感なく受け入れさせる、長谷川博己も良い。

 

音楽、林祐介。これまでの黒沢清作品より音楽の量は遥かに多い。サスペンスや思わせぶりや走りや愛に関するところ、かつてのハリウッド・エンタメが付けた所に確実に付けている。音楽を必要としない映像を撮って来た黒沢としては180度の転換である。編成はフルオケ、木管金管チェレスタ、ハープ、弦も大きな編成、コーラスも入る。

真治が散歩する。そこにOb、Claの木管で跳ねる様なリズミカルな曲が流れたのには驚いた。Tubaがボッボッボッと低くリズムを刻む。普通だったら、宇宙人、観念的、ミステリアス、と来ればSynの白玉が定番だ。不可解な異空間、ハンス・ジマーだ。ところがどこか「ペルシャの市場にて」のイントロを思わせる様な (的外れかも) 、日常的でコミカルでさえある感じの曲が流れた。全く宇宙的じゃない。真治がユーモラスに見える。この曲は散歩のたんびに出てくる。他は極めてオーソドックスな劇伴。だから余計に目立つ。恐怖の音楽だったりサスペンスでもよいはずだ。その内この曲が馴染んできた。概念を摂取されたって死ぬ訳じゃない。重い音楽を付けたらホラーになっていた。黒沢は今回、ホラーになることを徹底的に避けたのだ。真面目過ぎる黒沢清のこの映画の唯一のユーモアなのだ。

音楽全体は極めてオーソドックス、生オケによる丁寧な劇伴、いわゆる宇宙的響きは一つも無い。感情に則し、サスペンスを煽り、説明的な付け方もし、往年のハリウッドエンタメの劇伴の世界である。自衛隊も出てくる。爆発もある。殺人もある。音楽はそれらを説明しつつ、でも惑わされることなく、この映画が夫婦の愛の再生の物語であることをしっかりと捉えている。最後は愛のテーマがコーラス入りで流れ、綺麗に纏める。

黒沢はエンタメ映画を作ろうとしたのだ。前半が果たしてそうなっていたかは意見が分かれよう。何より音楽がその意図を充分に汲んでエンタメ映画音楽の王道を奏でた。

それにしても“散歩する侵略者”って良いタイトルだなぁ。

 

監督 黒沢清   音楽 林祐介

2017.09.17   「ゴジラ シネマコンサート」  10/31に開催

2017.09.17 「ゴジラ シネマコンサート」10/31に開催

 

東京国際映画祭のイヴェントとして「ゴジラ シネマコンサート」が開催される。

そのプレトークにゲストとして参加することになった。富山省吾 (プロデューサー)、樋口真嗣 (監督) の両氏と私。実は中島春雄さん(初代ゴジラスーツアクター)が参加する予定だったが、先月急逝され、そのピンチヒッターである。何の肩書も無い、無名の私で良いの? 良いというのでお引き受けした。

ゴジラ シネマコンサート」は2014年7月13日「第四回 伊福部昭音楽祭」の第二部として最初に行われた。シネマコンサートスタイルは邦画としては初である。果たして技術的に可能か、こんなことしてゴジラファンは怒らないか、10分以上演奏が無い時オケの人はどうするだろうか、その時指揮者は座っていて良いものか、イヴェントとしてサマになるか、切符は売れるか、様々な不安を抱えてのスタートだった。

技術的には東宝サウンドスタジオのスタッフが音楽を除去した台詞と効果音だけの音声を見事に作ってくれてほぼ解決した。一体どうやったのか? というくらい完璧に音楽を抜いてくれた。例えばアナウンサーが絶叫する最後の放送、あの台詞のバックには音楽がベッタリ流れている。それが見事にアナウンサーの声だけになっていたのだ。あれは未だに解らない。厳密には声の後ろに音楽は残っているらしい。でも私の耳では解らなかった。ここに生の音楽が被れば、まず誰にも解らないよ。その言葉が心強かった。

切符は売り出したら、あっと言う間に売り切れた。関係者やスタッフの席をどう確保するかを心配する位だった。

当日は、和田薫さんが一番大変だった。譜面を修復した和田さんはそれを画面に合わせて指揮しなければならない。普通のコンサートの指揮と違って、画合わせがあるのだ。テンポは曲ごとにみんな違う。相当練習されていたのだと思う。一つのキッカケも狂うことなく、ピタッと画面に合っていた。

来てくれた人はみんな喜んでくれた。ホッとした。

 

2015年1月18日、NHKホールで二回目をやった。前ほどの不安は無かったが、会場が広いので若干のPA (音量増幅) を使った。通常オーケストラの演奏会でPAは使わない。前回は使わなかった。NHKホールは大きいので若干PAを通した方が迫力が出ると音響スタッフからのサゼスチョン。でも使いすぎると生オケの良さが無くなる。その塩梅が難しい。それを絶妙にやってくれた。音としては前回より良かった。これは場所ごとに必ず付いて回るものなのだ。

その晩のツイッター樋口真嗣氏がお褒めの言葉をつぶやいてくれていた。

 

その後、京都、福岡と行った。札幌でもやるとのこと。そして10月31日の東京フォーラムCである。

洋画のシネマコンサートは花盛り。「スターウォーズ」には負けられない。

 

http://2017.tiff-jp.net/ja/godzilla_concert/

2017.09.15 CD 「ゴジラ伝説Ⅴ」

2017.09.15 CD「ゴジラ伝説Ⅴ」

 

1983年、アルバム「ゴジラ伝説」を制作した。プロデューサーは私と藤田純二氏 (当時はキングレコード、その後独立してユーメックスを起こす) 。プロデューサーと言ってもビジネス周りをやっただけで企画とサウンドプロデュースと演奏は井上誠がやっている。井上君はヒカシューのKeyboard、当時ヒカシュー巻上公一のVocalで“二十世紀の終わりに恋をしたら~”がヒットしてメジャーなバンドだった。

始まりは特撮オタクが持ってきた1本のカセットテープ、聴くと伊福部特撮映画音楽をSynで自宅録音したものだった。もちろん「ゴジラ」も入っている。面白いと思い、藤田さんに話をしてキングからのリリースを決めた。宅録をそのままレコード化は出来ないのでキングのスタジオで録り直すことになった。ヒカシューのメンバーを始め、ゲルニカ(上野耕路戸川純) やら何やら、連日井上君の仲間が入れ代わり立ち代わりしてレコーディングに加わった。精々一週間もあればと高をくくっていたのが一か月かかった。ローバジェット企画がそうではなくなってしまった。

ちなみにレコードはもちろんLPである。

有り難いことにそれなりに売れてキングに迷惑を掛けることにはならず、調子にノッて「ゴジラ伝説Ⅱ」「ゴジラ伝説Ⅲ」まで作り、今は無き渋谷東横ホールでライブまでやった。壊す直前だった。その後CDBOXとして3枚に何曲かの新録音を加えて「ゴジラ伝説Ⅳ」がリリースされた。その頃はもう僕や藤田さんの手から離れていた。

 

何年か前、渋谷クワトロで「ゴジラ伝説」ライブがあった。管3本、キーボード2、Dr、EG、EB、Vocal巻上公一 + チャラン・ポ・ランタンという編成。かつての「ゴジラ伝説」とは比べようもない狂乱の祝祭空間を現出させていた。メロディーをSynでなぞっていた頃から比べると、伊福部音楽への理解は比べようも無い深みに達していた。

 

本年4月、そのメンバーで何とNYライブを決行した。“ゴジラ”という追い風に乗って「ゴジ伝」ライブを彼の地でやってのけたのだ。あのトランスはニューヨーカーにも通じるはずだ。

レコーディングもしてきた。それが「ゴジラ伝説Ⅴ」として9/20キングレコードよりリリースされる。9/21には発売記念ライブが調布仙川劇場で行われる。

35年という時間を味わいに行こうと思う。

2017.09.01 「エル  ELLE」 日比谷シャンテ

2017.09.01「エル ELLE日比谷シャンテ

 

よくぞまあここまで今の様々な問題をぶち込んだものである。情報量は大変なもの。それを単なる羅列に終わらせず、有機的に物語として、しかも一級のエンタテイメントとして纏め上げた脚本と演出は大変なもの。それもイザベル・ユぺールという肉体があったからこそであることは言うまでも無い。

レイプ、変態、親友の夫との情事、色ボケ老婆、散骨、レズ、それらを全て抱えて、ゲーム会社を切り盛りするアラフィフ(?)の 、強靭な精神とエロティックな肉体を持つミシェル (イザベル・ユぺール) 。遠くにいつも服役中の父親が居る。幼児を含む多数の殺害を犯したらしい。ミシェルが10歳の時。ファザコン? いやもしかしたらファザーファッカーの影もうっすらと有るのかも知れない。

冒頭、黒味にガチャン! とガラスの壊れる音だけがカットイン、サスペンスとしては上々のスタート。突然飛び込んで来た覆面の男にレイプされる。描写は生々しい。レイプ魔が立ち去った後、警察に通報するでもなく誰かに助けを求めるでもなく、平然と散らかったガラスの破片を片付け、浴槽に身を浸す。白い泡の奥から血の赤が浮き出てくる。次のカットは翌日、何事も無かったかの様に足早に出社する彼女。若いゲームクリエーターにダメを出す。警察へ届けないのは父の事件のトラウマがあるかららしい。若い社員から尊敬されてはいるが、好かれてはいない。たたみ掛ける編集、無駄なカットは一つも無い。

初めのうち、若い男、中年の男、会社の男、隣の男、次々に現れる男たちとの関係が解らなかった。全員、ミシェルの男に思える。イザベル・ユぺールだからそう見える。話が進むにつれて、それが息子であったり元夫であったり親友の旦那であったり隣人であったりが解って来る。少しづつ解って来る手際が見事だ。説明調は一切ない。自然に、会話と話の展開の中で解らせていく。犯人を捜すということは自分の置かれている今の状況を解明していくということなのだ。

カフェで突然初老の女から酷い嫌味な仕打ちをされる。“人殺しの親子が!”というような言葉を吐き捨てられる。ミシェルはそれに腹立てるでもなく、ただ受け止める。10歳からこの方、世間からずっとこんな仕打ちをされてきたのだ。世間と戦い続け、今のポジションを獲得した。父親が何で事件を起こしたかが短く語られたが、多分これは重要なポイントであるにも関わらず、全部を聞き取れなかった。ミシェルは警察も世間も敵だと思っていることは確かだ。自分だけを信じて生きて来たのだ。

だからレイプ魔を自分で突き止め様とする。犯人は妻も子もある隣人の男だった。

 

別れた夫は売れない作家でゲームの企画でミシェルの世話になっている。若い女が出来るが捨てられる。息子は、お腹の子供が自分の子でないことを承知で生意気な小娘と結婚する。小娘は息子をアゴで使う。元夫も息子もどこかでミシェルに依存している。

親友の夫と浮気をしたがそれはセックスをしたかっただけ。そう告白しても、親友との友情は壊れない。女同士、夫婦を超えた絆がある。二人はレズのセックスを試してみるがそれは上手くいかない。ミシェルの老母は若いマッチョ男に入れあげ、結婚すると息巻く。フランスのババアは凄い。ネットでミシェルを中傷する映像を流した会社の若いオタク男は、ミシェルに言われるままにペロッとオチンチンを出す様な奴だ。レイプ魔は子供もいるエリート、でも変態。妻は敬虔なクリスチャン。引っ越しの別れ際に、短い期間でしたが夫に付き合って下さりありがとう、と言う。全てを承知していたのだ。

男はどいつもこいつも優しくて情けない。自立していない。女はみんな逞しくて自立している。男は今や女の物語の背景でしかなくなった。主役は女だ、それもアラフィフ。

唯一、大人の男はトラウマの父親だけだったのかも知れない。母の遺言でミシェルが刑務所に面会に来ることを知った父親はその前に自殺する。この辺、僕には良くくみ取れなかった。その辺が解ればもっと深く楽しめたのだろう。が、解らなくても充分に面白い。アラフィフやり手女の、トラウマと遍歴と家庭と性的欲望が、丸ごと鷲掴みで描かれる。つまりは今の女の置かれた赤裸々な状況だ。それがちょっとだけデフォルメされてエンタメになっている。宗教の問題も入っているが、この辺は僕には解らなかった。

全体はサスペンス、音付けも冒頭のガラスの壊れる音や、CGゲームの音などをカットインしてあざとい位のメリハリ。話の展開も早い。余計な説明余計なカットは一切無し。女はいつも早足で歩いている。

音楽はサスペンス映画音楽の王道、弦を主体にしてマイナーの短い動機を繰り返す。多くはないが必要なところに絵合わせできちんと付けている。話の展開の速さについ音楽の細部を記憶し切れなかった。二度見する必要があるか。

 

最後は男どもの関係を全部チャラにして長年の親友と同居、レズへのトライだ。ラストカット、二人で墓地を歩いて行く後姿のなんとカッコイイことか。男の割り込む空きなんてない。

凍り付くような孤独を抱えつつ男と世間への積年の恨みを体現する、しかもそれを柔軟にやってのける、フランスのアラフィフ女は怖い。イザベル・ユぺールという女優あってのことか。

 

平日昼間、日本のおばさんたちで混んでいた。自立する女の映画くらいのつもりで見に来たか。きっと度肝を抜かれたことだろう。久々にエロくて痛快な映画を観た。

 

監督 ポール・バーホーベン   音楽 アン・ダッドリー

2017.09.05 「幼な子われらに生まれ」 テアトル新宿

2017.09.05「幼な子われらに生まれ」テアトル新宿

 

田中信(浅野忠信) は一人娘沙織(鎌田らい樹)の親権を渡してキャリアウーマンの友佳(寺島しのぶ)と離婚した。娘と定期的には会っている。今日はその日、遊園地で観覧車に乗っている。良い関係の様だ。信が唐突に、もし(今の妻との間に) 弟か妹が出来たらどうする? と聞く。エッ? そうか、あたしがはじき出されることになるんだ。でも真剣には取り合わない。そう装ったのかもしれない。これがアバン。謎解きサスペンスの様。上手い導入。

信は、二人の娘を抱える奈苗(田中麗奈) と再婚し、実の娘の様に可愛がり、娘たちもなつき、幸せな家庭を営んでいる。奈苗の離婚は夫のDVが原因だった。

事情が説明されないまま信と娘たちのやり取りが描かれるので想像力で補わざるを得ない。大体のアウトラインが掴めた頃、答えの様にカットバックで過去の経緯が説明される。この展開も上手い。

奈苗が妊娠した。これをキッカケに寄木細工家族が一気に軋み出す。上の娘・薫は6年生、別れた沙織も同じ位か。自分に目覚める、一番揺れる年頃。親の勝手のシワ寄せが一番デリケートな所に表出する。それでなくても当たり所を探しているような年頃、実の父親ではないなんて格好の標的だ。

親の勝手で娘に余計な負荷を掛けていると思うと辛い。それを信は一人で引き受ける。ここ数年は会社の付き合いもせず、煙草も止め、有給は目一杯取っている。一流会社のエリートサラリーマン、かつては将来を嘱望されていたようだ。仕事よりも家庭を選んだ。娘たちへの責任を選んだ。今は配送子会社に出向となり、倉庫内で荷物集めをしている。

“だって本当のお父さんじゃないもん、本当のお父さんに会いたい!” これは辛い。1~2年して彼氏でも出来る頃になるとそんなことどうでも良くなるのかも知れない。この時期さえ乗り越えれば。でもこれ私の様に何十年も前にそんな時期を経験をしたジジイが振り返って言えること、当事者は娘も父も心はパンパンなのだ。

この時受け止めてくれる人がいないと、コンビニでたむろして悪い友達とつるんだりする。或るいは引き籠る。人生で最もデリケートな季節。

娘とは上手くいかない、会社でも上手くいかない、そこに病気でも重なったら三重苦で立ち上がれなくなる。間が悪い時には得てして重なるものだ。周りを見ればそんな奴、けっこう居る。

信は病気にはならなかった。二重苦で頑張った。二人の娘を必死で受け止めた。でも一度、妻にキレた。堕ろすしかないだろう、と言ってしまった。これで妻とも決定的となった。家を飛び出して駅前の煙草の自販機の前。今、煙草の自販機はタスポがないと買えない。持ってなかったのだ、きっと。思わず見知らぬ人から貰い煙草をする。車の中で久々の煙草を深く吸う。あの気持ちが手に取るように解る。きっと軽いやつだ。10ミリじゃ咳き込んでしまう。煙草は健康には良くない。でも精神衛生上は良いことだってあるのだ。

本当に惨めな時って日常の何でもないことまで上手くいかない。貰い煙草の演出は身につまされる。

行方知れずだった薫と恵理子の父親・沢田(宮藤官九郎)を信は探し出す。家庭には全く向かない男。娘に会ってくれと頼むと金を要求するような奴だ。会ってももう分からないし会いたくもないと言う。頼み込んでデパートの屋上で会う段取りをする。当日沢田はきちんと背広を着て縫いぐるみのプレゼントを抱えてベンチに座っていた。これにはこみ上げてしまった。実の親子、血のフィクションとはかくも強固なものか。役者としてのクドカンを改めて見直した。

薫は結局行かなかった。始めから会ってどうなるものでもないことは解っていた。信は縫いぐるみを薫に渡す。それを抱えながら薫は信の胸に泣き崩れる。こっちは血を超えた。

友佳の再婚相手は信と同じように沙織を実の子のように可愛がってくれた。その父の様な人が病気で余命幾ばくもない。沙織は、近所の仲の良いおじさんが死にそうな感じ、涙が流れないと言う。でも病院でお父さんの様な人が息を引き取る時、沙織は、“お父さん!”とオイオイ泣いた。こっちも血を超えた。

血を超えたり超えなかったり、実はそれはどうでもよいことなのだ。確かに血の繋がりは家族の科学的裏付けに基づく最後の砦かも知れない。しかし心はそれをやすやすと乗り越える。

 

幼な子が生まれた。病院で、薫、恵理子、信が迎える。覗き込む信のアップ。映画はそのストップモーションで終わる。サラリと終わって好感が持てる。

切り替えして幼な子の主観でみんなをパンする、なんて終わり方もあったか。新しく家族に加わります、よろしく!

 

音楽は必要最小限。Pfが間隔を置いてボロンボロンと単音に近い音を付ける。うしろにSynのパッド。中盤でAGが少し入る。Pfとユニゾンでメロディーを弾く(?)。記憶曖昧。遠くから家族を見つめる音楽。これで充分。呉美保の作品を手掛ける作曲家。

浅野のストップモーションの後はローリング、ここにも劇中と同じ間隔を置いたPfの曲が流れる。最後は優しいメロディーで包み込むという手もあったのでは。

 

例えば、幼な子の主観で家族を見回すラストカット、そして優しいメロディー(ここだけ弦で)が流れる。癒しではなく、家族として出会った奇跡への感謝。三島有紀子(「しあわせのパン」をDVDで見ただけだが) らしくはあるが、荒井晴彦 (脚本) らしくはないかも。

 

頑張る浅野忠信が良い。訳の分からない犯罪者をやるよりホームドラマで頑張るお父さんの方が好きだ。田中麗奈は地で行っているとしか思えない位普通の女に成り切っている。ちょっと出るだけでも寺島しのぶの存在感は圧倒的だ。役者クドカン、見直した。そして娘3人は何と自然だったことか。それらを引き出した監督、こんな才能が居たんだ。

 

監督 三島有紀子   音楽 田中拓人