映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.12.27 「勝手にふるえてろ」 シネリーブル池袋

2017.12.27 「勝手にふるえてろ」シネリーブル池袋

 

自意識過剰で妄想癖の恋愛初心者ヨシカを松岡茉優が熱演。憧れのイチには鼻も掛けられず、二の本気度に気付いてハッピーエンドとなる、あまりにもよくある話。イチとは高校の頃から憧れ続ける一番好きな人。二とは告ってくれた会社の同僚。バーチャルとリアル。妄想と自意識を総動員して当たり前の青春映画との差別化を図る。随所に、タモリ倶楽部のTシャツやらアンモナイトやら、おじさんでも解るギャグ小技が満載。これ、てっきり漫画が原作? 差にあらず、芥川賞作家綿矢りさでした。きっと過剰反応する自意識が事細かに書き連ねてあるのだろう。読んでないのに言うのも何だが好みではない、多分。それを如何に面白い映画にするか。それなりに頑張っている。普通の映画にしてなるか、という意気込みは感じられる。何より松岡茉優が熱演、キャラも合っている。しかし弾けているのは彼女だけ、映画自体が弾け切れてない。ポップじゃない。中島哲也が撮ったらなぁと思った。このネタ、やらないか。

下妻物語」には地方のダサさと都会のオシャレが難無く飛び越えられる面白さがあった。それをポップに映像化した。こちらは全てが主人公の中で自己完結する。それはそれで良いのだけれど、勝手な思い込みでストーカーをしたり殺人を犯すような時代だ。二が現れないヨシカだっている。例えばオカリナさん (片桐はいり) の隣に二が現れないブラック・ヨシカが住んでいたって良い。いつも節目がちだけどアンモナイトの話だけはヨシカと盛り上がると言うような。そして彼女がストーカー事件を起こしてしまう…

オカリナさんも釣りおじさん (古館寛治) も駅員さん (前野朋哉) も脇は中々、みんな彼女を応援する善意の人ばかり。かつてのハリウッドミュージカルだ。どこかにちょっとした毒があれば話に深味が出た?

映画が漫画チックなので音楽もタッチ音楽やら説明的。こういう映画こそ一つメロを決めて通すようにすれば。そのメロが歌になり、予算の無い中での一点豪華なミュージカルシーン。ミュージカル風、有るにはあるがチープ、歌も印象に残らない。

イチとアンモナイトの話で盛り上がる唯一のラブシーン。その後の、“君、名前何て言ったっけ” (不確か) 、この落差など音楽的演出は出来たはず。(もしかしたらあったのかも。私の記憶に残ってないだけか?)

会社休んで引き籠り、携帯が鳴って飛びつくなんて、同じような女の子には “ワカル!” という小技が沢山あるのだろう。しかし小技の “ワカル!” は映画を縮こませる。大枠があっての小技である。この種の映画、リアルである必要はない。もっと大袈裟で良い。

 

監督 大九明子   音楽 高野正樹

2017.10.10 「ダンケルク」 新宿ピカデリー

2017.10.10 「ダンケルク新宿ピカデリー

 

今頃「ダンケルク」、昨年秋の映画。二度見したかったのだが、その機会を逸した。直後のメモを頼りに記す。細部の記憶は曖昧。

 

映画は文学と美術と音楽と科学技術を総動員して作り出す表現である。そこから出来る限り文学性を取り除いたら…

ダンケルク」は台詞と物語を出来る限り排除する。「ダンケルク」というだけですでに歴史的事実は了解されている。その歴史的事実を改めて検証する、あるいは新たな視点から描く、という作り方だってある。この映画はそれらを全て排除する。ダンケルクというイギリスとは目と鼻の先にあるドーバー海峡沿いの街に追い詰められた若き兵士が生き延びようと必死でもがく姿だけを描く。

のっけから何の説明もなくひと気の無い街を若者が逃げ惑う。そこに銃弾が降り注ぐ。敵の姿は無い。何処からともなく降り注ぐ。海岸にたどり着くとそこには何万という兵士が海の向こうからの救出の船を待っている。荒涼とした砂浜に列を作る兵士達の灰色の大ロングが詩的でさえある。逃げ込める場所などないそこに、敵の爆撃機が機銃掃射してくる。面白いように兵士は倒れて行く。その中で生き延びようとする若者…

座礁した船がある。満ち潮になれば動くかも知れない。何人かがその船にたどり着く。船倉に身を隠して満ち潮を待つ。船が動いた時、機銃掃射が船倉に穴を開け海水が侵入してくる。甲板に出れば銃弾が待っている。

時々、兵士たちを守るべく敵の爆撃機と戦う空軍兵士のシークエンスが入る。機上からの見た目の空撮が、この海岸にいかに多くの兵士が追い詰められているかを一目で解らせてくれる。みんな生き延びたいと必死の若者たちだ。

台詞は極端に少ない。物語は “生き延びたい” だけだ。砂浜、船倉、機上、ランダムに繋げているが躓くことはない。エピソードごとの中心の役者はいるが、ほとんど僕には同じに見える。端正な顔立ちで人気者もいるらしい。個々の役名は不要だ。設定も不要だ。何とか “生き延びたい” ともがく若者がいる、それで充分だ。戦争のリアルってこういうことなのだ。

もがく若者にほとんど同化している自分に気づく。だから必死になって、疲れる。

塚本晋也の「野火」を思い出した。あそこにも戦争のリアルがあった。

台詞と物語をベースにそれを映像化して映画の世界を作る、それもあっていい。というかそれが通常で主流だ。一方で、映像と音で疑似体験空間を作るのも映画だ。但しこちらの極端な例はテーマパークのイヴェント映像だ。「ダンケルク」は劇場公開用劇映画にしっかりと留まる。

コマーシャリズムの映画である以上、最低限のドラマ設定はやむを得ない。それをケネス・ブラナーとマーク・ライアンスが担う。ケネス・ブラナーは全員救出など無理なことは端から解った上で、一人でも多くを救いたいと奮闘する英国の指揮官、マーク・ライアンスは同じ思いで小舟を出す漁師。“生き延びたい” 以外のドラマはこの二人の名優で充分だ。

音楽はハンス・ジマー。確か最後の方、一箇所だけ救出成功 (もちろん一部)  のところにメロディーが高らかに鳴る。それ以外メロらしいメロはない。全編ベタ付け。感情移入を誘発する様な音楽は細心の注意を払って排除する。そうしないとウソになる。状況を作り出すこと、映像の運びをスムーズにすること、に徹する。違う音楽の付け方があるとすれば、音楽を全く無しにすることくらいだ。ベタ付けは嫌いだが、この映画に関する限り上手くいっていると思う。ハンス・ジマー的音楽の付け方の、これと「ブレードランナー2049」は到達点の様な気がする。

本当はケネス・ブラナーもマーク・ライアンスも高らかに鳴るメロも無しにしたかったのかも知れない。“生き延びたい” だけの映画。でもそれは膨大な予算を掛けたコマーシャリズムの映画には無理な話。ギリギリのところでこの監督は劇場用映画を作り上げた。

僕はダンケルクの海岸に二時間居た。

 

監督 クリストファー・ノーラン   音楽 ハンス・ジマー

2017.12.23 「『羅生門』『用心棒』」上映会」 1/20に開催

2017.12.23 「映画音楽の名作を観る-黒澤明監督特集『羅生門』『用心棒』」上映会」、1/20に開催

 

練馬区文化振興協会主催で「映画音楽の名作を観る-黒澤明監督特集『羅生門』『用心棒』」上映会」が来年 (2018) 1月20日 (土) に開催されます。2作品の上映の合間のミニトークにお声が掛かりました。私如きでよろしければということで、お引き受けしました。邦画の映画音楽に焦点を充てた珍しい企画、こんな上映会をするなんて私としては嬉しい限りです。『羅生門』の音楽は早坂文雄、『用心棒』は佐藤勝、師弟の関係です。共に黒澤映画を支え、また黒澤の要求に苦しみ戦った二人です。

映画監督がどうしても御することが出来ないのが音楽家と言われています。監督が自分の意向通りに作曲させる、音楽家から引き出す、これは至難の技です。まずは”言葉”で意向を伝えますが”言葉”の意味は人それぞれに微妙に異なる。音楽という抽象を伝えるのに”言葉”は非力です。そこでクラシックやら具体的な音楽を”こんな感じ”とコミュニケーションツールとする。この具体は音楽家を悩ませることになります。音楽をめぐるコミュニケーションは両者を疲れ果てさせます。それでも音楽が思い通りに行かない世界の巨匠たちは、年齢による思考の硬直化もあるのでしょう。晩年は伝えようとする努力をしなくなり、既成のクラシックの選曲でやるようになっていく。ようやく思い通りになった。でも監督の演出意図を超える音楽の掛け算効果はない。確実な予定調和の足し算効果止まりです。黒澤の最後の2本「八月の狂詩曲」「まあだだよ」はクラシックの選曲でした。

そうなる前の黒澤の必死で音楽家とコミュニケーションを取ろうとしていた頃の代表作がこの2本です。

黒澤と音楽家たちの戦いについては既に多数の書籍が出ています。当日、私に与えられた時間は20分位、深い話は出来ないし、私は研究者ではないのでその能力もない。佐藤 (勝) 先生から聞いた話などをランダムに話してみようと思います。

 

日時   2018. 1. 20 (土)  開場 12時30分

場所   練馬文化センター小ホール 西武池袋線練馬駅徒歩1分

全席指定 1000円

チケット 練馬文化センターチケット予約専用電話 03-3948-9000 (10時~17時)

         ネット予約販売 http://www.neribun.or.jp/

         練馬文化センター大泉学園ゆめりあホール窓口(10時~20時)

2017.12.05 佐藤勝、18回目の命日

2017.12.05 佐藤勝、18回目の命日

 

あっと言う間の一年である。12月5日、南大塚の西信寺にお参りに行ってきた。黄色く色付いた巨大な銀杏の木が初冬の抜ける様な青空に映えていた。境内は落ち葉で埋め尽くされている。ここは佐藤先生と千恵子さん (奥様) が最初に所帯を持った所である。境内の一角にあった家を借りたとのこと、今の御住職がまだ子供で先生たちは随分可愛がったそうである。葬儀の時はその方が務めて下さった。

先生の奥様の千恵子さんはシャンソン歌手である。CDも出している。でも先生は奥様の為に曲は書いていない(はずだ)。コンサートにもあまり顔を出していなかった。ちょっと距離を置いていた様である。僕は何回か小さなお店でのライブに行ったことがある。そこで千恵子さんは必ずPfバックに「一本のえんぴつ」を唄った。これは絶品だった。

「一本のえんぴつ」は1974年に行われた第一回広島平和音楽祭に美空ひばりが出演することになり、急遽、松山善三 (作詞) と先生とで一晩で作ったという、知る人ぞ知る名曲である。色んな人がカバーしている。美空ひばりも良いが千恵子さんのそれは圧倒的だ。完全に自分のものにしていて、千恵子さんの為に書いたようである。

七回忌の時、「佐藤勝 ソングブック」(東宝ミュージック ネットショップ発売) というCDを作った。先生は歌も沢山書いていて、「若者たち」(作詞.藤田敏雄、歌.ブロードサイド・フォー) や「恋文」(作詞.吉田旺、歌.由紀さおり) や「昭和ブルース」(作詞.山上路夫、歌,ブルーベル・シンガーズ) というヒット曲もある。それらの音源を集めてソングライター佐藤勝のアルバムとして纏めた。

先生と千恵子さんの歌を一曲づつ入れることにした。先生は歌も上手で、発足間もないトリオレコードから自作自演のアルバムも出している。シンガーソングライターである。その中の「馬車馬のように」(作詞.伊藤アキラ)を収録した。

千恵子さんの一曲は新録することにした。もちろん「一本のえんぴつ」である。実はこれをやりたかった。Pf 掛け合いスタイルも良いが、弦を入れたオケをバックにするとさぞ良いものになるのでは… 編曲は上野耕路に頼んだ。出だしはPfとの掛け合い、途中から厚い弦がそっと入る。先にオケを録って歌は後からDB。掛け合いスタイルに慣れてしまっている千恵子さんは歌入れの時、唄い難い唄い難いと文句ばっか言っていた。生の掛け合いに慣れてしまっているとガチッとリズムが出来たオケで唄うのは随分勝手が違ったかも知れない。でもコツを掴むとさすがに歌い込んでいる曲、今時のピッチ合わせなんて不要だった。

さり気なく静かに静かに“戦争はいやだ”と歌う。軽くスウィングする様に唄う。ジワッと沁みてくる反戦歌である。

2番に“一枚のザラ紙があれば私は子供が欲しいと書く”という歌詞がある。先生たちに子供は居なかった。欲しかったらしい。千恵子さんがそう唄う。数多ある「一本のえんぴつ」の中で千恵子さんのこの録音は今だにベストだと思っている。

自分勝手で我儘な愛すべき人だった。先生が亡くなった後、千恵子さんは“佐藤っていい人だったわよね”と繰り返し言うようになった。その7年後、千恵子さんも亡くなった。

2017.11.29 「Ryuichi Sakamoto:CODA」 角川シネマ有楽町

2017.11.29「Ryuichi Sakamoto:CODA」角川シネマ有楽町

 

坂本龍一、65歳。9.11があり、3.11があり、自身が癌になり、かつてYMOで世界を席巻し、大島渚と「戦場のメリークリスマス」(1983) で出会い、ベルトリッチの「ラストエンペラー」(1987)「シェリタリング・スカイ」(1990) を担当し、癌の闘病中もイニャリトウの「レヴェナント」(2015) を好きな監督ゆえに受けてしまう。それぞれのエピソードが総花的に並ぶ。映画のシーンも幾つか挿入される。権利処理はさぞ大変だったことだろう。

初めから意図を持って作るドキュメンタリーも良いし、作る過程でテーマが浮かび上がってくるでも良い。最初に想定したテーマが製作の過程で別のものになることだってドキュメンタリーにはある。今までとは違う人物像が浮かび上がる、でも良い。

今更ながら、著名な人であり、様々な活動も知れ渡っている。それがただ並ぶ。残念ながらそこから立ち昇るものが無い。映像による「坂本龍一・入門」、それを劇場公開のドキュメンタリー映画として見せられてしまった。期待し過ぎたこちらがいけなかった。

 

映画が思ったより彼にとって大きなものであることは意外だった。脚本や監督やプロデューサーという他者の意向の下で100%自由な創作が出来ないことの不自由さ、逆にその面白さ、そこからの新しい自分の発見、それは映画音楽をやる作曲家の醍醐味であり、そのコラボがダメな人は映画音楽に向いていない。これは能力ではなく向き不向きの問題だ。坂本はそれが楽しめる方の人らしい。

「戦メリ」で出演依頼があった時思わず、音楽もやらせて下さい、と言ってしまったこと、「ラストエンペラー」で明日戴冠式の撮影をやるから音楽を作ってくれと突然プロデューサーのジェレミー・トーマスに言われて徹夜で作曲したこと、「シェリタリング・スカイ」の音楽録音現場でJ・トーマスからダメ出しが出て、モリコーネはその場で書き直してくれたと言われ、ミュージシャンを待たせてその場で書き直したこと、どれもエピソードとして一つ一つ面白い。海の向こうもこちらと変わらないんだとちょっと安心したりする。映画の人はいつも突然で強引だとは全く同感。その片棒を担いできた者としてはスイマセンと謝りつつも安心したりする。それぞれ面白いエピソードがブツ切りで並ぶ。僕としてはその辺をもっと突っ込んでほしかった。でもそうすると一般性は無くなるか。

 

同世代である。癌を患った。この人、宇宙の果てに思いを馳せている人だなあと感じた。若い頃のツッパリが抜け、飄々穏やか、この姿は素敵だ。音楽とは何か、という源流に遡っている。自然が発する音への関心が語られる。北極にまで、音を釣りに行く。決してこれまでの構築された音楽を否定するわけではない。でもそれが作り上げられた以前、音楽の源、音の原型に関心が向いている。そこを掘り下げるドキュメンタリーにするのは難しかったか。虚構の手を借りる必要が出てくるかもしれない。そうすると別物になってしまうか。自身のアルバムでそれを表現しようとしているのかも知れない。

ドキュメンタリーとしては羅列を超え切れず、底が浅い。でも今の坂本龍一は実にイイ感じになっていることは伝わる。

劇伴に相当するものはない。演奏シーン同録の坂本の音楽が多数。

 

監督.スティーブン・ノムラ・シブル  音楽.坂本龍一

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

 

二度見した。一度目は ”タイレル社” や ”レイチェル” と言う言葉を聞いて一気に30年前に戻り、前作を観た時の衝撃を思い出した。灰色に煙るLAの高層ビル群をぬって飛行するブレードランナーの空飛ぶ車、それを俯瞰で捉えたカット、シンセで作るリズム、地上にはビチャビチャと雨が降り、猥雑この上ない。返還前の香港の裏町の様。見上げるとビルの壁面に映し出された巨大な女が手招きしていた。今作ではそれがホログラフで浮き出て来る。あちこちに日本語が氾濫、Oh! ブレードランナーの世界。

30年ぶりの再会に興奮して、話を追い切れなかった。ただ、時々唐突に流れる、劇伴とは全く異質の、明るく汚れのない音楽が気になり続けた。もしかして「ピーターと狼」(以下P&W) ? まさか。ちょっと流れてはブツ切りとなる。精々一小節、二小節は流れない。ウルトライントロ当てクイズだ。何回聞いてもP&Wの出だし。ホログラフのジョイ(主人公Kのバーチャル彼女) の所に流れるから、ジョイのテーマとしてのオリジナルか。それにしては付け方があまりに無造作だ。エンドロールは膨大でどこに音楽関係があるかも分からないまま終わってしまった。

圧倒的映像、シンセのリズムで作り出す音楽の迫力、ジョイは何て可愛いんだ、あの曲はオリジナルそれともP&W ? 一度目はこれだけで終わってしまった。

P&Wだけでも確認したい。エンドロールの既成曲クレジットを見れば解るはずだ。ということで二度見となった。

 

良く出来た映画は一度見だけでは映画が持つ情報量の半分も解らないかも知れない。二度見で解ることが山の様にある。結論が分かっていても、そこに至る伏線小技が一つ一つ納得して行けて一度目より感動したりする。名作は何度見にも耐えられるものだ。

 

エンドロールの終わりの方、既成曲クレジットの中にP&Wはあった。やっぱりそうだった。ジョイが現れる時のジングル、着メロの様なもの。ウォレス社のジングルあるいはKがそう設定したのか。これで唐突に流れてCOするのが納得出来た。シンセだが劇伴とは全く違う音色、灰色に淀む中でここだけ晴天という感じだ。でも何故P&Wなのか。曲調がノー天気な位明るくて健康的で汚れがないのでコントラストが付くという理由は容易に考えられる。でもブーでもピーでもボロンでも良かったはず。映画音楽としてではなく、現実音として流れる訳だからもっとさり気なくても良いはずだ。音量は決して小さくない。しっかりと耳に付く。全体を通した時、この曲が唯一ピュアな点としてあることに気付く。ジョイという存在がそういうことなのだ。この選曲は大成功。でも何故P&Wなのか。曲調以上の意味があるのか。解る人は教えてほしい。

 

主人公はK (ライアン・ゴズリング)、ブレードランナーとして旧型レプリカントを解任 (殺害) する使命を帯びた新型レプリカントである。LAの雑踏を歩く時、“人間もどき”“もどき”の罵声が飛ぶ。ブレードランナーというポジションはたむろする人間たちより多分上なのだ。地球に残されている人間は切り捨てられた人々、選ばれた人々は汚染された地球を捨て9つのコロニーに居るらしい。そこを維持する為に地球がありレプリカントがいる。“もどき”の罵声は、移民のくせして俺たちより良い仕事についていやがる、に聴こえる。人間対レプリカントレプリカントの中でも新型と旧型、LAを囲む巨大な城壁の外Out of worldにはさらなる下層の人間とレプリカントが汚染の中で生きている。これをアメリカの現実いや世界の現実として読み解くことは難しいことではないかも知れない。しかしそれは製作者の本意ではないはずだ。本作は“人間もどき”が人間かも知れないと意識する物語、自分とは何か、を追い求める物語なのだ。レプリカントの苦悩はそっくりそのまま僕ら人間に置き換えられる。

前作でルトガー・ハウアーは寿命が尽きる寸前にデッカード (ハリソン・フォード) を救う。レプリカントにも心があった! で終わる。今作はそれを生物学的視点からアプローチする。生殖能力の有無である。

冒頭、解任される旧型レプリカントがKに最期の言葉として言う。“お前は奇跡を見たことが無い” 奇跡とは… 

レイチェルの遺体の帝王切開の跡、レプリカントが妊娠していた、そして子供を産んだ、レイチェルはそれがもとで死ぬ、子供はどこかで生きている!

タイレル博士 (フランケンシュタイン博士、それとも神? ) は完全な人間を創っていたのだ。

このことが知れたら人間とレプリカントの垣根は壊れる。レプリカントは人間と同等の要求をしてくる。

Kの女ボスがこの事実を無きものにせよと命令する。製造されたレプリカントを解任する指令は受けているが、誕生したレプリカントを解任することはインプットされてないと答えるK。“命令に背くの?”“命令に背くという選択肢はありません”

レイチェルの遺体が埋められていた場所に立てられていた白く立ち枯れた木、その根元に6-10-21という数字が彫られていた。Kが大切にしている木馬の置物にも同じ数字が刻まれている。偶然の一致か。Kは子供の頃、養護施設で仲間の少年たちからそれを奪われそうになったという記憶を持つ。しかし子供の頃の記憶は植え付けられたものであることを知っている。でももしかして… ここからKの自分捜しの戦いが始まる。

 

遺体の毛髪からDNAを解析して調べた結果、6-10-21誕生の全く同じDNAの男女がいたことが解る。双子だったのかも知れない。人間もレプリカントもDNAの塩基はA・T・G・C、私は半分の0・1 、脇でそうつぶやくジョイ。

 

作り出されたレプリカントには当然ながらそれ以前の記憶が無い。それが不安を呼び起こす。

人間の記憶 (あるいは意識) はFI (フェードイン) 、レプリカントはCI (カットイン)だ。CIだとその前の“無”は鮮やかに浮き出る。それが不安を呼び起こす。だからFIの物語が必要なのだ。FIする人間だってある時、それ以前に気が付く。時間の流れの中でポツンと一瞬ある自分、何らかの意味づけがほしい。きっと芸術や宗教はその為にある。

ウォレス社でレプリカントの記憶作りを担当する、免疫不全で無菌室の中で生活するステリン博士はその第一人者、つまりは最高の芸術家ということだ。記憶はフィクションでなければならない。本当に起こったことを移植することは禁じられている。でも彼女はKから子供の頃の木馬の記憶を聞いた時、思わず涙した。この涙、二度見でないと解らない。

彼女の登場シーンはこの映画で唯一の緑色の自然だ。灰色の中で突然現れる緑は凄いインパクトだ。しかしこれもバーチャル。

 

Kは感情を現さない。いつも無表情で任務をこなす。家に帰るとスイッチを入れ、P&Wが流れてジョイが現れる。ジョイはセクサロイドでその為のプログラムが施されている。Kに話を合わせ、思いやり、奉仕する。Kの為に喜び涙も流す。愛しているのだ。そうプログラムされている。Kが、もしかしたら自分はレイチェルから生まれたかも? と話すと、あなたはどこか普通のレプリカントと違っていた、きっとそうよ、と話を合わす。製造番号Kではなく、名前を名乗るべきよ。ジョイはKをジョーと呼ぶ。ジョイの純愛はKに取って、この映画に取って、唯一の救いだ。しかしそれがプログラミングの範囲であることをKは解っている。肉体を持たないジョイが人間 (レプリカント?) の娼婦を連れてきて、その肉体を借りてKと結ばれた朝、娼婦が帰り際にジョイに言う。“合体した時、ちょっとあんたの中を見たけど、何にもない、カラッポね (大体の意味)”ジョイは単一目的の為のシンプルなプログラムなのだ。一途な愛というプログラム。

 

一度見の時、ストーリーが良く解らず、複雑だなぁと思った。二度見で話は単純一直線であることが良く解った。自分はもしかしたらレイチェルから生まれたのかも知れない。それを確かめたい。この思いに則して前作と辻褄を合わせながら、大技小技を使って実に上手くエピソードが並べられていく。理屈で考えられたエピソードも時々入る圧倒的映像で納得させられてしまう。シンセリズムの音楽が話をグイグイと引っ張って行く。素 (無音)を巧みに使う。「ボーダーライン」もそうだったがこの監督は素を本当に効果的に使う。映像のメリハリと音のメリハリで飽きさせることがない。

 

Kはレイチェルの子ではなかった。双子は捜索を惑わす為のデッカードの偽装だった。レプリカント解放運動の女闘士もこの眼で女の子の誕生を見たとKに言った。“もしかして自分がそうだと思ったの? みんなそう思いたがるのよ(大体の意味)”

Kの木馬の記憶はステリン博士が禁を犯して移植した自分の体験だった。

エピソードは綺麗に並んだ。Kはデッカードの居場所を突き止め、最後の確認をすることになる。

 

満を持してハリソン・フォードが登場する。場所は廃墟と化したラスベガス。デッカードはそこで犬と暮らしていた。犬は本物かレプリカントか。そのホテルはかつてエルビスやシナトラがショーを行った所、彼らのショーがバーチャル映像でフラッシュする。エルビスは「エルビス オン ステージ」の映像? 多分そうだ。

ここまでブレードランナーらしいアクションは冒頭以外ほとんど無い。軸足は完全に自分捜しだった。膨大な予算を掛けたハリウッド大作、大衆受けはMUSTである。ここからは無理してのアクション。デッカードとKが戦う必然性が無い。そこで生殖の秘密を知ろうとするウォレスの忠実な女レプリカント・ラヴが戦いの相手となる。水中での戦いはハラハラドキドキを一生懸命演出してクライマックスを作る。水に浸かって大変な撮影だったと思う。でもここだけが狭っ苦しい。セット感がありありと分かる。もちろんただのアクションではなく、この監督らしく、戦いの中でラヴが強引にKにキスをするという演出がある。戦いながらも共にレプリカントとしての運命を生きるエール、良い演出ではある。しかしこのアクションの一連、無いとエンタメにならないのは解りつつ、どこまで必要だったか。他にクライマックスを作る手立ては無かったのか。無理を承知で引っ掛った。

 

ラヴを倒して、ステリン研究所へたどり着いたKは、中に娘がいる、とデッカードに言う。“俺は君の何なのか?”と確かデッカードは言った (不確か) “Father!”とは言わなかった。Kは沈黙で返した。ステリンの記憶を拠り所に生きて来たKにとってはそうだったはずだ。

深手を負って階段に横たわるKに雪が降り積もる。寿命が近いようだ。しかし一度見ではそれが解らなかった。階段に横たわるKの俯瞰のカットが立っている様に見えた。レプリカントだから死なないだろう位に思った。そのままエンドロールになってしまった。この終わり方だけは一考してほしかった。一度見でも寿命が尽きることを解らせなければ。俯瞰ではなく、Kの真横、そこに雪が降り積もっていく。走馬灯の様に人生がフラッシュバックする。そこにジョイの声がリヴァーブ一杯に響く。“ジョー!”長い余韻が切れたところでエンドロールの音楽がカットイン、そうすれば寿命が尽きることが明解になる。ちょっとセンチメンタルかも知れないが、エンタメは座りが良くなければ。今のままだとあまりに曖昧、そして荒涼としている。レプリカントも人間も同じという存在として死なせてあげたい。

Kが一度だけ微笑むところ、どこだったか記憶曖昧。これが気になるのだが三度見はちょっと億劫だ。

ハリウッド大作のエンタメとしてこんな映画を作ってしまうのだから、プロデューサー、監督は凄い。この監督は「メッセージ」でもそうだったが、深淵なテーマを娯楽映画として見せるテクニックを持っている。見せ方音付けが本当に上手いなぁ。

ベンジャミン・ウォルフィッシュ&ハンス・ジマー、この作品との出会いは彼らにとって幸運の一言に尽きる。メロディー感は最後だけ、そこに若干の不満もあるが、全体として見事なコラボレーションである。作り直しを何回もして、大変だったんだろうなぁ。「ダンケルク」とこの作品で、ハンス・ジマースタイルは極まった。

 

監督. ドゥニ・ヴィルヌーヴ   音楽. ベンジャミン・ウォルフィッシュハンス・ジマー

2017.10.31 「ゴジラ シネマコンサート」 無事終了

2017.10.31「ゴジラ シネマコンサート」無事終了

 

10月31日、「ゴジラ シネマコンサート」15時と19時の二回公演は無事終了。樋口真嗣、富山省吾両氏とのプレトークも、司会の笠井さん (CX) の軽妙な進行で、あっと言う間に終わった。二回とも同じ話をした。二人と、二回目は話を変えて笠井さんを慌てさせようかなんて話もしたが、笠井さんの一回目と一言一句違わない進行と質問に、結局はこちらも同じ話をすることになった。

プレトーク終わって客席に入り、二回とも鑑賞、全くのお客の立場で初めて堪能した。

改めて、良く出来た映画であること、そして現代音楽の様々な技法を駆使しつつ解り易く明解、格調高く映画を支え、より深いものにしている音楽に圧倒された。「砂の器」のエモーショナルとは対極の、これもシネマコンサートにピッタリの映画と音楽であると改めて確認した。この二本以上に邦画でシネマコンサートに向く作品を思いつかない。

生の大編成の弦のあの肌触り、コントラファゴットのソロでも充分な不気味さとちょっとコミカルさ、TPのスカっとした響き、TBやTUBAの低くしっかりとしたリズム、ズシッとくるドラやグランカスターの重い迫力、オーケストラって何と贅沢なものなんだと改めて思った。そしてオケを知り尽くして最大限の響きを導き出す伊福部先生の作曲力に圧倒された。さすが「管弦楽法」(先生の著作) の人である。

 

映画には台詞や効果があり、音楽がフルに全面に出ることはタイトルバックやエンドロールを除くとあまりない。その上当時の録音技術は光学録音だったので、音の高い成分と低い成分はカットされてしまう。どんなにCBの重低音を強調して作曲しても機械的にある周波数以下はカットされてしまう。作曲家は当然それを計算した上で作曲する。それでも録音された音は生の音の一回りも二回りも痩せた音になってしまう。台詞バックでは当然ながらレベルは下げられるし、効果が入るとマスキングされて音楽のデリケートなニュアンスは無くなる。でもこの日耳にしたものは作曲家が意図して書いた音楽がそのまま再現されていた。細かいところまで良く解った。こういうことだったのか。

上映会であると同時にコンサートである。だから二公演とも映画の音よりオケの生音を全面に出したバランスだった。台詞バックでも音楽はフルに鳴っている、そこを字幕が補っていた。僕は、シネマコンサートはこのバランスで良いと思った。映画の忠実な再現より少しだけコンサートに軸足を置く。フルオーケストラという贅沢を堪能しない手は無い。もちろん別の考えもあるとは思う。

 

音楽が全面に出た時、微妙に映画の印象が変わるとも感じた。全体に特撮活劇というより鎮魂の印象が強くなった。先生がかつて「ゴジラ」を一言でいうと、という質問に「異教徒の祝祭と鎮魂」と言われて、何てカッコイイ言い方をする! と参ってしまったことがある。異教の神がお祭り騒ぎをして暴れまわり、最期は鎮められる、”鎮められる” が強まった。

芹沢博士がオキシジェンデストロイア―を発見してしまったことの苦悩を独白するシーン、ここにはCelloのソロがほとんど全体に流れている。しかし映画ではほとんど聴こえない。当日はCelloのソロが堂々と芹沢の苦悩の台詞と対峙し、緊張感は高まり苦悩はより深くなった。

 

シネマコンサートに向いてる映画とそうでないものがある。これはしっかりと見極めなければならない。まずは元の映画自体が多くを音楽に委ねていること。シンプルで骨太なストーリーが一貫していること。台詞や複雑な物語に依拠するものは向いていない。そして音楽の量がある程度あること。最後にだけ決定的な音楽が奏でられるでは、映画は成立するがコンサートとしては成立しない。音楽の量は大きな要素である。

僕が見た中では「サイコ」も「カサブランカ」も「ゴッドファーザー」も向いてないと思った。音楽が生で演奏されて、何て綺麗な音楽なんだと感じるのは始めだけ。耳はそれに慣れてしまい、圧倒的な話の面白さに引っ張られてしまう。観終わって、良い映画を観た感はあったが良いコンサートだった感はほとんど無かった。「スターウォーズ」「ハリーポッター」は未見。多分こちらは向いていたのでは。

ラ・ラ・ランド」(未見) や「ウェストトサイド」(良かった) 等のミュージカル、これはまた別である。「ラ・ラ・ランド」は一曲終わる度に拍手をしてよいと指揮者が言ったとのこと。僕は逆に「ゴジラ」の最初 (オペラシティ) の時、途中で拍手しないようにというアナウンスをしたような(?) テーマやマーチが流れたあとファンが拍手しそうな気がして。ミュージカルは舞台でも1曲終われば拍手が起きる。これはこれで良いのかも知れないが劇映画では避けたい。「ラ・ラ・ランド」は一曲毎に場内の照明も変えたとのこと、映画を使ったライブパフォーマンスという考え方なのだろう。ひとつの考え方ではある。

 

ゴジラ」は映像と音楽が多くを語っている。台詞や物語に引っ張られることはない。

本多猪四郎監督も伊福部先生も、まさかこんな形で再現されようとは夢にも思っていなかったに違いない。映画「ゴジラ」は1954年の技術で完成された作品としてしっかりと残っている。これを少し音楽寄りの視点で再現するというシネマコンサート、きっとお二人とも喜んでくれているのではないか、なんて勝手に思う。