映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.07.03 「空飛ぶタイヤ」 丸の内ピカデリー

2018.07.03「空飛ぶタイヤ丸の内ピカデリー

 

かつて邦画には社会派エンタテイメントというジャンルがあった。代表的な監督は山本薩夫である。「白い巨塔」(1966)「華麗なる一族」(1974)「金環蝕」(1975)「皇帝のいない八月」(1978)等、企業や政治の闇に切り込んだストーリーに、スターを配して、一級の娯楽作品とした。

この映画はその系譜に連なる。邦画の久々の社会派エンタテイメントである。誰が見ても面白い様に出来ている。人生を深く洞察するという様なことは無いかも知れないが、社会の不正への憤り、その中で右往左往する人間の哀しさ儚さままならなさが、万人の共感を呼ぶ。

ホープ自動車となっているが、モデルは三菱自動車あたりか。走行中のトラックのタイヤが外れ、歩道を歩いていた母娘を襲う。母親は死ぬ。運送会社の若き二代目社長(長瀬智也)が自社の整備不良をひたすら詫びる。可愛がっていた若き整備工だったが即刻クビを言い渡す。その整備工は細かくチェックリストを付けていた。整備不良では絶対にありませんと言い切る。もしかしてトラック自体の構造に欠陥があるのでは… そこから、小さな運送会社と財閥系のホープ自動車の戦いが始まる。まるで蟻と像、歯が立たない。けんもほろろだ。実はこの構造的欠陥をホープ自動車の極一部では認識されていた。それに気付いたホープ自動車のエリート(ディーン・フジオカ)が、これを正義感からではなく、出世の道具として利用する。

会社は正義では動かない。利害で動く。それが“会社の都合”という言葉になる。会社勤めを少しでも経験した者には解るはずだ。“会社の都合”が何より優先することを。それを補強するのが、従業員とその家族に責任がある、というお題目。そこに会社の社会的責任は微塵もない。企業の社会的責任なんて言ったら、何青臭いこと言ってるんだと笑われてしまう。

ただ近年コンプライアンスの名のもとに法令順守が厳しくなっており、発覚した時の騒ぎを考えて企業も神経を使う様にはなっている。ただ、後で高いものにつかない様細心の注意を払いつつ、隠せるものは隠せ!は変わらない。

従業員とその家族を守るということに於いては小さな運送会社の社長とて同じだ。ホープ自動車から黙って1億受け取れと提案がある。これで無かったことにしろという話だ。先代から仕える専務(笹野高史)はこれで会社が救われると喜ぶ。しかし二代目熱血漢は悩んだ末に喉から手が出るほど欲しいこの金を、拒否する。この正義感、大衆娯楽の真骨頂。確かに規模が小さいから出来るとは言える。巨大になれば成る程、会社の都合は侵さざるものになり、正義感は埋没する。

社長が拒否すると、それまで喜んでいた専務は、怒るでもなく、そうですか、解りました、と飄々と仕事を続ける。「終わった人」でカツラを被った笹野より、こっちの方が断然良い。

長瀬とD・フジオカを交互に描いて、問題が明るみに出ていく脚本(林民夫)が上手い。今は内部告発とPCのメールが真相究明の重要なツール。昔はそれを女が担っていた。D・フジオカとムロツヨシ等が社内情報のやり取りをする夜の酒場はホテルのラウンジかサロンの様な所、昔だったら銀座のクラブと決まっていた。そこに女が絡んだ。銀座のクラブが寂れるのはもっともだと納得。深キョンが長瀬の妻役で出ているが話に深く絡む訳ではない。女優ッ気のない映画である。

同じ様な事故があちこちで起きている。そのリストを手に入れた長瀬は全国の運送会社を訪ね歩く。構造的欠陥であることが明白になっていく。ホープ自動車の社内の隠蔽がD・フジオカ等によって暴かれていく。両方が同時並行して隠蔽の大元、ホープ自動車専務(岸部一徳)にたどり着き、クライマックスとなる。

ここは一貫した太い音楽で括って欲しかった。その方が盛り上がる。音楽・安川午朗。ドラマに則して細かく付けられていて、どれも役割を果たしている。ただひとつ、クライマックスに向かう太い旋律があれば。

山本薩夫には佐藤勝という剛腕作曲家がいた。佐藤だったらシーン変わりに引っ張られることなく、大編成の太いテーマでクライマックスに持って行ったはずだ。安川午朗は小編成の細かいドラマに合わせた音楽は的確なのだが、大きな編成で太くテーマ押しでやるべきところに物足りなさを感じる。

欠陥と隠蔽が明るみに出てリコールとなり専務は失脚、言われるままに融資していた財閥系本丸の銀行の重役も失脚、実は銀行の戦略室のエリート(高橋一生)が描いていた青図通りだったことを匂わせ、映画は終わる。程無くして、ホープ自動車は吸収合併されて消滅、財閥はお荷物だったホープ自動車を処理することが出来、政治は自動車業界の淘汰と再編を一歩進めることが出来たのである。

D・フジオカやムロツヨシはどうなったのだろう。二代目社長の運送会社は無事やっていけてるのか。結局は“会社の都合”の名の下にコマとして使われてしまうやりきれなさが残る。

 

主題歌・サザンオールスターズ。桑田が云々、曲が云々の前に、主題歌を作るということを考えるべきである。名の知れたアーティストに主題歌を歌わせて宣伝に寄与させると言う時代はとうに過ぎている。映画の余韻をしっかりと担保して観客に音として残す様な主題歌は別、そうでない限り主題歌は止めた方が良い。そんなの解り切ったことだろうに。

“会社の都合”か。

 

監督.本木克英   音楽.安川午朗

2018.04.10「素敵なダイナマイトスキャンダル」 テアトル新宿

2018.04.10「素敵なダイナマイトスキャンダルテアトル新宿

原作は雑誌「写真時代」の伝説の編集者末井昭の自伝。僕より一つ二つ上か。ほとんど我が青春と重なる。喫茶店のシーン、青臭い議論にさえ加われず、奥で一人暗く座っている僕が居てもおかしくない、それ位親近感があった。喫茶店の作り、バーの作り、キャバレークインビー、下宿の家賃、どれもあの頃のマンマ、良く再現している。

僕は「噂の真相」(編集.岡留安則) を毎月欠かさず読んでいた。岡留、末井はサブカルの伝説の編集者。何の取り柄もない僕は、二人はどんな生活をしているのだろうとあこがれを持って見ていた。

映画とほぼ同じ時代を欲求不満と何者でもない者として生きた僕には、あの頃が熱く高揚した時代だったと素直に懐かしく思うことは出来ない。

 

隣家の若者とダイナマイト心中した母 (尾野真知子) を持つ末井 (柄本佑) が、地方から上京し、キャバレーの看板描きをやり、スッポンポンで盛り場を疾走して (当時流行ったストリーキング) 道路に人拓を描き、エロ雑誌編集に関わり、“情念”を旗印にサブカルの世界でのし上がっていく様を痛快に描く。アラーキーやら田中小実昌やら南伸坊やら、それらしき人が出てきて、あの頃の新宿の匂いがプンプンする。きっとみんなそれなりの葛藤を抱えながら、才能とエネルギーでぶっ飛ばしていた。映画は時々末井の原点であるダイナマイトママをインサートしながら、痛快ぶっ飛ばしの方に軸足を置いて、決して暗くならずに描く。頭デッカチの挫折なんて糞くらえ。それは自由で好き勝手にやれた黄金時代だった? 少なくともこの監督にはそう思えたようだ。いつの間にか僕も、あの時代は面白かったんだ、という気分になってしまった。葛藤の方はサラリと流して、痛快サブカル青春物語にしたのは正解だったかも知れない。

 

音楽、菊池成孔小田朋美。Pfでアヴァンギャルドなフレーズ、ところどころにしっかりと書かれた弦カル、後半でSaxがクレイジーなフレイズ (これが菊池か)、もう一つ、タイトルバックや何ヶ所かに、かつての東宝の社長シリーズとかサラリーマン物に付いていたようなマリンバがメロを取る大き目な編成のハリウッドの匂いのする音楽が付く。全く異質な四種類の音楽が付けられ、違和感が無い。変に統一感を持たせるよりこの映画には合っていた。

ただタイトルバック等に付けられた大き目の編成の曲、あれだけはちょっと違うのでは? と感じた。Pfも弦カルもSaxも、決して明るい印象ではない。コントラストを付ける為、敢えてノー天気な音楽にしたのかも知れない。しかしあの時代、すでにあのノー天気は無かった。僕なら「太陽は一人ぼっち」(コレットテンピア楽団?) のキャバレー風Saxとか、「サンライトツイスト」(「太陽の下の18歳」主題歌) みたいな、安っぽい感じのロックを付けた。

 

夢の様な恋のテーマと言った意味合いで「夢のカリフォルニア」(ママス&パパス) が効果的に使われている。彼女との箱根芦ノ湖小旅行、遊覧船にスピーカー細工で流れるのも良かった。あのエピソード、現実には相当ドロドロしたはずだ。「夢のカリフォルニア」が爽やかな青春の一ページに無理矢理纏め上げている。

 

ローリングに主題歌。お母さん役の尾野と本物の末井が時空を越えてのデュエットである。力の抜け具合がとっても良い。

 

観終わって、劇場入口に貼り出されている新聞や雑誌の宣伝記事に目を通した。中に末井昭柄本佑 (熱演) の対談記事があり、末井の写真が掲載されていた。初めて顔を知った。とっても穏やかな顔をしていた。映画が完結した気がした。

 

監督.冨永昌敬   音楽.菊池成孔小田朋美   主題歌.尾野真知子、末井昭

2018.03.23 「羊の木」 渋谷シネパレス

2018.03.23「羊の木」渋谷シネパレス

仮釈放された犯罪者6人が北陸の小さな町魚深に新住民としてやってくる。刑務所の経費削減、町の過疎対策、両方を兼ね備えた極秘の国家プロジェクト、自治体が身元引受人となり仕事を斡旋、最低10年そこに住むという条件である。これが成功するか否かに、国の未来が掛かっている。

この一見荒唐無稽な設定、でも変に説得力がある。日本の現状を見た時、その位のことを国は密かに考えているかも知れない。

娑婆に放り出された犯罪者は皆殺人を犯している。過疎化が進む魚深の町でどんな事件を引き起こすのか。映画の宣伝はもっぱらこのミステリーを前面に出す。けれど映画は実に淡々と平凡な日常として6人の受け入れを描写していく。市役所の月末 (錦戸亮) が受け入れの係。事情を知らされていない月末は駅や隣町の空港に迎えに行き、判で押したように“いい街ですよ、魚は上手いし人情は厚い”と言う。相手からのリアクションは無い。唯一、宮越 (松田龍平) だけが“いい街ですね、魚は上手いし、人情も厚そうだし”と自分から言う。自販機の前で二人して炭酸飲料を飲む。コミュニケーションってこんなところから始まるのかも知れない。

宮越は過剰防衛での殺人、元ヤクザの大野 (田中泯) は抗争相手の親分を針金で絞殺した、カミソリで喉を搔き切った酒乱の床屋福元 (水澤紳吾)、SEXの痴戯で首絞めをしてその結果殺してしまった太田理江子 (優香)、DV夫を撲殺した栗本清美 (市川実日子)、暴力性をむき出しにする最もストレートなキャラクター、傷害致死の杉山 (北村一輝)、一度は社会の矩を超えた面々が再びそっと日常にフェードインしていく。映画はそれを丁寧に描き、受け入れる側の反応をデリケートに拾う。6人の過去をフラッシュバックでインサートするようなことはしない。わずかな描写の中で役者の力と数行の台詞がこれまでの人生を的確に語る。

 

映画の宣伝に誘導されて、ミステリー、事件物、という先入観で見てしまった。殺人は起きるのだが、その犯人捜しという趣はない。6人が複雑に絡んだり、過去とののっぴきならないしがらみだったり、話はそっちへは展開しない。ましてや過去を清算してやり直そうとする、健さん映画のような人情物でもない (そういう作りの方が一般受けするかも知れないが)。どこか物足りない。作り手の意図は別のところにある? ということで二度見をした。

 

原作は山上たつひこいがらしみきおの漫画 (未読) 、それを監督の意向を汲んで香川まさひとが換骨奪胎して脚本化。どの位変えているのだろうか。

 

大野は顔に傷を持つ一目で堅気ではないことが解る初老。かつては狂犬だった。組に入るも、そこにも窮屈な掟があった。掟とは自己の抑制と他者の承認で成り立つ。その窮屈を越えてしまった者が再びその中へ戻るというのは大変なことだ。世間は異物を敏感に嗅ぎ分ける。大野はよく解っている。“人間、肌で感じたことが一番本当なんじゃないか”

 

栗本清美は寡黙で潔癖症、もしかしたら宗教にハマっていたかも知れない。些細なことでも折り合いをつけられない生き方が透けて見える。生命の再生を信じている、多分。

 

床屋福元役の水澤紳吾という役者を知らなかった。なんと成り切っていることか。飯の喰い方に圧倒された。真面目でいつも自信なくオドオドして、酒が入ると反転する。

 

杉山に向って大野が言う。“お前は若い頃の俺のようだ”組にも入らず狂犬のまんま。社会の矩に収まろうなど全く考えていない。

 

太田理江子の性は自然である。遺伝子レベルで根源的、生存のエネルギーである。ただこれを野放しにすると人間社会は維持出来ない。それを様々な理由付けで抑制する。禁忌である。人間の文化とは自然に対する抑制であることは世界中どこを見ても共通する。時々この装置が壊れている者が現れる。芸術家はそんな人を物語の主役に据える。だが必ず社会的制裁を受けて最後は悲劇となる。そうしないと社会が維持出来ない。

優香がそんな役を見事に演じていて驚いた。介護施設で月末の父親 (北見敏之) と出会い、恋というより欲望が爆発してトイレ(?)の中で貪り合うキスシーンは、全ての抑制を剥ぎ取ってエロそのものだ。優香と月末の父親との今後を、どうしても明るく想像出来ない。優香はその内別の男と愛欲を重ねる。その時月末の父親は… 「祭りの準備」(1975) の浜村淳を思いだした。

 

月末の錦戸亮はアクの強い6人に対しひたすらニュートラルである。“コロッケ買って来たよ”という何気ない台詞の中に今の状況が込められている。高齢の父親は昼間は介護施設に通う。母親はすでに他界している。本当はこの町を出たかったのだ。しっかりと社会の枠に収まっているが心の奥底には消化しきれないものが溜っている。かつて高校生の頃は文 (木村文乃) と須藤 (松尾論) とバンドを組んでいた。文が好きだった。

 

文は都会に出て看護士として働くも医師との不倫 (多分) の末、この町に戻って来た。須藤の“不倫?”というツッコミに何とも投げやりな態度を返す木村が良い。木村がこんな気だるい役をやれるなんて。

文が戻って来たことを期にバンドを再開する。月末はまだ文に未練がある。それを須藤がからかう。月末のベースと須藤のDrがしっかりと土台を作り、文のギターがノイズの様にコードを速弾きする。木村が様になっている。メロディーラインは無い。多分この映画にぴったりの曲想だ。ギリギリで音楽の矩を超えない。

バンド練習のプレイバック撮影 (先に録音した音に合わせて撮影すること・PB) は見事というしかない。特にDrは同録ではないかと思った。松尾論はDrの心得があるのか。DrのPBは本当に難しいのだ。こんなにぴったりと合っているなんて。ただ一つ一つの音がクリア過ぎるのが気にはなった。あの場だと実際には音はモアモアでただの騒音の塊になってしまう。映画の嘘、あれで良い。音楽スタッフと三人の役者に拍手である。

 

一番描きたかったのは宮越と月末だ。宮越は今風に言えばサイコパスである。自分の都合で罪悪感無く人を殺す。杉山が“俺はお前みたいな奴が何のためらいもなく人を殺すのをみたことがある”と言う。初めから他者が欠落しているのだ。

勝手、我儘、自己中心、そんな心理学の範疇を遥かに超えて、無感情に人を殺す。でもそれって先天的なもの? 後天的なもの? いつのまにかサイコパスという名前が付けられ、その言葉が出てくるとそこで思考は行き止まりとなる。絶対悪、追及しても無駄? それではホラーでありスプラッターだ。ジェイソンだ。この映画はサイコパスに逃げない。サイコパスが他者を受け入れて人間社会の中で生きようとする物語なのだ。

月末のバンドが高校の時の仲間と聞いて、宮越が “高校の同級生? いいなぁ”と呟く。その台詞の背後には大変な物語が隠されている。おそらく監督と脚本家の間には出来上がった脚本の何十倍もの背後の物語が確認されているはずだ。それを役者が血肉化する。言葉になったものだけを伝える役者とその背後の物語までも伝えられる役者とでは映画の厚味が違ってくる。この映画、どの役者も台詞の背後を感じさせてくれる。見事なキャスティング。監督のシテヤッタリという顔が見える様。

 

宮越には自分の都合しかない。いつも突然現れる。最初にバンドの練習を覗いた時も窓越しに突然現れた。映画はこの不連続な突然性、或る意味幼児的天真爛漫をホラー仕立てにして引っ張って行く。突然現れる宮越は怖い。

その宮越が月末たちのバンドを見て、初めて他者と関わりを持とうとした。仲間になりたくなった。だからギターを始めたのだ。ギターをちょっとでもかじった人には解るはずだが、最初はコードのCとFとG7から入る。CとG7は押さえ易い。Fが最初の壁である。宮越は、文や月末から一所懸命にそれを習う。押さえのポジションをひとつひとつ教えてもらう。

練習してる? という月末に指を触らせる。指先が固くなっている。必死なのだ。他者と共鳴したいのだ。

 

宮越と文が付き合い始める。月末が嫉妬してつい宮越の素性を話してしまう。月末は後悔してそのことを宮越に話す。“それって友達として言ってるの?”頷く月末。その時宮越は嬉しかったはずだ、多分。“言ってくれれば付き合わなかった”宮越の中には月末という他者が確実に存在していた。

宮越が練習しようよと、月末の部屋に押し掛ける。暫くして疲れたと眠ってしまう。まるで勝手な子供だ。次のカットで眠っている月末、それを覗き込む宮越。ダイレクトの繋ぎ、時間経過のカットは無い。これは怖い。一瞬首を絞めるのかと思わせる。次のカットで目覚めた月末、その時宮越はギターを抱えて夜の闇を見ていた。この時宮越は何を考えていたのだろう。月末という他者、それとも文?

宮越がノロロ様の崖に行こうと言い出す。強引に月末を引っ張って、二人は海に面したノロロ様の生贄儀式の断崖に立つ。傍らには呼びつけた文もいる。ノロロ様に決めてもらおう。強引に月末の手を引っ張って二人は飛び降りる。

この一連、物語のクライマックス、一度見の時は都合良く眠ってしまったり簡単に崖から飛び降りたり、リアリティのない展開に物足りなさを感じた。二度見の時は全く違って見えた。宮越の幼児性と他者が芽生えた苦悩が入り混じって、心の中が可視化されていた。

ミステリーとして説得力を持たせる為の理由付けのカットはいくらでも入れることは出来たはずだ。でもそうすると単なる物語になってしまう。

この一連、月末は強引に引っ張られて、何が何だか解らなかったかも知れない。ここは引っ張る松田より引っ張られる錦戸の方が難しい。錦戸には一貫してニュートラルな中に微妙なニュアンスの変化がある。

審判はノロロ様が下す。社会を維持する為に措定されたノロロ様、結果は解っている。それは宮越も解っている。審判は宮越にとって救済だったのかも知れない。

 

劇伴はプリペアドPfか、サンプリングsynか、それともギターをミュートして作ったか。6人の疑念を誘うようなところにサスペンス効果も兼ねて付けられている。良く聴けば調性はあるがほとんど効果音的な音楽である。感情を増幅するようなことにならない様、細心の注意を払っている。

確か二か所、崖の上でノロロ様を説明するところ、友情らしきものをお互いが感じるところ(?) にギターの分散和音で音楽らしい音楽が鳴る。突如の音楽らしい音楽にちょっと唐突感があった。理屈としては解るが、音楽無しでも良かったか。

二人が崖から飛び降りるところ、音楽的にはクライマックス、ここだけはSynが厚く荘厳なメロディを奏した。宗教的な意味合いか。Synの響きがちょっと安っぽい感じに聴こえた。唐突に人声の大コーラスというのも映画のデフォルメとしてはありだったか。

などと勝手なことを言いつつ、全体に映画の内容を良く理解した音楽。エンディングはボブ・ディランの曲「DEATH IS NOT THE END」のNick Cave & The Bad Seedsによるカバー。歌詞が解らないのだが、音楽の流れとしては素朴な感じで良かった。

 

おそらく監督が細かい指示を出し音を一つずつ貼り付けていったのだろう。きっと監督は自分の思い通りに出来た。これは一つの完成型である。

楽家から全く違った発想が提案されることがある。その時監督の意図を超えた掛け算効果が生まれる。例えばどこかの民族音楽、あるいはそれ風、ガムランだったりイランだったり、楽器のディジュリドゥだったり、そんな全く異質の音楽をぶつけた時、映画は芳醇な別世界になる。街を覆うノロロ様のテーマだ。音楽を監督がコントロールすると監督の知っている音楽の範囲を出ない。それで充分ではあるのだが、映画が劇的に変わることはない。プリペアドPfの効果音的劇伴は西欧的知性的現代音楽の響きである。もっと土の匂いのする音楽を見つけられたら、違った映画になっていたかも知れない。

パリ、テキサス」(1984) のライ・ク―ダ―のスライドギターのテイストでやる手もあったかなどと勝手に色々考えた。

 

羊の木とは、有り得ないことが起きる、そんな意味か。

たかだか人間の理性、判断出来ないものは山ほどある。その為にはやっぱり神様は必要だ。政治化してない素朴な神様、人間が措定したノロロ様はきっとのっぺらぼうだ。

 

監督.  吉田大八    音楽.  山口龍夫   

2018. 2. 24 「犬猿」 テアトル新宿

2018.2.24 「犬猿テアトル新宿

 

予告編、多分漫画が原作の今風青春物、タイトルも「恋する君の隣には」、性懲りもなく三番煎じ企画、一体どこが作ったんだ。最後に素人の女の子の、もう感動しちゃって、というコメント映像が流れる。素人にしてはちょっと可愛い、コメントもヤラセっぽい。こりゃ仕込みかな? と突然COして黒味。予告とはいえ随分乱暴な繋ぎをするものだ。その黒味の左隅に「犬猿」という文字が浮き出て来た。アレっ? さっきのは別の映画の予告だよね?

“眞子ちゃん、映画出たんだって” “エーっ、まあ” コメントしていたあの素人だ。何という導入。別作品の予告ではなく、「犬猿」のアバンだったのだ。ここで気持ちはグワッと掴まれた。もう映画に身を任すしかない。

 

腕力だけが取り柄のムショ帰りの兄・卓司 (新井浩文)、謹厳実直、地味で小心者の弟・和成 (窪田正孝)、あまりに正反対の兄弟。

家業の印刷屋を切り盛りして孤軍奮闘、責任感が強く、それなりに頭も良い、但し不器量な姉・由利亜 (江上敬子・お笑いのニッチェの片方)、ちょっと可愛い顔と大きな胸だけが取り柄の、女優を夢見てしまっている妹・眞子 (筧美和子)、こちらも正反対の姉妹。

二組の正反対が入り組んで、恨んで嫉妬して、でもやっぱり兄弟姉妹の絆は絶ち難い、と美しく纏めることはせず、犬猿の仲はまだまだ続くという物語。

東京の下町か地方都市か、敢えてこじんまりとした世界に限定して、犬猿カリカチュアして描く。広い画は一つも無い。「ビジランテ」の様に時々そとには広い世界があるといったカットを入れて、閉塞感を強調する訳でもない。これで映画を成立させているのは見事な脚本と見事な四人の役者の演技である。そして何より自ら脚本を書き、役者からそれを引き出した吉田恵輔監督の力である。

新井浩文は直ぐにぶん殴る兄を演じて演じているとは思えず。本格的な役者としての演技はこれが初めてではないのか、ニッチェ・江上の演技賞物の成り切りは驚愕の域。

筧は、普通の生活の中では可愛いとチヤホヤされるも女優としてはとても無理という現実を勘違いしてタレントを夢見てしまう、芸能界に山の様に居る役柄を、ほとんど地でやっている様だ。普通に可愛いことを利用した要領の良さと小狡さが本当にハマっていた。この映画の唯一の色気の部分、見ている内に本当にエロくそそられてきた。

窪田は真面目で地味で、でも兄を警察に売ったりして、目だけはいつも屈折している。四人の中で唯一複雑なキャラ。

 

吉田監督作品、これまでに劇場では「ばしゃ馬さんとビッグマウス」(2013)「銀の匙」(2014) のみ、あとは「純喫茶磯辺」(2008)「さんかく」(2010)「麦子さんと」(2013)をDVDで観た。「銀の匙」のみ原作物、しかも配給は東宝。他はオリジナル脚本で単館系。吉田監督らしさはもちろん後者である。どれも身近でこじんまりとした世界。作為的で大仰なドラマは無い。殺人や病気や死やタイムスリップを安易に使わないということだ。つまり吉田作品はそれ自体が今の邦画作品への強烈なアンチテーゼということだ。導入など今の邦画やその宣伝スタイルを馬鹿にし切っている。

シナリオライターになるという夢の諦め時を探すアラサー女と今だ形にならないカオスのままの傑作を抱えて大口叩く若造(「ばしゃ馬さんとビッグマウス」)、若い夫婦の間に妻のピチピチの高校生? の妹が介入して簡単に壊れる夫婦とストーカー化する妻、妹を追うも軽くあしらわれる夫 (「さんかく」)、離婚して喫茶店を始めた父親とそれを馬鹿にしながら心配する娘(「純喫茶磯辺」)、生みの母との何年振りかの再会とその死(「麦子さんと」)、どれも本当に日常的でよくある話、そこに笑いをみつけユーモアをまぶして洗練された映画にする。これは大変な才能というしかない。こんなデリケートと洗練を受け入れてくれるのは今の映画界では単館系しかない。テレビも映画もあざとさを増す中で単館系の映画のみがこれを可能にする。本来はこれが邦画の主流であるべきなのに。

由利亜が作ったチャーハンを卓司が引っ繰り返してテーブルの柿の種が混ざる。それを卓司が喰って、イケる、味に芯が出来た!  由利亜も喰って、本当だ!  この二人のやり取り、頭にこびり付いて、しばらくの間思い出し笑いをしていた。よくぞこんなシーンを思いつくもの。吉田監督の日常を見る目が好きだ。

 

終わり方がちょっとあっさりし過ぎているような。刑務所に柿の種入りのチャーハンを差し入れする由利亜とか、由利亜と卓司がくっ付き、和成と眞子が結ばれた、という写真がローリングの下絵に入るとか。色々考えてみたがそれも纏め過ぎか。今のまんまの犬猿は続くという新井の顔で終わるのがやっぱり良いか。

音楽、めいなCo。実は観てから大分経つので記憶がない。確かほとんど音楽は無かったような。音楽を必要としない映画だったような気がする。

こういう映画にこそ四人に共通の幼い頃の "歌" が見つけられれば。「鉄腕アトム」でも「夢は夜ひらく」でも「どんぐりコロコロ」でも「讃美歌」でも、そんな音楽的仕掛けが出来る映画。こんなの滅多にない。

 

監督. 吉田恵輔   音楽. めいなCo.

2018.2.07「嘘を愛する女」日比谷シャンテ

2018.2.07 「嘘を愛する女日比谷シャンテ

 

5年も一緒に暮らしていた男の、名前も仕事も免許証も嘘だった、全く何者か解らない、こんなことってあるだろうか。どこかでアレっ? と思う瞬間は無かったか。

ふとしたことから猜疑心が起きる。一旦起きた猜疑心は止めようもなく、真実を知りたがる。真実なんて解らないままにしておく方が良いことは一杯ある。しかしそうは行かないのが人間の習性だ。そうした方がドラマは膨らんだのではないか。

この映画のヒロイン由加利 (長澤まさみ) に猜疑心は起きなかった。相手の男桔平 (高橋一生) がクモ膜下で倒れ、警察からの連絡で初めて知る。この男は一体何者なのだ? ここから男の正体を突き止める旅が始まる。「嘘を愛する女」ではなく「真実を追求する女」である。

由加利はウーマンオブザイヤーにも輝いたやり手女、3.11の混乱の中で出会い、一緒に住むようになる。結婚も考えている。が、男が煮え切らない。普通ここで猜疑心が湧くけどなぁ。

桔平が残した書きかけの小説を頼りに探偵 (吉田鋼太郎) と共に、桔平の正体捜しの旅に出る。その過程で自分の仕事中心の生き方が洗われていく。自己中のイヤな女が普通になっていく。

突き止めた桔平の正体とは、こちらも有能な医師で月の半分は家を留守にするという仕事人間。幼い娘を抱えた妻は育児ノイローゼから娘を殺し、自分もトラックに飛び込んだ。以来桔平は過去を全否定して、流れ者として別の人生を歩む。男も女も同じような精神的履歴を持っている。ちょっとありきたり。

最後は昏睡状態の桔平の枕元で由加利が長々と懺悔をする。すると桔平の目から一筋の涙、意識が戻ったのだ。つまり、あなたのことが解りました、私も変わります、お帰りなさい、ということ。

僕は「嘘を愛する女」というタイトルと思わせぶりなポスターから、てっきり大人になった長澤の魅力を全面に出した少しエロティックなフランス映画のようなサスペンスを期待していた。それがとってもこじんまりしたアラサー女の自分捜しの映画だった。おまけにエンドタイトルで松たか子の如何にも等身大という主題歌が流れる(歌詞は聞き取れなかったが)。あまりに当たり前の話にこじんまりした主題歌、物語の芳醇がどこにもない。僕が勝手に期待していたものと違っていただけなのかも知れない。アラサー女性は共感するのかも知れない。

まるで5年間が記憶喪失だったように思えてならない。桔平はまっさらになって由加利と5年間を過ごした? そんなことある訳がない。例えば、TVから流れる歌に桔平が突然パニックする、死んだ娘が良く口ずさんでいた歌だった、とか。こういう時に歌は便利だし、上手く使えば良い演出になる。ガンダムのプラモデルよりきっと効果的だ。そんな些細な仕掛けを張って事件が桔平の中に生々しくあり続けていることを示すべきだった。

 

「海街ダイアリー」以来、長澤まさみは一皮むけて存在感のある役者になったなぁと思っている。「散歩する侵略者」も良かった。美貌と抜群のスタイル、但しこの美貌、笑うと底抜けに明るい。100%明るい天真爛漫で綺麗なお姉さんになってしまう。女優を突き抜けてしまう。長澤が存在感を発揮するのは100%笑いをしない時だ。この映画でも唇を横にしてシニカルに半笑いするカットがあった。あそこで止めなければいけない。随分前のNHK大河ドラマで時代に翻弄される忍び実は真田幸村の妹 (確か、出演回数は少なかったが) をやった時、半笑いすらせず、ひたすら思いつめた様な表情をしていた長澤、これが良かった。長澤には暗い役をやらせた方が良い。勝手なことを言ってすいません。この映画では何ヶ所か100%笑いをしていたなぁ。コントラストを付ける為だったのだろうけど。

高橋一生、この人は居るだけで何かを抱えている感を醸し出す。存在感ある良い役者ということである。けれどこの人も笑うとラクダ顔になる。この顔をされると何か抱えている感が吹っ飛んでしまう。この人も笑わせてはいけない。

 

出会いの3.11が単に小道具化している。エキストラの動きも緊迫感無し。

吉田鋼太郎の探偵は良かった。奥さんの浮気を知って、娘を自分の子ではないのではと疑ってしまう。DNA検査の結果、99.9%自分の子。娘が、あの人99.9%私のおとうさんというエピソードは良い。

 

音楽、富貴晴美。真っ当な手堅い劇伴を書く。オーケストレーションもしっかりしている。この映画でも硬質なピアノとバックにシンセを這わせた曲が前半の謎めくところに付けられる。必要な所に的確に付けている。ピアノがフルートに変わりチェロに変わりして、バックも生の弦になったり、とってもシンプル。真っ当で当たり前。昨今真っ当で当たり前の劇伴が少なくなっているので、これは貴重だし評価すべきである。

ここからは敢えての要望。こういうひねりのない真っ当過ぎる映画こそ、音楽が強引に色付けしても良かったのでは。ブルガリアとかイランとかアイルランドとかガムランとか、あるいはギターだけとか、色合いのはっきりした民族音楽や楽器で全体を色付けしてしまう。もちろんこれは監督との相談の上だが。奥行の無い映画が時として音楽で全く違った奥行を醸すことがある。この映画はそんなことをトライしても良かった気がする。

絵面に合わせたばかりの足し算の劇伴、目を見張る様な掛け算の映画音楽に出会いたいものである。

 

監督. 中江和仁  音楽. 富貴晴美

 

2018.1.26 「DESTINY 鎌倉ものがたり」 新宿ピカデリー

2018.1.26「DESTINY 鎌倉ものがたり新宿ピカデリー

 

鎌倉である必然性が全くない。鎌倉はお化けも死者も普通に共存する、何故? 多少は鎌倉の歴史なり地形を紐解いて、簡単な理由づけのひとつもあれば。鎌倉はそう言う所です、ご了解下さい、で始まり終わる。

前世からの因縁で推理小説家・一色先生 (堺雅人) と亜希子(高畑充希) は結ばれることになっていた。そういうことなのでご了解下さい。そうか、これはファンタジーなんだ、何でもOKなんだ。解りました、了解です。

けれど亜希子が階段で躓いて死んでしまう。あれは何? ドラマの発端なのに。話も唐突。映像的にも良く解らない。

 

魂と肉体が分離する。少し前に死んだ、小さな娘がいる母親の魂が、この世に未練を残して彷徨っていた。そこで亜希子の肉体を使って少しの延命をする。このヘンテコな斡旋をするメフィストフェレスの様な死神コーディネーターが何と安藤サクラ。ガム子も芸域を広げたものである。

亜希子の肉体を捜し当てた一色に、父親と亜希子の姿をしている死んだ母親と幼い娘が、どうかもう少しこのままにさせて下さいと泣いてすがる。ヘンテコな話である。

一色は黄泉の国に亜希子を取り戻しに行く。肉体は見つけた。魂と一体化させてこの世に連れ戻す。ファンタジーだ、無粋なことは言うまい。

そこには死んだ一色の父親と母親が幸せそうに暮らしていた。

 

あの世は瀬戸内の島々に小さな家がへばりついている様、ちょっと中国テイスト、「千と千尋~」の匂いもする。そこに何代も前から亜希子に横恋慕している怪物が出てくる。そいつをやっつけて無事この世に帰って来るという話だが… 何度も言う、これはファンタジー、何でも許される。でもそこに人間は死ぬ存在であることの哀感なり詩情のようなものが少しでも漂っていれば…

原作の漫画はどんなものなのだろう。まずは原作を映画のシナリオにしなければならない。映画以前のシナリオではどんなにCGを使ったところで映画にはならない。

亜希子は肉体と魂が合体したことで生き返り、先の母親は本当の死を迎えることになる。その時泣き叫ぶ娘を見て、”一色先生、また来世で会いましょう” と肉体を提供して、この世には戻らない位のドラマがあるのかと思っていた。

堺雅人は適役だったのか。あの独特のデフォルメはこの映画に合っていたのか。イヤ、あのデフォルメのお陰で何とか持ったのかも知れない。高畑充希はブッチャイ可愛らしさを出して健闘。貧乏神 (田中泯) が天本英世にちょっとWった。

音楽、佐藤直紀。大編成のオケで正統な劇伴を書いていた。「海賊と呼ばれた男」でも佐藤の音楽が映画を支えた。しかしさすがの職人技をしても今回は支えきれなかったようだ。

 

監督. 山崎貴  音楽. 佐藤直紀

2018.2.09 「スリー・ビルボード」 シネリーブル池袋

2018.2.09 「スリー・ビルボード」シネリーブル池袋

 

アメリカ中西部ミズーリ州の片田舎、黒い山並みと町のロングにソプラノで「庭の千草」 (原曲はアイルランド民謡) が流れる。荘厳な感じがする。何が始まるのか。

中年女ミルドレッド (フランシス・マクド―マンド) が広告屋に立て看板3枚を依頼する。迷った車位しか通らない様な道沿いの立て看板。一か月の広告料5000ドルと原稿を渡す。“娘はレイプされ殺された”“警察は何もしてくれない”“ウェルビー署長、早く犯人を捕まえて”(大よその意味) そんな文字だけの看板、荒野に突っ立って異様だ。

翌日、田舎町は大騒ぎとなる。ウェルビー署長 (ウッディ・ハレルソン) は白人の間ではそれなりに人望があるらしい。マスコミが飛びついて現地からリポートする。ミルドレッドは一躍時の人となり、同時に町中を敵にまわすこととなる。この町の白人は大半が裕福ではなさそうだ。プアホワイト、白人であるということが唯一のすがり処の、まさに今、トランプを支持する人々だ。

ミルドレッド、娘は殺され、息子が一人、夫は家を出て19歳の小娘と暮らす。

ウェルビー署長には若い妻と幼い娘が二人 (双子?) 、実は癌を患っている。余命幾ばくもないことは町中の人が知っている。

署長が可愛がる部下ディクソン (サム・ロックウェル) は黒人差別主義者ならぬ有色人種差別主義者。暴力でしか自己表現が出来ない。しかもマザコン。老母と二人暮らし。老母はかつての南部を懐かしむ。ディクソンが言う。”俺はキューバ人のホモが大嫌いだ” 共産主義と同性愛、日本で言うところの“露助のホモ”を彼の地ではそう言うのか。

牧師が説得に訪れ、元夫も止めてくれと言いに来る。息子はいじめられ、ミルドレッドの同僚の黒人女は不当に逮捕される。ミルドレッドを取り巻く人々が手際よく描かれて、そこに閉鎖的で保守的な町全体が生々しく立ち現れる。ミルドレッドも娘の事件が起きるまではその一員だったのだ。小男のメキシコ人を見下していた。

署長が癌を苦に自殺する。それを、看板が署長を追い詰めたと巧みにすり替えて、ミルドレッドへの反感はピークに達する。ペラペラのTVマスコミは直ぐにそっちへ乗り換える。どこの国も同じだ。何でも許される、そんな雰囲気が街中を覆う。ディクソンは広告屋をボコボコにして二階から突き落とす。ミルドレッドは警察に火を放つ。暴動はこうして起きるのだ。

署長は遺書を残していた。ディクソン、君には警官としての才能がある、ただキレルのは良くない、キレないで冷静に物事を見つめよ。ミルドレッド、捜査はしたのだ、しかし犯人をあげられなかった、すまないと思っている、看板は続けてくれ、と一ヵ月分の広告料が添えられていた。(大体の意味)

署長の遺書は潮目を変えた。さらに新しい署長は黒人で冷静な人だった。みんなの中に少しずつ相手をおもんばかる気持ちが芽生える。

 

ミズーリ州、アメリカの中央、かつては西部への入口だった。遅れてやってきたアイルランド系移民は必死で自分たちの居場所を作ったのだ、おそらく。冒頭の「庭の千草」がそう語っている。南部の奴隷制の下、良い暮らしをした白人の郷愁も流れ込んでいる。今はメキシコ人もいる。複雑な民族感情。

ミルドレッドも差別撤回なんて微塵も考えていない。ただ娘がレイプされて殺された。警察は動かない。それへの怒りだ。

アメリカはまず暴力だ。何事もそこから始まる。僕など彼の地に生まれたら生きていけなかった。バンダナ巻いて繋ぎの戦闘服を着てミルドレッドの強いこと。シガ二―・ウィーバー以来の強さだ。みんなそれぞれに怒っている。多分背景に ”俺たちの町” がある。そこによそ者が入って来た。”差別はいけない” という金看板を掲げて。

遠い日本から見た時、何でトランプなんかを支持するのか、アメリカ人は馬鹿か、と思っていた。立場を変えるとそれなりの言い分も解って来る。それ以前にはインディアンの征服がある。これって世界中どこにでもある話なのだ。砂漠、多分シリアあたり、レイプを自慢げに語る元米兵らしき男の話がさり気なく挟まる。

署長の遺書と、燃える衣服を消火してくれたメキシコ人のジャケットと、一杯のオレンジジュースが、ディクソンを変えた。現実はそんなものなのかも知れない。ディクソンは犯人捜しの為に大火傷の身で体を張ってくれた。

初め犯人はてっきりディクソンだと思っていた。そう思わせて引っ張る意図はあったと思う。ミルドレッドとディクソンは対立の象徴である。それが最後は二人して悪い奴らを懲らしめに行く。けれど悪い奴らをヤッたところで憎しみの連鎖は止まらない。本当にヤル? 道々考えよう。許すことを知った二人の、良い終わり方である。

 

こうして書くとリベラルなよくある話になってしまう。映画は全く違う。これは脚本監督のマーティン・マクドナーの腹の中にだけあり、映画は怒れるヒロインの復讐劇。いちいちカッコイイ。ミルドレッドは鉄壁の怒りに身を包んで、めげない、笑わない。最後の方、一回だけ笑ったが何のシーンだったか。我が劣化する記憶力が哀しい。

犯人は現れず、復讐劇は追及の過程で少しずつ自分自身や周りが変わっていくという話に変化していく。ミルドレッドと一緒になって怒っていた自分が、気が付くと人を許す気になっている。

 

音楽、冒頭の「庭の千草」の直後に入るのはギターがメロを取るスローな曲。後ろに弦が薄く這っていたか。そしてカントリーを基調としたバンド編成の劇伴。ギターかピアノがメロを取る。どれもベースの低音が効いている。何だかんだありながら、みんなしっかりと大地に根ざしている、とでも言う様に。人間ドラマの背後にはいつもそびえ立つ山並みがあり、広大な荒野がある、人間の喜怒哀楽を見守る様に。ベースはこの大自然と呼応している。

物語の展開に合わせた音楽はほとんど既成曲が受け持ちメリハリを付ける。カントリーミュージックを中心に上手い選曲上手い充て方。これがあるのでオリジナルの劇伴は大ロングの視点で付けられる。

 

かつての西部劇の復讐ものを一捻りして、密かに社会派的視点を盛り込んで、いつの間にか考えさせられつつ、カッコイイ娯楽作品として纏めた、見事な作品。細やかな思いやりが違いを乗り越える、ありきたりだがこれしかない。優しくて強力な反トランプ映画、アメリカもまだ捨てたものではない。(これはイギリス映画?)

 

「庭の千草」が耳から離れない。たった一曲がいかに多くを語るものか。

 

脚本監督. マーティン・マクドナー   音楽. カーター・バーウェル