映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.2.07「嘘を愛する女」日比谷シャンテ

2018.2.07 「嘘を愛する女日比谷シャンテ

 

5年も一緒に暮らしていた男の、名前も仕事も免許証も嘘だった、全く何者か解らない、こんなことってあるだろうか。どこかでアレっ? と思う瞬間は無かったか。

ふとしたことから猜疑心が起きる。一旦起きた猜疑心は止めようもなく、真実を知りたがる。真実なんて解らないままにしておく方が良いことは一杯ある。しかしそうは行かないのが人間の習性だ。そうした方がドラマは膨らんだのではないか。

この映画のヒロイン由加利 (長澤まさみ) に猜疑心は起きなかった。相手の男桔平 (高橋一生) がクモ膜下で倒れ、警察からの連絡で初めて知る。この男は一体何者なのだ? ここから男の正体を突き止める旅が始まる。「嘘を愛する女」ではなく「真実を追求する女」である。

由加利はウーマンオブザイヤーにも輝いたやり手女、3.11の混乱の中で出会い、一緒に住むようになる。結婚も考えている。が、男が煮え切らない。普通ここで猜疑心が湧くけどなぁ。

桔平が残した書きかけの小説を頼りに探偵 (吉田鋼太郎) と共に、桔平の正体捜しの旅に出る。その過程で自分の仕事中心の生き方が洗われていく。自己中のイヤな女が普通になっていく。

突き止めた桔平の正体とは、こちらも有能な医師で月の半分は家を留守にするという仕事人間。幼い娘を抱えた妻は育児ノイローゼから娘を殺し、自分もトラックに飛び込んだ。以来桔平は過去を全否定して、流れ者として別の人生を歩む。男も女も同じような精神的履歴を持っている。ちょっとありきたり。

最後は昏睡状態の桔平の枕元で由加利が長々と懺悔をする。すると桔平の目から一筋の涙、意識が戻ったのだ。つまり、あなたのことが解りました、私も変わります、お帰りなさい、ということ。

僕は「嘘を愛する女」というタイトルと思わせぶりなポスターから、てっきり大人になった長澤の魅力を全面に出した少しエロティックなフランス映画のようなサスペンスを期待していた。それがとってもこじんまりしたアラサー女の自分捜しの映画だった。おまけにエンドタイトルで松たか子の如何にも等身大という主題歌が流れる(歌詞は聞き取れなかったが)。あまりに当たり前の話にこじんまりした主題歌、物語の芳醇がどこにもない。僕が勝手に期待していたものと違っていただけなのかも知れない。アラサー女性は共感するのかも知れない。

まるで5年間が記憶喪失だったように思えてならない。桔平はまっさらになって由加利と5年間を過ごした? そんなことある訳がない。例えば、TVから流れる歌に桔平が突然パニックする、死んだ娘が良く口ずさんでいた歌だった、とか。こういう時に歌は便利だし、上手く使えば良い演出になる。ガンダムのプラモデルよりきっと効果的だ。そんな些細な仕掛けを張って事件が桔平の中に生々しくあり続けていることを示すべきだった。

 

「海街ダイアリー」以来、長澤まさみは一皮むけて存在感のある役者になったなぁと思っている。「散歩する侵略者」も良かった。美貌と抜群のスタイル、但しこの美貌、笑うと底抜けに明るい。100%明るい天真爛漫で綺麗なお姉さんになってしまう。女優を突き抜けてしまう。長澤が存在感を発揮するのは100%笑いをしない時だ。この映画でも唇を横にしてシニカルに半笑いするカットがあった。あそこで止めなければいけない。随分前のNHK大河ドラマで時代に翻弄される忍び実は真田幸村の妹 (確か、出演回数は少なかったが) をやった時、半笑いすらせず、ひたすら思いつめた様な表情をしていた長澤、これが良かった。長澤には暗い役をやらせた方が良い。勝手なことを言ってすいません。この映画では何ヶ所か100%笑いをしていたなぁ。コントラストを付ける為だったのだろうけど。

高橋一生、この人は居るだけで何かを抱えている感を醸し出す。存在感ある良い役者ということである。けれどこの人も笑うとラクダ顔になる。この顔をされると何か抱えている感が吹っ飛んでしまう。この人も笑わせてはいけない。

 

出会いの3.11が単に小道具化している。エキストラの動きも緊迫感無し。

吉田鋼太郎の探偵は良かった。奥さんの浮気を知って、娘を自分の子ではないのではと疑ってしまう。DNA検査の結果、99.9%自分の子。娘が、あの人99.9%私のおとうさんというエピソードは良い。

 

音楽、富貴晴美。真っ当な手堅い劇伴を書く。オーケストレーションもしっかりしている。この映画でも硬質なピアノとバックにシンセを這わせた曲が前半の謎めくところに付けられる。必要な所に的確に付けている。ピアノがフルートに変わりチェロに変わりして、バックも生の弦になったり、とってもシンプル。真っ当で当たり前。昨今真っ当で当たり前の劇伴が少なくなっているので、これは貴重だし評価すべきである。

ここからは敢えての要望。こういうひねりのない真っ当過ぎる映画こそ、音楽が強引に色付けしても良かったのでは。ブルガリアとかイランとかアイルランドとかガムランとか、あるいはギターだけとか、色合いのはっきりした民族音楽や楽器で全体を色付けしてしまう。もちろんこれは監督との相談の上だが。奥行の無い映画が時として音楽で全く違った奥行を醸すことがある。この映画はそんなことをトライしても良かった気がする。

絵面に合わせたばかりの足し算の劇伴、目を見張る様な掛け算の映画音楽に出会いたいものである。

 

監督. 中江和仁  音楽. 富貴晴美

 

2018.1.26 「DESTINY 鎌倉ものがたり」 新宿ピカデリー

2018.1.26「DESTINY 鎌倉ものがたり新宿ピカデリー

 

鎌倉である必然性が全くない。鎌倉はお化けも死者も普通に共存する、何故? 多少は鎌倉の歴史なり地形を紐解いて、簡単な理由づけのひとつもあれば。鎌倉はそう言う所です、ご了解下さい、で始まり終わる。

前世からの因縁で推理小説家・一色先生 (堺雅人) と亜希子(高畑充希) は結ばれることになっていた。そういうことなのでご了解下さい。そうか、これはファンタジーなんだ、何でもOKなんだ。解りました、了解です。

けれど亜希子が階段で躓いて死んでしまう。あれは何? ドラマの発端なのに。話も唐突。映像的にも良く解らない。

 

魂と肉体が分離する。少し前に死んだ、小さな娘がいる母親の魂が、この世に未練を残して彷徨っていた。そこで亜希子の肉体を使って少しの延命をする。このヘンテコな斡旋をするメフィストフェレスの様な死神コーディネーターが何と安藤サクラ。ガム子も芸域を広げたものである。

亜希子の肉体を捜し当てた一色に、父親と亜希子の姿をしている死んだ母親と幼い娘が、どうかもう少しこのままにさせて下さいと泣いてすがる。ヘンテコな話である。

一色は黄泉の国に亜希子を取り戻しに行く。肉体は見つけた。魂と一体化させてこの世に連れ戻す。ファンタジーだ、無粋なことは言うまい。

そこには死んだ一色の父親と母親が幸せそうに暮らしていた。

 

あの世は瀬戸内の島々に小さな家がへばりついている様、ちょっと中国テイスト、「千と千尋~」の匂いもする。そこに何代も前から亜希子に横恋慕している怪物が出てくる。そいつをやっつけて無事この世に帰って来るという話だが… 何度も言う、これはファンタジー、何でも許される。でもそこに人間は死ぬ存在であることの哀感なり詩情のようなものが少しでも漂っていれば…

原作の漫画はどんなものなのだろう。まずは原作を映画のシナリオにしなければならない。映画以前のシナリオではどんなにCGを使ったところで映画にはならない。

亜希子は肉体と魂が合体したことで生き返り、先の母親は本当の死を迎えることになる。その時泣き叫ぶ娘を見て、”一色先生、また来世で会いましょう” と肉体を提供して、この世には戻らない位のドラマがあるのかと思っていた。

堺雅人は適役だったのか。あの独特のデフォルメはこの映画に合っていたのか。イヤ、あのデフォルメのお陰で何とか持ったのかも知れない。高畑充希はブッチャイ可愛らしさを出して健闘。貧乏神 (田中泯) が天本英世にちょっとWった。

音楽、佐藤直紀。大編成のオケで正統な劇伴を書いていた。「海賊と呼ばれた男」でも佐藤の音楽が映画を支えた。しかしさすがの職人技をしても今回は支えきれなかったようだ。

 

監督. 山崎貴  音楽. 佐藤直紀

2018.2.09 「スリー・ビルボード」 シネリーブル池袋

2018.2.09 「スリー・ビルボード」シネリーブル池袋

 

アメリカ中西部ミズーリ州の片田舎、黒い山並みと町のロングにソプラノで「庭の千草」 (原曲はアイルランド民謡) が流れる。荘厳な感じがする。何が始まるのか。

中年女ミルドレッド (フランシス・マクド―マンド) が広告屋に立て看板3枚を依頼する。迷った車位しか通らない様な道沿いの立て看板。一か月の広告料5000ドルと原稿を渡す。“娘はレイプされ殺された”“警察は何もしてくれない”“ウェルビー署長、早く犯人を捕まえて”(大よその意味) そんな文字だけの看板、荒野に突っ立って異様だ。

翌日、田舎町は大騒ぎとなる。ウェルビー署長 (ウッディ・ハレルソン) は白人の間ではそれなりに人望があるらしい。マスコミが飛びついて現地からリポートする。ミルドレッドは一躍時の人となり、同時に町中を敵にまわすこととなる。この町の白人は大半が裕福ではなさそうだ。プアホワイト、白人であるということが唯一のすがり処の、まさに今、トランプを支持する人々だ。

ミルドレッド、娘は殺され、息子が一人、夫は家を出て19歳の小娘と暮らす。

ウェルビー署長には若い妻と幼い娘が二人 (双子?) 、実は癌を患っている。余命幾ばくもないことは町中の人が知っている。

署長が可愛がる部下ディクソン (サム・ロックウェル) は黒人差別主義者ならぬ有色人種差別主義者。暴力でしか自己表現が出来ない。しかもマザコン。老母と二人暮らし。老母はかつての南部を懐かしむ。ディクソンが言う。”俺はキューバ人のホモが大嫌いだ” 共産主義と同性愛、日本で言うところの“露助のホモ”を彼の地ではそう言うのか。

牧師が説得に訪れ、元夫も止めてくれと言いに来る。息子はいじめられ、ミルドレッドの同僚の黒人女は不当に逮捕される。ミルドレッドを取り巻く人々が手際よく描かれて、そこに閉鎖的で保守的な町全体が生々しく立ち現れる。ミルドレッドも娘の事件が起きるまではその一員だったのだ。小男のメキシコ人を見下していた。

署長が癌を苦に自殺する。それを、看板が署長を追い詰めたと巧みにすり替えて、ミルドレッドへの反感はピークに達する。ペラペラのTVマスコミは直ぐにそっちへ乗り換える。どこの国も同じだ。何でも許される、そんな雰囲気が街中を覆う。ディクソンは広告屋をボコボコにして二階から突き落とす。ミルドレッドは警察に火を放つ。暴動はこうして起きるのだ。

署長は遺書を残していた。ディクソン、君には警官としての才能がある、ただキレルのは良くない、キレないで冷静に物事を見つめよ。ミルドレッド、捜査はしたのだ、しかし犯人をあげられなかった、すまないと思っている、看板は続けてくれ、と一ヵ月分の広告料が添えられていた。(大体の意味)

署長の遺書は潮目を変えた。さらに新しい署長は黒人で冷静な人だった。みんなの中に少しずつ相手をおもんばかる気持ちが芽生える。

 

ミズーリ州、アメリカの中央、かつては西部への入口だった。遅れてやってきたアイルランド系移民は必死で自分たちの居場所を作ったのだ、おそらく。冒頭の「庭の千草」がそう語っている。南部の奴隷制の下、良い暮らしをした白人の郷愁も流れ込んでいる。今はメキシコ人もいる。複雑な民族感情。

ミルドレッドも差別撤回なんて微塵も考えていない。ただ娘がレイプされて殺された。警察は動かない。それへの怒りだ。

アメリカはまず暴力だ。何事もそこから始まる。僕など彼の地に生まれたら生きていけなかった。バンダナ巻いて繋ぎの戦闘服を着てミルドレッドの強いこと。シガ二―・ウィーバー以来の強さだ。みんなそれぞれに怒っている。多分背景に ”俺たちの町” がある。そこによそ者が入って来た。”差別はいけない” という金看板を掲げて。

遠い日本から見た時、何でトランプなんかを支持するのか、アメリカ人は馬鹿か、と思っていた。立場を変えるとそれなりの言い分も解って来る。それ以前にはインディアンの征服がある。これって世界中どこにでもある話なのだ。砂漠、多分シリアあたり、レイプを自慢げに語る元米兵らしき男の話がさり気なく挟まる。

署長の遺書と、燃える衣服を消火してくれたメキシコ人のジャケットと、一杯のオレンジジュースが、ディクソンを変えた。現実はそんなものなのかも知れない。ディクソンは犯人捜しの為に大火傷の身で体を張ってくれた。

初め犯人はてっきりディクソンだと思っていた。そう思わせて引っ張る意図はあったと思う。ミルドレッドとディクソンは対立の象徴である。それが最後は二人して悪い奴らを懲らしめに行く。けれど悪い奴らをヤッたところで憎しみの連鎖は止まらない。本当にヤル? 道々考えよう。許すことを知った二人の、良い終わり方である。

 

こうして書くとリベラルなよくある話になってしまう。映画は全く違う。これは脚本監督のマーティン・マクドナーの腹の中にだけあり、映画は怒れるヒロインの復讐劇。いちいちカッコイイ。ミルドレッドは鉄壁の怒りに身を包んで、めげない、笑わない。最後の方、一回だけ笑ったが何のシーンだったか。我が劣化する記憶力が哀しい。

犯人は現れず、復讐劇は追及の過程で少しずつ自分自身や周りが変わっていくという話に変化していく。ミルドレッドと一緒になって怒っていた自分が、気が付くと人を許す気になっている。

 

音楽、冒頭の「庭の千草」の直後に入るのはギターがメロを取るスローな曲。後ろに弦が薄く這っていたか。そしてカントリーを基調としたバンド編成の劇伴。ギターかピアノがメロを取る。どれもベースの低音が効いている。何だかんだありながら、みんなしっかりと大地に根ざしている、とでも言う様に。人間ドラマの背後にはいつもそびえ立つ山並みがあり、広大な荒野がある、人間の喜怒哀楽を見守る様に。ベースはこの大自然と呼応している。

物語の展開に合わせた音楽はほとんど既成曲が受け持ちメリハリを付ける。カントリーミュージックを中心に上手い選曲上手い充て方。これがあるのでオリジナルの劇伴は大ロングの視点で付けられる。

 

かつての西部劇の復讐ものを一捻りして、密かに社会派的視点を盛り込んで、いつの間にか考えさせられつつ、カッコイイ娯楽作品として纏めた、見事な作品。細やかな思いやりが違いを乗り越える、ありきたりだがこれしかない。優しくて強力な反トランプ映画、アメリカもまだ捨てたものではない。(これはイギリス映画?)

 

「庭の千草」が耳から離れない。たった一曲がいかに多くを語るものか。

 

脚本監督. マーティン・マクドナー   音楽. カーター・バーウェル

2018.1.23 「M・I グランプリ 2017」

2018.1.23 「M・Iグランプリ2017」

 

このブログも3年目に突入した。昨年に続き2017年の総括をしてみようと思う。

2016年はちょうど100本の映画を見た。2017年は半減、邦画30本、洋画29本、その内ブログにアップしたもの36本(邦15本、洋21本)。コラムが6本。ちょっと少ないなぁ。

邦画で見ようと思いつつ見逃してしまったものの代表格は、「あゝ荒野」。それ以外にも多数。あくまで私が見たものの中のグランプリであることをご了承下さい。

 

☆音楽賞

 

横山克22年目の告白 私が殺人犯です」(監督.入江悠、拙ブログ2017.07.07) 

 

従来型の劇伴がほとんど見当たらない。アビット(映像のデジタル編集機)とプロツールス(音楽用デジタル録音編集機)のせいか。映像がメロディーを欲していないのか。ハンス・ジマー型のベタ付けだったり、音楽と効果音の境目の様な“音”だったり。それはそれで良いのだが、テーマメロを設定してそれを中心に構築していく従来型の映画音楽があまりに少ないので、あったのかも知れないが印象に残らなかったので、寂しい限りだった。

従来型では「散歩する侵略者」(同2017.09.11) の林祐介はともすればエフェクト風の“音”を付けやすい素材に敢えてオーケストラを使い面白い試みをしていた。「海賊と呼ばれた男」は大味な映画を佐藤直紀の音楽がしっかりと支えていた。映画はつまらないが音楽は良いという珍しい例。

「幼な子われらに生まれ」(監督.三島有紀子) (同2017.09.05) の田中拓人も「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(監督.石井裕也) (同2017.05.25) の渡邊崇もそれなりに映画の世界と合ってはいたが、印象には残らない。「夜空~」は何といっても「頑張れソング」である。

バンコクナイツ」はアジアのポピュラー音楽の歴史と現在を教えてくれて目からウロコだったが、オリジナルの劇伴を対象とする本賞では、除外するしかなかった。

敢えて従来型とは真逆の「22年目~」を選んだのは、効果音も音楽として扱い見事に映画の音響を作り上げたセンスの良さゆえ。かつて武満徹が「怪談」で音楽と効果音を両方コントロール下に置いて、“音響”を作り出したと同じことをポピュラー寄りでやっている。但しこちらは作曲・横山克、監督・入江悠と選曲エンジニアとの共同作業で成し得たものと思う。中心はやはり監督か。センスの良さに脱帽である。

こんな音付け、私など思い付きもしない

 

☆作品賞 

 

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

私にとって2017年の邦画は「夜空は~」「彼女の人生は間違いじゃない」(監督.廣木隆一) (同2017.07.28)「幼な子~」「バンコクナイツ」(監督.冨田克也) (同2017.03.31)の4本に尽きる。迷った末、「夜空は~」とした。詩集からあれだけの物語を作り上げた石井裕也脚本賞も含んだ作品賞である。

 

☆監督賞

 

廣木隆一 「彼女の人生は間違いじゃない

 

監督賞もこの4本の中のどれか。「バンコクナイツ」を製作した空族(クゾク)という集団のことを知らなかった。衝撃だった。石井裕也三島有紀子も前向きで肯定的なのが良い。廣木隆一はメジャーでそれなりのクオリティーを持つ作品を撮り、その間にこんなインディーでの良作をしっかりと作っての大活躍。石井にするか廣木にするか、最後まで迷った。そびえ立つ鉄塔と見上げる飛行船の違いかも知れない。僕は鉄塔に弱い。そう言えば「ビジランテ」(監督.入江悠 音楽.海田庄吾) にも鉄塔があった。

 

主演男優賞

 

池松壮亮 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

池松壮亮 (「夜空は~」) と浅野忠信 (「幼な子~」) 以外に思いつかなかった。見損なった作品に候補は居たかもしれないが、それを言っても始まらない。内省的で一途で優しさに溢れた今風小奇麗とは真逆の役は池松壮亮にピッタリだった。

 

☆主演女優賞

 

瀧内公美彼女の人生は間違いじゃない

 

石橋静河 (「夜空は~」) は若くしてこんな役に巡り合えて幸運だと思う。役者としてまだスレてない今が役柄とピッタリだった。瀧内公美 (「彼女の人生~」) という女優の存在を知らなかった。大抜擢大熱演。長澤まさみ (「散歩する侵略者」監督.黒沢清) は「海街ダイアリー」以降見違えるように存在感ある女優になった。蒼井優 (「彼女がその名を知らない鳥たち」監督.白石和彌) の存在感と演技力は誰しも認めるところである。迷った末、瀧内公美にする。石橋は多くの賞を獲得するだろう。長澤まさみ蒼井優はすでに多くの賞を得ている。瀧内はこれからである。

 

助演男優賞

 

田中哲司 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

「彼女の~」の光石研、この人が脇に入ると一気にリアリティーが出る。いつも役に成り切っている。どう見ても福島の不器用なオッサンである。「夜空は~」の田中哲司、この人がこんな役を出来ようとは。“ザマア見ろ”は昨年の邦画の中で一番好きな台詞だ。デパートの屋上で別れた娘との再会の為ネクタイ締めて待つ「幼な子~」のクドカン、込み上げた。でも圧倒的に“ザマア見ろ”

 

助演女優賞 

 

田中麗奈  「幼な子われらに生まれ」

 

田中麗奈以外に思い浮かばなかった。普通のおばさんを自然に自然に演じていた。

 

☆外国映画賞 

 

ブレードランナー2049」( 監督.ドゥニ・ヴィルヌーヴ 、音楽. ベンジャミン・ウォルフィッシュハンス・ジマー) (同2017.11,10)

 

30数年前の一作目の衝撃が甦った。実に上手く前作と繋がっている。哲学的エンタテイメント・ハードボイルド・SFアクション映画である。対抗馬は「ダンケルク」(監督.クリストファー・ノーラン 音楽.ハンス・ジマー)(同2017.10.10)。でも迷わなかった。

音楽はどちらもハンス・ジマー。この2作でハンス・ジマー的映画音楽は極まった。

 

以上、「M・Iグランプリ2017」でした。

2018.01.16 三縄一郎さんの訃報

2018.01.16 三縄一郎さんの訃報

 

三縄さんが昨年12月16日に亡くなっていた。99歳。知らなかった。年賀状を出したら、ご遺族からその旨記した手紙が来た。葬儀は家族葬として行ったとのこと。それにしても新聞には載ったのだろうか。新聞をあまり読まなくなっているので、僕が見落としたか。

 

三縄一郎さんは映画の効果の第一人者、というより映画の効果の歴史そのものだった。音大声楽科出身。お姉さんが築地小劇場の女優だった関係で、戦中の築地小劇場に入り音響効果マンとしてスタート。その後東宝に移り、長きに渡り東宝の効果を担った。黒澤もゴジラもみんな三縄さんだ。現場でも随分ご一緒したし、CD「黒澤明 映画音楽」(上中下巻)を作った時はインタビューもさせて頂いた。その頃すでに80代半ばのはずだが、黒澤作品やゴジラのことを澱みなく話された。

「用心棒」の時、撮影所のサロン (食堂) で、“三縄君、人を斬るとどんな音がするもんかね、今度の作品にはそれを付けようと思うんだ”と黒澤監督が言ったのは有名な話である。三縄さんたちは鶏やら何やらを買ってきてそれを斬り刻むも音がしない。試行錯誤の末、鶏の中に割り箸を突っ込んで、それをグサッとやったらそれらしい音になった。もうこれは伝説の域である。

ゴジラの鳴き声、これも伝説。コントラパスの弦を松脂塗って皮の手袋で引っ張ったらそれらしい音がした。それを回転変えたり動物の鳴き声をミックスして作った。2014年、NHK-Eテレが伊福部先生の番組を作った時、三縄さんに東宝録音センター旧館に来て頂き、調整卓の前で話して頂いた。番組ではほんの少ししか使わなかったが、担当ディレクターは、NHKアーカイブに残します、と言っていた。ゴジラの鳴き声は、同じことを伊福部先生も言っていて私がやりましたと言う。僕は三縄さんの方に軍配を上げる。あるいは最初に擦る時に伊福部先生は立ち会ったかも知れない。関わったとしてもほんの少し、回転変えたりの電気的処理や他の鳴き声とのミックス三縄さんの手になる。そもそも最初のアイデアはどちらが出したのか。真実は遠く霞の彼方である。

2014年だから3年前。一人で砧の録音センターへ来られた。帰りは、車呼びますというスタッフを制して、大丈夫だよとバスに乗って帰られた。お会いしたのはその時が最後になった。

黒澤組の古い人に聞くと、あの黒澤も三縄さんにだけは怒鳴らなかったと言う。

映画の音響効果そのものだった。

                                       ( 2018. 01. 16 )

 

2018.01.07 貝山知弘さん、追悼

2018.01.07 貝山知弘さん、追悼

 

1月7日、貝山さんが亡くなった。84歳だった。

僕は貝山さんを勝手に僕の唯一の師匠だと思っている。

 

1976年、売れてるアーティストのいない東宝レコードの名ばかりの新米ディレクターだった僕は毎月の編成会議が苦痛だった。何か企画を出さなければならない。僕の映画音楽の原点である「裸の大将」(1958. 監督.堀川弘通 音楽.黛敏郎) の音楽テープを撮影所で見つけた僕はこれをレコードに出来ないかと考えた。見れば棚には黛さんの東宝でやった映画音楽のテープがズラリとある。これでアルバムを作ったら。でも売れるかなぁ。映画音楽といえば“太陽がいっぱい”であり“エデンの東”の時代である。邦画のサントラなんて見たこともない。ましてや一人の作曲家の映画音楽作品集。ただ、撮影所のテープを借り出して、それを編集するだけだから新録音より遥かに安く出来る。弱小レコード会社、制作費が安いというだけで企画が通ってしまうこともある。でも僕一人で勝手に作っちゃって良いものだろうか。貝山さんに相談した。

 

貝山さんとは前年の「日本映画名作撰」(ビデオが普及する10年前、邦画の名場面をレコードで聴くという企画、LP10枚組 販売.日本ディスクライブラリー) という通販企画でご一緒していた。

初対面の貝山さんはラフな格好で首からペンをぶら下げ、落ち着いた良い声をしていた。

「雨のアムステルダム」(1975. 監督.蔵原惟繕) を完成させたばかり、これから公開という時だった。東宝の社員プロデューサーで「狙撃」(1968. 監督.堀川弘通) や「赤頭巾ちゃん気をつけて」 (1970. 監督.森谷司郎) といった、ちょっと東宝らしからぬ作品を作る人だった。同時にオーディオ評論や音楽評論も手掛けていて、すでにフリーになっていたか、まだだったか。僕には輝いて見えた。

 

“それ面白いよ、直ぐ黛さんに会いに行こう”と貝山さんが言った。この言葉が無かったらLPレコード「日本の映画音楽」というシリーズは無かった。

僕なりにセレクトして纏めたカセットテープを持って、貝山さんと二人で、当時黛さんの事務所があった平河町の北野アームスへ向かった。会話はほとんど貝山さんと黛さん、僕はただ居るだけ。カセットを聴き終わって黛さんが突然僕に向って“ところでこれは東宝だけでやるの? 僕は松竹でも日活でも仕事しているから、そっちからも入れようよ”東宝作品だけで安直に考えていた僕の企画は一気に立派なものになってしまった。

帰り道、二人で、黛さんカッコイイね、やっぱりスターだね、と話した。ところで解説書はどうするの? こんな映画ですという説明を短く、それじゃつまらないよ、黛さんにインタビューしない? 僕がやるから。

黛さんが選んだ東宝以外の作品の音楽テープも揃えて、黛さん、貝山さん、エンジニア、僕とでスタジオに籠った。編集をしていきながら貝山さんが色々と話を聞きだしていく。確かこの時は録音などせず、貝山さんがメモ書きしていったのでは。

上がって来た原稿は400字で20枚あった。簡単に済まそうと考えていた僕には予想もしない展開となってしまった。でも内容は面白かった。読みでもあった。これ本に出来るかもとさえ思った。LPレコード紙ジャケの時代である。入れられる紙は二つ折り4Pが限度。ジャケット担当に相談したら、Q数落とせば何とか入る、でも字、小さいよ!

こうして“日本の映画音楽シリーズ”のパターンが出来た。2枚目からはインタビューは録音して僕が文字起こしをした。貝山さんが忙しかった時、やってみなさいよと言われ、僕が纏めたこともある。ここで急に話題が変わってしまうよ、整理し過ぎるとその人の語り口のニュアンスがなくなるよ、僕は貝山さんの下でインタビュー原稿のイロハを学んだ。「日本の映画音楽シリーズ」11枚を作った3年余はいつもゲラを持ち歩き、毎日貝山さんに連絡を取っていた。

 

全く別の仕事で或る俳優のアルバムを担当させられたことがあった。ポリシーを持つ人でこちらの会社の都合という論理を受け入れてくれない。かなり悩んだ。その話を貝山さんにすると、“それを楽しまなくちゃ、楽しめないようだったらプロデューサーなんて辞めた方がいいよ” この言葉は忘れられない。若造の腰は据わった。

 

サンタナはイイねぇとよく話した。

 

「初恋」(1975 監督.小谷承靖) ではスィングル・シンガーズの既成曲を劇伴として使っていた。6ミリ (磁気テープ) を自ら編集していた。

未知との遭遇」が公開された時、“やられた、もうあの企画はダメだ、二番煎じになっちゃう”と言っていた。異業種の著名なクリエイターと似たような企画を進めていたらしい。

貝山さんの映画は興行的にはどれも今一つだったが、必ずどこかにそれまでの東宝とは一味違う貝山さんらしさがあった。それが好きだった。

 

3年前、僕の仕事卒業パーティーでは挨拶をお願いした。少し背中が丸まっていたが黒ずくめで相変わらずダンディーだった。

いつもご馳走になりっぱなし、いつか僕がご馳走しようと思いつつ、その機会を永久に失ってしまった。

                                   ( 2018. 01. 15 )

2017.12.27 「勝手にふるえてろ」 シネリーブル池袋

2017.12.27 「勝手にふるえてろ」シネリーブル池袋

 

自意識過剰で妄想癖の恋愛初心者ヨシカを松岡茉優が熱演。憧れのイチには鼻も掛けられず、二の本気度に気付いてハッピーエンドとなる、あまりにもよくある話。イチとは高校の頃から憧れ続ける一番好きな人。二とは告ってくれた会社の同僚。バーチャルとリアル。妄想と自意識を総動員して当たり前の青春映画との差別化を図る。随所に、タモリ倶楽部のTシャツやらアンモナイトやら、おじさんでも解るギャグ小技が満載。これ、てっきり漫画が原作? 差にあらず、芥川賞作家綿矢りさでした。きっと過剰反応する自意識が事細かに書き連ねてあるのだろう。読んでないのに言うのも何だが好みではない、多分。それを如何に面白い映画にするか。それなりに頑張っている。普通の映画にしてなるか、という意気込みは感じられる。何より松岡茉優が熱演、キャラも合っている。しかし弾けているのは彼女だけ、映画自体が弾け切れてない。ポップじゃない。中島哲也が撮ったらなぁと思った。このネタ、やらないか。

下妻物語」には地方のダサさと都会のオシャレが難無く飛び越えられる面白さがあった。それをポップに映像化した。こちらは全てが主人公の中で自己完結する。それはそれで良いのだけれど、勝手な思い込みでストーカーをしたり殺人を犯すような時代だ。二が現れないヨシカだっている。例えばオカリナさん (片桐はいり) の隣に二が現れないブラック・ヨシカが住んでいたって良い。いつも節目がちだけどアンモナイトの話だけはヨシカと盛り上がると言うような。そして彼女がストーカー事件を起こしてしまう…

オカリナさんも釣りおじさん (古館寛治) も駅員さん (前野朋哉) も脇は中々、みんな彼女を応援する善意の人ばかり。かつてのハリウッドミュージカルだ。どこかにちょっとした毒があれば話に深味が出た?

映画が漫画チックなので音楽もタッチ音楽やら説明的。こういう映画こそ一つメロを決めて通すようにすれば。そのメロが歌になり、予算の無い中での一点豪華なミュージカルシーン。ミュージカル風、有るにはあるがチープ、歌も印象に残らない。

イチとアンモナイトの話で盛り上がる唯一のラブシーン。その後の、“君、名前何て言ったっけ” (不確か) 、この落差など音楽的演出は出来たはず。(もしかしたらあったのかも。私の記憶に残ってないだけか?)

会社休んで引き籠り、携帯が鳴って飛びつくなんて、同じような女の子には “ワカル!” という小技が沢山あるのだろう。しかし小技の “ワカル!” は映画を縮こませる。大枠があっての小技である。この種の映画、リアルである必要はない。もっと大袈裟で良い。

 

監督 大九明子   音楽 高野正樹