映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

 

暫く更新を怠っていた。今年最初のUPである。今年に入ってまだ映画を二本しか見ていない。一本目は「家に帰ろう」、とっても良い。これについては近々UPの予定。二本目がこれ、重いだろうことは想像がついた。平和な日本でゆる~く暮らす僕にとってはちょっと億劫な気もしたが、観て良かった。

 

バハール (ゴルシフテ・ファラハ二) はクルド人、フランスに留学した経験を持つ弁護士。夫と幼い息子一人。家で寛いでいるところを突然ISに襲われる。男たちは塀に並べられ、こともなげに銃殺される。食べたり話したりの日常の行為の延長の様に。息子はISの手で戦闘員として洗脳教育するべく連れ去られる。バハールは性奴隷として奴隷市場に売られ売買を繰り返される。

これは劇映画だ。脚本があり、演出され、俳優が演じている。似たようなことが現実に起きていることを僕らはニュース等で知っている。だから映画として創り出されたものであると距離を置いて見ることが出来ない。普通の映画の様な距離感が取れない。今起きている現実が映画として再現されている様で、映画の良し悪しという見方が難しい。

決してドキュメンタリーの様な作りではない。むしろきちんとしたエンタテイメントの作りだ。もっとドキュメンタリー寄りの作り方もあったはずだ。その辺は意見の分かれるところだと思う。

 

人は人を平気で殺す。ナチはその工場まで作った。随分前、「朝まで生テレビ」の『南京大虐殺』の特集で、従軍した人が、何万人か解らないが中国人の手足を縛り縄で数珠つなぎにして次から次へと揚子江に落としていったと泣きながら語ったのを強烈に覚えている。アメリカはベトナムでソンミ事件を起こしている。ロシアもポーランドカティンの森事件を起こしている。中国でもアフリカでもユーゴスラビアでも。人間は人間を平気で殺すのだ。山で遭難した人を救出するとか、洞窟に取り残された子供たちを世界中が協力して助け出すとか、人ひとりの命は地球より重いなんて、平和な一時だけの話だ。人類の歴史は同類同志の殺し合いの歴史である。もしかしたら生物としてはそれが自然なのかも知れない。それを超えるのが人間の文化だ。相変わらず人類は自然のまんまであり、一向に進歩していない。

そんな現実がシリアでは、今、ある。日本に生まれて良かった、今の日本に生まれて良かった… 戦いの悲惨は女に凝縮される。映画はその凝縮としてバハールを描く。

 

アサド政権があり、反政府勢力があり、ISが居て、クルド人がいる。それにロシアやアメリカやトルコが絡む。みんなそれぞれ歴史を背負い、利害が絡み、それなりの言い分がある。ISにだってそれなりの言い分はあるはずだ。成る程、長い間にわたり男が作った歴史の結果だ。今、世界は男の歴史の帰結としてある。

この映画の視点は明解だ。悲惨の凝縮としての女からの視点だ。だから余計な政治状況の説明はない。自分たちをこんな悲惨に合わせた者、それが敵だ。

 

ISから逃げ出した女たちが武器を取る。バハールを中心に ”太陽の女たち” という武装集団が自然発生的に生まれる。女たちは街を奪還する為に戦う。バハールは息子を奪い返すために戦う。

回想で、ISから命懸けで逃れるエピソードが語られる。この回想は鬼気迫るものがある。破水した妊婦を連れての脱出劇だ。国境検問所までの数十メートル、途中で産み落としたら追手に捕まる。あと数メートル我慢! 手に汗握るシーン、女ならではの視点。

 

似たようなシチュエーションで「灼熱の魂」(拙ブログ2012.2.15.) があった。謎解きサスペンス仕立てで作劇は凝っていた。映画的興趣としてはこちらが上かも知れない。何せ監督は今をときめくドゥニ・ビルヌーブ、この作品の後、「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18)「メッセージ」(拙ブログ2017.5.23)「ブレードランナー2049」(拙ブログ2017.11.10)を撮っている。自身の作家性と商業主義のバランスを見事に取っている人だ。

それに比べるとこちらの作劇はシンプルで一直線だ。今起きている現実がそうだからだ。シンプルな筋立てにリアリティを与え、一級品にまで引き上げているのがバハール役のゴルシフテ・ファラハ二という女優。僕はこの人を知らなかった。この映画の為にオーディションで見つけたのかと思っていた。圧倒的な美貌、その大きな瞳は神懸っている。戦うミューズである。バハールそのもの、この映画の為にだけ女優になった人だと思った。今後他の役はやらないし出来ないだろうと思った。ところがジャームッシュの映画やなんと「パイレーツオブカリビアン」にまで出ている人だという。僕には想像がつかない。もしこちらを先に見ていたらどうだっただろうか。

 

音楽は ”太陽の女たち” が戦闘の合間に唄う歌が全てである。

 

私たち女がやってきたぞ 私たち女が街に入っていくぞ

戦いの準備は万端だ 私たちの信念で奴らを一掃しよう

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の時代

女たち それは最後の銃弾 手元に残された手榴弾

この体と血が土地と子孫を育む 母乳は赤く染まり 私たちの死が命を産むだろう

私たちはゴルディンの女 

さあ街に入ろう 戦いの準備は万端だ

私たちの信念 新しい日の始まり

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の…  (予告編の字幕より ネット調べ)

 

この歌は実際のものかと思ったら、監督が現地の女性たちを取材した中で作ったオリジナルなのだそうである。曲も現地の音楽を参考にして音楽担当のM・キビ―が作ったとのこと。実際に現地で唄われている様にしか思えない。この歌がこの映画の全てを語っている。

 

劇伴はかなりしっかりと入っている。映画自体が基本的にはエンタテイメントの作りを守っており、従って音楽もエンタメ映画の付け方である。感情と状況に即してしっかりと付けている。ピアノをリバーブ目一杯効かせて回想シーンやサスペンスシーンにあてたり、Tpがソロを取ったり、大きくはないが弦もしっかりと入っている。少しエモーショナル過ぎやしないかというところもある。もっと音楽を減らして辛口にした方がよかったのではと思う。

 

”太陽の女たち” は街の奪還に成功し、バハールは息子を取り戻す。この辺は随分あっさりした描き方だ。洗脳された息子がバハールを撃ってしまう位の結末かと思ったら、無事に救出されて終わった。後味は良い。映画的作劇に毒されているのは僕の方だった。

 

隻眼の仏ジャーナリスト・マチルド (エマニュエル・ベルコ) 、彼女はバハールを見つめ報道して世界に発信する。彼女は外の世界からのバハールたちへの連帯の象徴だ。報道なんてワンクリックで終わり (そんな意味、不確か) と言う彼女の言葉が痛い。それでも彼女はバハールへの連帯のメッセージを世界に発信し続ける。

 

”太陽の女たち” の不揃いなあの歌は、男たちへの宣戦布告に聞こえてならない。

 

監督.エヴァ・ユッソン   音楽.モーガン・キビ―

2018.08.24「Wind River」角川シネマ有楽町

2018.08.24「Wind River」角川シネマ有楽町

 

大分時間が経ってしまったが、良い映画だったのでメモと記憶を絞り出して記す。記憶違いあるやも。

 

アメリカは広い。舞台はワイオミング州だという。ワイオミングと言えば「ララミー牧場」だ。緑豊かな大平原のイメージである。ところがこの映画のワイオミングは極寒、マイナス30度にもなる、先住民族居留地。征服者は先住民族をそこに押し込めた。大昔ではない、今の話。未だにそんなものがあるなんて考えもしなかった。

そこには希望がない。抜け出すには、男は軍隊か大学に入ること、女は白人の男を捉まえること。大学に行ける奴なんて限られている。大半の男は軍隊に入り、イラクアフガニスタンで戦争し、沢山殺した奴が英雄となって偉大なアメリカの一員として認知される。居留地に残された者はヤク中かリストカット常習者だ。重く重く淀んでいる。

 

雪原で若い女の死体が発見される。雪の中で死ぬとはきっとこんなことなのだろう。死体はリアルだ。当然ながらレイプされていた。 

フロリダ出身という新人FBI の女ジェーン (エリザベス・オルセン) が派遣されてくる。部族長やら野生動物保護官やら、資格を立てに言い争いが始まる。FBIが一番偉い。検視をします。そんな設備10キロ先だ。応援を頼みます。来るわけがない。部族長がボソッと言う。この地を甘く見てるな。法律はアメリカの隅々まで行き渡っているが、それが守られ実行されているかどうかは別の話だ。ハンターのコリー (ジェレミー・レナー) が、レイプ現場から逃げて10キロ雪原を走り、マイナス30度の冷気を吸い込んで肺が破裂して死んだと説明する。コリーはジェーンの協力要請を引き受ける。

 

冒頭Wind River賛歌のような詩が実景に被って読まれる。多分コリーの娘の声だ。登場しない娘が冒頭と最後でこの映画を深いものにしている。

この事件の捜査の過程で謎解きのようにコリーの物語が語られて行く。

コリーには先住民の妻と16歳の娘、5歳の息子がいた。娘は大学に行くことを夢見ていた。その娘が少し前、レイプされ雪原で遺体となって発見された。犯人は挙がっていない。妻は夫と別れ、この地を出ることを決意する。コリーには発見された遺体と娘がWっていた。

集落から数キロ離れた所に土木作業?をする白人作業員のプレハブ宿舎があった。そこに7~8人の男が寝起きしていた。最下層の白人、昔で言えば流れ者、白人ということだけが唯一のすがり処の男たち。きっとトランプ支持だ。遺体の女はこの中の一人に恋をしてこの地を抜け出す夢を見た。女の匂いを嗅ぐだけで狂う男たちは二人の逢引きの場を襲い、男を殺し、女をレイプする。女は生きようと必死で雪原を10キロ走り、息絶えた。ジェーンは段々と法律が無力なこの地が解って来る。

 

こう書くと話はシンプルだが、映画は必ずしも時系列で分かり易く編集されてはいない。コリーの主観で、その都度過去や思いがカットバックで挿入される。ジェーンがプレハブをノックするところから一気に過去の同じドアのノックにカットバックして逢引きする二人とそこを襲う男たちの描写へ繋げる編集は、映画好きには上手いと受けるかも知れないが、映画慣れしてない人には多少の混乱をきたすかも知れない。

 

男たち7~8人、ジェーン、部族長。離れたところから照準を合わすコリー以外の事件の関係者が至近距離で銃を構えて対峙する決闘シーン。こんな至近距離の撃ち合い、初めて見た。みんな死ぬ。ジェーンも死ぬ。コリーとレイプの主犯だけが生き残る。コリーは男を殺さず山奥に連れて行き、死んだ女と同じ状況で放置する。10キロ歩いて国道にたどり着ければ助かる、と言い残して。

 

監督は新人、と言っても「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18 )の脚本家だ。アカデミー脚本賞にノミネートされている、ただの新人ではない。「ボーダーライン」と話しの骨格は似ている。どちらも舞台は法律など及ばない辺境、そこに法律を振りかざして単身やって来る女、女を助けることになる地獄を見た男。両作品とも時々インサートされる、人間の営みを遥かに超えた大自然の実景が圧倒的だ。 

片や先住民族、片やメキシコ国境、アメリカの縁を描くことでこの国が抱える根源的な問題をあぶり出す。

音楽は確かシンセが中心だったか。メロディ感はなく、雰囲気と状況を解らせる為の音楽。それ以上記憶に残っていない。

 

監督・脚本.テイラー・シェリダン  音楽.ニック・ケイブウォーレン・エリス

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

 

大分時間が経ってしまったが、良い映画だったのでメモと記憶を絞り出して記す。記憶違いあるやも。

 

30年間自宅とその庭から一歩も出なかった伝説の画家・熊谷守一をモデルにした沖田修一監督の作品。モリには山崎努、その妻には樹木希林、この二人には文句のつけようもない。山崎の存在感は神懸って超俗、樹木希林は日々の生活にしっかりと根ざした存在感、両極の存在感がバランス良く共存する。

モリは、今日は池を回ってドコドコに寄ってくる、と出かける。広大な庭を持つ屋敷なのかも知れない。鎌倉あたりか。予備知識無しに観たのでそう思った。見ている内に少しづつそれがそうではないことが解って来る。何か小じんまりとしている。這いつくばって蟻んこを見つめ、水溜りの様な池を覗き込む。書を頼みに来る人がいて、近所の人が顔を出し、カメラマンがその姿を撮り続ける。少しづつモリが高名な画家であり書家であり、30年間、家とその庭から一歩も出ていない人であることが解って来る。それでもそこが都会のど真ん中であることは最後まで解らなかった。建設反対の声があったにも関わらず、隣にマンションが建ち、最後にその屋上からモリの家と庭を俯瞰する画で初めて種明かしのように、ここが都会の真ん中 (池袋の近く) で、屋敷と庭も含めてせいぜい7~80坪であることが解る。そこが、見続けても尽きることのない、モリの大宇宙だった。

モリの軸足は人間社会にはない。人間の作為の猿知恵を超えて、汲めど尽きない大自然の中にある。都会のど真ん中にポッカリと空いたエアポケット、そこに吸い寄せられるように次から次に人が集まる。ご近所や御用聞き、画商やら写真家やら謎の男やら。懐かしき昭和の香りが漂う。その中心にモリがいる。

人間社会の汲々とした中で生きる人にとって、そんな空間があることだけでも救いだ。さしたる事件が起きるわけでもない。樹木希林が「寺内貫太郎一家」の時の様な格好で超俗と世間を行ったり来たりする。

天皇が美術展でモリの絵を見て、これは何歳の子が書いたのかと聞いたという。文化勲章は煩わしいからと断ったという。実話らしいそれらのエピソードが挟み込まれる。

 

知人から熊谷守一のことを少し聞いた。若い頃の絵をチラッと見た。暗く死の匂いに満ちていた。戦争、貧困、子供の死、地獄を見ている人だ。でも映画は画家・熊谷守一を描くというより、都会のど真ん中に超俗のエアポケットを作った人、という方に重点を置く。地獄を見ていることにはほとんど触れてない (僕が見落としたか ? ) 。映画としてはそれでとっても良くまとまっている。「モリのいる場所」を描くことで充分インパクトのある楽しい映画になっている。そこに沖田修一らしいちょっとした作為が加わる。みんなが集まってドリフターズの話をした時のオチは天井から落ちてくる金タライ。元ネタを知る世代としては懐かしかったがダメな人にはダメかも知れない。

 

モリが庭で植物を見つめる。カメラがどんどん進んで行き、植物の組織に入り、細胞に入り、DNAまで入っていく。小さな庭が宇宙であることを端的に解らせてくれる良いカットだ。

樹木希林は生まれ変ったら人間はイヤだという。モリはもう一度人間がイイという。見続けたいのだ。人間として生まれた事の奇跡を満喫したいのだ。もっともっと知りたい。だから一角のあれはオニなのか天使なのか死神なのか、この誘いをモリは断る。生きられる限り生きたいのだ。生そのものに還元されたモリに人間社会の雑念は入りようもない。世間との接点は妻が引き受ける。

でも若い頃の死に満ちた絵をチラ見した者としては、初めからこうではなかったこと、地獄を見ていること、をさり気なく匂わせてほしかったなんて、ちょっと思う。そんなシーンや台詞があって僕が見落としているのかもしれないが。

 

音楽、Pfを中心に、マリンバ、ヴァイオリン、アコーディオン、打ち込みSyn等の小編成。ガタゴトとSEの様な音も入る。テーマは同じ音が3つ並ぶ極めてシンプルなもの、それを繰り返す。どの楽器もみんな単純なリズムを作る。

メロディ感があるのはオニ? たちが列を作ってモリのところへやってくるところ、口笛がメロを取って鐘が鳴りマカロニウェスタンの様、この遊び心は面白かった。打ち込みをベースにして限りなく単純にした、あたかもモリの絵のような、でも細かいアイデアのたくさん詰まった劇伴である。

 

監督.沖田修一   音楽.牛尾憲輔

2018.12.18 「青の帰り道」 新宿バルト9

2018.12.18「青の帰り道」新宿バルト9

 

東京からそう遠くない地方都市 (あとで前橋と分かる) 、そこの7人の高校生、煙草を吸い、ギターをかき鳴らして自作の歌を唄い、写真を撮り、学生生活を謳歌する。畑の中を真っ直ぐに伸びる一本の道、冒頭、校舎の屋上に立つ少女の背後からこの道を映し出すクレーンカット (今はドローンカットか) が良い。この道を “俺たちは自由だ! ” と叫んでみんなでチャリに乗って突っ走る。世間とぶつかる前の可能性しかない男4人女3人の仲良しグループ。黄金の日々。

映画はここを巣立ってからの10年間 (?) を描く青春群像劇。「セント・エルモス・ファイアー」(1985) や「白線流し」(1996 CX) 等の良くあるパターン。ではあるが、それを2008年の日本の地方都市の若者がぶつかる本当によくある話を原寸大で当てはめて、青春映画の佳作に作り上げた。

年齢環境の近い人はほとんど我が事のように ”分かる! ” 、僕の様なジジイには昔の気持ちが懐かしく蘇る。

自分の歌を唄って歌手になることを夢見るカナ (真野恵里菜)、写真は好きだが写真家になりたいというほどはっきりした気持ちもないまま、母親 (工藤夕貴) との折り合い悪く東京に出て、カナのマネージャーとなるキリ(清水くるみ)、カナと一緒に唄っていたタツオ (森永悠希) は医者の息子で医大を目指すも受験に失敗し地元で浪人生活をする。リョウ (横浜流星) はデッカイことをやるが口癖で地元の土建会社で働くが資材の横流しに手を染めて東京へ出る。コウタ (戸塚純貴) とマリコ (秋月三佳) は早々と出来ちゃった婚で家庭を持ち地道に働く。ユキオ (冨田佳輔) は東京の大学に進み、卒業して保険会社に就職する。

カナは着ぐるみを着て ”無添加カナちゃん“ として売り出し、歌手として世間から認知されはするも自分の歌は唄えない。酒に溺れてキリと離れる。キリは結婚詐欺に合う。リョウはオレオレ詐欺のかけ子で一時羽振りが良くなるも捕まることになる。タツオは自殺する。ユキオは保険会社で営業のノルマに追われる。コウタとマリコは小さな家庭を築きマイホームを目指す。

 

タツオのエピソードは辛い。親が医者でそのプレッシャーを背負い地元での浪人生活、強い奴ではなかった。高校の時は自分の思いを歌にしてそれをカナが唄ってくれた。カナへの思慕もあった。引き籠りの末、思いつめて東京へ行くことを決意する。カナへ電話する。新しい曲が出来た! カナは最期の拠り所だった。間が悪い奴って居る。カナはニンジンの着ぐるみ着せられてCM撮影の真っ最中。こっちも限界に来ていた。そこへ携帯電話だ。携帯は時間や空間や思いのプロセスをすっ飛ばして突然ど真ん中に入って来る。この暴力的カットインにカナはついキレてしまう。間が悪かった。タツオは最期のすがり処に拒否された。

キリが訪ねた時、タツオの父 (平田満) が案内してくれたタツオの部屋には高崎-東京の切符と携帯がそのまま残されていた。

 

10年経って、みんな思い描いたものとは随分違うものになっていた。でも地元に帰ったキリに母親が言う。“いいじゃない、東京で10年も頑張ったんだから” (不確か)

大好きな映画「祭りの準備」(1975) を思い出した。あの映画は “祭り” をしに東京へ向かうところで終わる。この映画は “祭り” をしにいくところから始まる。この10年はみんなの “祭り” だった。夢中になって、傷ついて、死ぬことさえ考えて、死んでしまった者もいて、辛いことばっかりで、でも楽園を出て東京などという訳の分からないところで必死にもがいた “祭り” だったのだ。

 

本当によくある話だけで纏めた脚本 (藤井道人、アベラヒデノブ) が良い。何より7人の中にエリートや上昇志向の奴がいないのが良い。対比としてそんな設定をしたくなるものだがよくそれをしなかった。

テンポ良く展開する演出、ただテンポ良すぎて、地元と東京が分からなくなるところがあった。今や前橋は東京とは日帰りが可能である。けれど若者にとって地元を離れた東京は気持ちの上では決定的に違うはずだ。

時々、東日本大震災や鳩山総理といった時事ニュースが入る。時間の経過を解らせる為か。確かに10年でも3年でもおかしくない。もう少し時間の経過と空間の距離感が解った方が良かったか。いや拘る必要はないか。

若者7人がみんな生き生きと演じている。初め少女たちは少し可愛過ぎやしないかと思ったがそこは映画、カメラは照明を駆使して少女たちを綺麗に綺麗に撮っている。

久々の工藤夕貴が良かった。

 

音楽は劇伴といえるものはほんの数カ所、PfとBで単純なフレーズを繰り返す。でもそれで充分。あとは劇中の歌や現実音としての既成曲 (どれがオリジナルでどれが既成曲か僕には判別つかず) を上手く劇伴のように使ってまかなう。上手く充てている。

カナが唄う初めの歌、歌い出しのKeyが低くて歌詞が聞き取れなかった。

 

ローリングの主題歌 “もしも僕が天才だったら~”映画の中ではタツオの声で唄われ、それがローリングでamazarashiバージョンの歌となる。しっかりしたVocalとなり、ギター1本からバンド編成となって、映画の世界がきちんと提示される。これぞ映画の主題歌、こんなに違和感なくローリングで主題歌を聞けたのは今年初めてかも。ちょっと尾崎豊を連想した。

 

真っ直ぐに伸びた一本道を10年経った6人が学校の方へ向う。学校の方から叫びながら走ってくる若者たちとすれ違う。一瞬その若者たちがかつての自分たちに重なる。入れ替わりで新たな若者たちが “祭り” をしに走っていく。良い終わり方だ。

 

“祭り” は終わった。これからどうやって現実に着地していくか。

“祭り” はどんなにつらくても悲惨でも、あとで振り返れば輝いている。

 

監督. 藤井道人       音楽. 岩本裕司     主題歌「たられば」amazarashi.

2018.11.29 「鈴木家の嘘」 新宿ピカデリー

2018.11.29「鈴木家の嘘」新宿ピカデリー

 

「○○家の~」というとどうしてもコメディを想像してしまう。ましてや岸部一徳だ。これは軽いホームコメディに違いない。ところがノッケから引き籠り息子の首つり自殺だ。でも肝心なところは写さず避けている。これはその内カメラが引いて行くとTV画面になり、お茶をすすりながらそれを見る茶の間になるに違いない。“引き籠り自殺なんて可哀そうね、でも押入れの梁に紐吊って首つりなんて出来るもの?”そんな台詞がいつ被って来るか待っていた。ところがそんな台詞はあらわれず、映画はシリアスそのもの。重くて暗い。この導入、想定していたものとあまりに違うので暫く気持ちの整理が付かなかった。

 

引き籠りの長男・浩一(加瀬亮)が自分の部屋で首つり自殺する。母・悠子(原日出子)が発見しショックで記憶を失う。四十九日法要を済ませて親族が病院を訪れると、そこで母は意識が戻る。但し浩一の自殺ということだけは消されたままだ。

“浩一は?” とっさに妹・富美(木竜麻生)が、“お兄ちゃん、引き籠り止めて部屋から出て、おじさんのアルゼンチンの会社で働いているの” 父・幸男(岸部一徳)も直ぐに同調する。叔父・博(大森南朋)は確かにアルゼンチンと行ったり来たりの仕事をしていた。

それからはこの嘘を守る為にみんなが右往左往することになる。重くシリアスな通奏低音は変わらなくもその上にてんてこ舞いのコメディが乗っかる。

富美は浩一から母に宛てた手紙を書き、それを叔父の部下に頼んでわざわざアルゼンチンから投函してもらう。父は浩一の痕跡を捜してソープランドのイヴちゃんの元に通う(このエピソード、どこか見逃したか、僕には良く解らなかった)。みんなそれぞれ浩一の自殺の理由を解ろうとする。それを自分との関わりの中に見つけて自分を責める。ひとり博だけがアルゼンチンの女を妻に迎え、ラテンのノリで映画を明るくする。

嘘を守ろうとするコメディと、自分との関わりの中で自殺の理由を解ろうとするシリアスな謎解きの要素が絶妙にブレンドされて飽くことなく展開していく。それぞれが浩一の死を一所懸命考えたのだ。でも家族と言えど心の闇は解らない。

 

自殺の“何故?”は周囲に深く突き刺さる。こうしておけば良かった、こうしておけば追い詰めることにはならなかった、残された者は自分との関係の中で理由の欠片を探す。それは自分を納得させる作業なのかも知れない。

 

富美は身内の死を抱えた人が集まる心理療法のようなサークルに通う。順番に自分の経験を話すのだが、自分の番が来ると毎回パスする。終盤、遂にパスせず話した、堰を切ったように。この映画のクライマックスだ。カメラはワンカット長回しで富美を映し続ける。木竜麻生が富美と同化してのり移った様に演じる。このシーンはこの映画の白眉だ。僕はこの女優を知らなかった。「菊とギロチン」(残念ながら未見)でも好演したらしい。きっと色んな賞を取るに違いない。

岸部一徳は居るだけでユーモアとペーソスが漂う。岸部が演じると勝手にこちらでその人のそれまでの人生を想像してしまう。脚本で描いたキャラクターを十倍くらい膨らますことが出来る役者だ。

原日出子は嘘を感づいている様ないない様な、そんな淡いを見事に演じていた。本当は一番葛藤すべきは母親だったはずだ。この映画はそこを描いていない。それは映画が終わったあとに始まるのだ。きっと父と妹がそれを支える。そこまで描くともっと重いものになってしまう。映画としては程好い纏め方だと思う。

大森南朋はこんなラテンのノリも出来たのだ。

そして加瀬亮、少ししか映らないが、陰の主役としてしっかりと存在感を発揮した。受験やら就職やらが上手くいかずマザコンゆえに引き籠ってしまった。甘えているのだが、それでも本人はさぞ辛かったんだろうなあと解らせてくれる。

岸本加世子はしっかりと普通のおばさんを演じていた。役者はみんな素晴らしい。

 

やがて嘘はバレる。みんなで一所懸命嘘をついたことがこの家族の求心力となった。母はそれに感謝し、父と妹は浩一の死を納得しないまでも受け入れる。微かに光の射す終わり方である。

 

音楽、明星。主に橋口亮介作品を担当している人だ。ポピュラー系、楽器はピアノかキーボード? 音楽は最小限必要な所のみ。その音楽も考え得る限りのシンプルさ。3拍子4分音符の短い動機。これがテーマとして配置される。ピアノソロだったり、後ろにチェロが薄く入ったり。決して邪魔にならない。多分監督は優しくて邪魔にならないことを一番に考えたのだ。優しさはあるが主張しない音楽が欲しかったのだ。その通りになっている。これはこれで良いのかも知れない。

でも僕は観終わって印象に残ったのは劇中に劇伴として使われていたベートーヴェンピアノソナタ(「悲愴」第二楽章)だった。明るくもなく暗くもなく、希望でもなく絶望でもない、この有名なテーマはこの映画にピッタリだった。いっそこのテーマで通せば良かった。少なくともエンドロールはこれで行ってほしかった。明星の歌が合ってないというのではない。この映画に限らないのだが、エンドロールで突然歌が入るのはよほど奇跡的なことが無い限り、音楽の質が違うゆえに、耳馴染んでないゆえに、違和感がある。大ヒットを狙うタイアップだらけの映画なら仕方ない。宣伝効果を考えれば多少の違和感には目をつむる。しかしこの映画の様に中身で勝負する映画、エンドロールまできっちりと演出してほしいのだ。エンドはこれで行ってほしかった。

僕はこの曲、長らくベートーヴェンと知らなかった。クラシックの素養がないのでビリー・ジョエルの「This Night」(サビはこのメロに歌詞を付けている)だと思っていた。歌詞は解らないがビリーが唄うと強い意志を感じる力強いものになっている。ベートーヴェンと知って原曲を聴いた時、あまりの違いに驚いた。何とも曖昧でひ弱で明るくもなく暗くもない。でもその内、繊細で決して非力ではなく希望だって微かにある、そう聴こえて来た。この曲を映画の中に使ったのは正解である。だったらこのテーマで通せば良かった。あるいは劇中の音楽は全部無しにして、エンドにだけこれを流す、でも良かった。

しっかりした脚本で上手い構成、とても初監督作品とは思えない。良い映画だったので、つい勝手なことを言ってしまいました。ゴメンナサイ。

 

監督・脚本.野尻克己    音楽.明星    主題歌.明星

2018.11.09 「日日是好日」 シネリーブル池袋

2018.11.09「日日是好日」シネリーブル池袋

 

大森立嗣監督、麿赤児の息子、弟は大森南朋。関わった人は、荒井晴彦阪本順治井筒和幸荒戸源次郎、等(情報・ウィキペディアレベル)。「まほろ駅前多田便利軒」「さよなら渓谷」「光」といった作品群。そして風貌。てっきり武闘派かと思っていた。

その監督がお茶?間違いでは?

病気も殺人もレイプも色恋沙汰(少しはあるが)もない、等身大の女性・典子(黒木華)の20年に渡る成長記、それをお茶を通して描く。映画的スペクタクルや誇張はない。舞台はほとんどが茶室とその行きかえり、唯一広い画は海辺のみ。静かで落ち着いて普通、これが何と見事なエンタテイメントになっていたのだ。大森監督、ミスキャスト(ミス・スタッフィング?)ではなかった。

茶道の微妙な所作でエンタメを作る。袱紗の扱い、お茶のズルズルという飲み方、すり足などで笑わせる。干支に合わせた茶碗でゆったりとした人間社会の日常とは違った時間を表わす。ただ掛けられていただけの掛け軸の書が深い精神性を帯びてくる。説明的説教的なところは全くない。ごく自然に納得させてくれる。二十歳の大してお茶に興味もなかった普通の女性の目線で描かれているからだ。少女は成長し、目は深くなり、それが映画にも現れ、観る我々も一緒に茶道というものを理解していく。一人の女性の成長が我が事のように思えてくる。こんなデリケートを武闘派と思っていた監督がやりおおせたのだ。先入観で人を見てはいけない。

そういえば「セトウツミ」(拙ブログ2016.9.14)もこの監督だ。二人の高校生(池松壮亮菅田将暉)が公園の階段に座り、ひたすらオシャベリをする。カメラがそれをほとんど正面からフィックスで捉える。それだけである時期の少年の心の揺れを見事に映画的表現として成立させていた。成る程、デリケートはいけたのだ。

 

二十歳の典子は普通だ。自分が何をしたいかも解らない。勧められて大してやる気もないまま,週一辺お茶の稽古に武田先生(樹木希林)の元へ通うようになる。お茶はまず形からという先生に、それ形式主義じゃないですかと典子、そうやって何でも頭で考えようとする、と軽くいなされる。まず初めに形ありき、中身は後から付いてくる。存在は本質に先んずる、サルトルだ。禅だ。深い考えもないまま、浅薄な連想をする。ありのままを受け入れよ。人間社会の音ではなく、自然の音に耳を傾けよ。雨の音、水の音、冷水とお湯では音が違うこと、お茶を注ぐ音。一見どうでもいいことを、週一回のお茶のお稽古で叩き込まれる。その内そんな態度が身に付いていき、音の違いが分る様になり、掛け軸の“滝”という殴り書きの様な書から音が聞こえてくる。

“滝”のシーン、文字を見つめる典子、グランドノイズと蝉の声がFOして素(無音)となり、ひと間置いて滝音がFIしてくる。このひと間の素が精神世界へ入っていくブリッジの役割をする。これがあるからその後の、“そうだ、ありのままに見れば良いのだ”というモノローグが生きてくる。“滝”の音、FOして茶室の静寂。典子は一つ成長したのだ。こういうデリケートな音付けは良い。

大森監督は音に対して繊細だ。「セトウツミ」でもグランドノイズの処理が上手かった。グランドノイズ、台詞の後ろに流れる街ノイズや空気音、台詞でも効果音でもないから有っても無くてもよいようなものと思われがちだ。突然これが無くなった時初めて気が付く。普通はこれを意識することはない。しかしこれを無くすと同じ画面を突然異次元のものにすることが出来る。映像が精神世界へ飛躍する。大森監督はこの処理が上手い。僕は素を上手く使う監督は好きだ。

週一回のお茶のお稽古、それは週一回非日常の時間を持つということだ。人間社会からちょっと飛躍した時間を持つということ。そこには人間社会を超えた大きな自然世界がある。悠久の時間の流れがある。生まれて死んでいく人間。その途中にある人間社会のアクセクがどうでも良いことに感じられる時間。生命の不思議、生まれて来たことへの感謝。小さな庭の木々にカメラが寄り、それがズームして植物の中に入り、細胞を突き進み、DNAにまで達するあのシーン、「モリの居る場所」(拙ブログ2018.10.01)でモリ(山崎努)が飽くことなく見続けたあの生命の不思議だ。

茶道とは、茶室に入り、お茶をたて、茶器を眺め、、掛け軸(禅画)を見つめて、アクセクを脱ぎ捨て、心を宇宙に解放する、それを習慣化するトレーニングなのだ、多分。それが典子と共にこちらにも解って来る。

20年の月日が流れる。その間父の死や失恋や上手くいかない就職や、色んなことがある。それでも週一回のお稽古には通い続けた。いつの間にかそれが典子の心の中心線になっていた。

 

この落ち着いた映画、それに躍動感を与えたのが世武裕子の音楽だ。ピアノでシンプル軽快な4拍子のメロ、中世の香りがするエチュードの様な曲。メロはシンプルだが左手(?)のコードは決してシンプルではない。画面に合わせて転調したように聴こえる。クオリティー高く画面に細かく合わせたこのテーマがお茶の所作に躍動感を与える。映画が弾む。このテーマはチェロやフルートとユニゾンになり、少しづつ成長に合わせて変化する。

もう一つのテーマ、こちらは3拍子、ヴァイオリン・ソロがメロをとる。こちらは落ち着きのある静、感情に則した使われ方。映像は余計な説明を省くべくFOを多用。そのFOの底からスーッと入って来るヴァイオリンは秀逸だ。これらの音楽が無かったら、こんなに流れの良い映画になってなかった。エンタメになってなかった。大森にとっても世武にとっても幸運な出会い。およそ接点のなさそうな二人を組ませた人は凄い。軽快でエチュードのようなピアノテーマを発想した世武が凄い。

 

俳優(男女とも)とは、美形非美形を問わず、目鼻立ちがハッキリして主張の強い顔を持つ人がなるものだと思っていた。黒木華の顔は平べったい。目鼻立ちの主張もない。全く普通だ。僕の中では役者顔の真逆である。最初に印象に残ったのは「小さいおうち」(拙ブログ2014.1.27)。役柄が田舎から出て来た素朴な女中さんということだったので、何とピッタリな娘を見つけて来たものだと感心した。役柄に見事にハマっていた。次に「銀の匙」(2014)でお嬢様役をやった時にはやっぱり役者向きではないなと思った。「リップヴァンウィンクルの花嫁」(拙ブログ2016.4.22)で驚いた。今回の作品でさらに驚いた。今、“普通”をやらせたら右に出る者はいないのではないか。“普通”というのは役者にとって一番難しいのかも知れない。「リップヴァン~」もそうだったし、この作品もそうである。どちらも“普通”の女の子でなければダメなのだ。“普通”がいつの間にか輝きだすのだ。二十歳の“普通”の女の子が二十年を経て、落ち着いて少しふっくらとして、「日日是好日」という言葉が解って来る、このデリケートを黒木華は見事に演じた。平べったい顔の役者は絶対必要だ。ここでもまた先入観は打ち砕かれた。

 

樹木希林は、演じているのか本人がそのままそこにいるのか、見分けが付かない。多分死期が迫っていることを解っていた頃の撮影のはずだ。武田先生と一体となって悠久の時間と生まれてきたことへの感謝を感じながら演じていたのかも知れない。

 

お父さん(鶴見辰吾)が死んだ後の、海辺のイリュージョンは無くてもよかったのでは。“ありがとう!”でお父さんは見えてくる。

 

監督. 大森立嗣    音楽. 世武裕子

2018.10.16 「散り椿」 新宿ピカデリー

2018.10.16「散り椿新宿ピカデリー

 

端正な映画である。シーンシーンがまるで一服の絵の様、完璧で美しい。きっと要求通りの天気になるまで平気で待ち続けた黒澤映画の様な撮影をしたのだろう。脚本 (小泉堯史) も出来る限り削ぎ落とす、おそらく原作 (葉室麟、未読) も端正で凜としたものなのだろう。端正の塊のような映画だ。

おそらく監督には、ドラマを作るということは二の次、美しいシーンを作るということが第一にあった? それは見事に達成されている。

話はシンプル。四天王と言われた若き藩士が家老 (奥田瑛二) の不正を暴こうとするも失敗、その中の一人瓜生新兵衛 (岡田准一) は藩を追われ、妻 (麻生久美子) と流浪の旅に出る。妻は四天王の一人、榊原采女 (西島秀俊) と添うはずも家の反対に合い、新兵衛と結ばれることになった。二人は旅の過程で助け合い深い絆で結ばれて行く。その妻が病で身罷る。妻は、今は藩政の中枢で不正と戦う采女を助けてやってほしい、そしてもう一度故郷のあの散り椿が見たいと言い残す。新兵衛は藩に戻り、紆余曲折を経て、采女と助け合い、悪家老を倒す、という話である。

家老には藩の財政を立て直すという使命があり、その為には清濁併せのむことも必要だった。新兵衛にはどこかに消し切れない妻への猜疑心があり、友である采女への複雑な思いもあった。

それらを描こうとするとドロドロするから通り一遍の描写でサラッとかわす。複雑な感情をサラッとかわすとクライマックスの感動は浅くなる。観終わった後は、岡田の殺陣が凄い、岡田の所作が見事である、絵が綺麗、土砂降りの雨が黒澤映画の様だ、になってしまう。でもドラマは二の次、端正で美しい絵を撮りたかったのだから、思いは達せられている。

映画には、映像と音を使っての様々な表現方法がある。映像にシンクロした台詞や音付けは基本だが、それをズラしたり別のシーンの台詞をぶつけたり、単純な回想やナレーション処理だけでなく、その表現方法は多様だ。この映画は敢えてそれを使わない。回想やナレーションは使うものの、基本は完璧なシーンを作りその音付けをしてシーンとして完結させることだ。狙い通り一つ一つのシーンは完璧、きちんと収まり落ち着き払う。

役者は決められた台詞をきちんと言い、決められた所作をきちんと演じる。落ち着き払ってバレはない。

これって黒澤映画の真逆なのでは? 黒澤時代劇はエネルギーが次のシーンにまで溢れ出している。シーン毎に緩急が必ずある。「散り椿」ドラマに盛り上がりが欠けるからここぞという時に噴き出す血しぶきも土砂降りの雨も気持ちが付いてこないので浮いてしまう。そしてユーモアがどこにも見当たらない。何とシーン毎に独立して美しくドラマとして感動のない、でも見事な絵巻物の様な映画か。

黒澤よりも、静寂ということで僕は「切腹」を思い出した。「切腹」も落ち着き払ったシーンの連続の映画だ。でも火の出るような台詞のやり取りがある。最後は斬り合いの大移動だ。

そして武満徹武家社会の非人間的な不条理を映画の奥の方から見つめる音楽があった。

 

この映画の音楽は情感の薄さを補う為に付けられている。

音楽の種類は3つ (?) 、メインテーマ、バロック調の曲、馬の走りに付けられる西部劇の様なリズム強調の曲。でも印象としてはメインテーマのメロ押しのワンテーマ。マイナーのメロディーラインのハッキリした曲をチェロのソロで奏する。重厚ですっきりとしている。それがピアノになり、チェロとピアノのユニゾンになり、オケとのユニゾンになる。入り方はいつもメロ頭。エモーショナルな所には必ず入る。楽器は多少は違えどワンパターン。初めは情感を補強してくれたのだが、段々と、またか? になってしまった。ドラマの表層に付けられた音楽で奥行を作るような音楽ではない。解っていながら付けざるを得なかったのかも知れない。

美しい映像、絵ズラに合った音楽、ドラマに関係なく、どこを切り取ってもそれなりに見られる美しい絵巻物。監督はそれを狙ったのだろうから目的は達せられたはずだ。

 

岡田准一は確かにこの映画を支えている。良い役者になった。

 

監督・撮影.木村大作   音楽.加古隆