映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.10.09「宮本から君へ」新宿バルト9

2019.10.09「宮本から君へ」新宿バルト9

 

原作漫画、TVとも未見、どんな話かも知らず。ただこの監督の前作「ディストラクション・ベイビーズ」(拙ブログ2016.6.08) のバイオレンスがとっても印象に残っているので、そっち系かなとは思った。案の定、冒頭アバンから、欠けた前歯、殴られて腫上った顔、公衆便所のかがみに映る顔が鏡の凹凸で歪む、その顔を自ら殴って自分の不甲斐なさを責める。けれど次のシーンは、欠けた歯と腫れた顔にネクタイしめて普通のサラリーマンとして会社で上司に叱られて謝っている。チンピラ物ではなく、サラリーマンものか。

 

靖子 (蒼井優) はしたたかである。一癖ある元カレと別れる為に、年下で一直線の宮本 (池松壮亮) をアパートに連れ込む。元カレ(井浦新) が現れてひと悶着。宮本、メンツを潰され、"元カレでしょ?”と言って帰ろうとする。”だからあんたは子供なんだよ”と靖子。元カレとのいざこざの中で宮本は "俺は靖子を守る!” と叫んでしまう。行きがかり上か本心か。靖子も元カレと別れる為に宮本を使ったと謝る。その晩二人は結ばれる。結ばれ方も意味深だ。始めお互いテレながら。ところが始まると女は手馴れたもの、おまけに避妊を気にする宮本に、生で良いと言う。この辺の思惑、中々深い。

それでも二人は幸せな朝を迎え、結婚を考えるようになる。両方の親にも引き合わせる。

 

そして事件が起きる。文具メーカーの営業マン宮本は飛び込み営業で行った先で気に入られ、そこの営業部長・真淵 (ピエール瀧) に靖子とともに飲みに誘われる。

営業部長はラガーマン、連れて行かれた飲み屋はその溜り場。中年ラグビーチームの肉塊の様な男達が数人いた。みなそれぞれの会社でそれなりの地位を持つ。次々に紹介されて、営業マンとしては有難い。靖子も“彼女”としてかいがいしく振舞う。

 

ラグビーは他のスポーツよりも横の繋がりが強いという。チームや大学や会社を超えてラガーマンとしての結束がある。さらにみんな社会ではそれなりのポジションの人が多い。サッカーが貧困層から発したのに対し、ラグビーは貴族のスポーツだった。イギリスでは今でもその伝統が残り、ラガーマンの特権の様なものがあるらしい。日本にもそんなものがあるのか。とにかく彼らは強靭な肉体と社会的地位を持つ。

 

酔い潰れた宮本を送る為に真淵の息子・拓馬 (一ノ瀬ワタル) が呼び出される。”今すぐ来い” 拓馬は飲み屋街のはずれに、ターミネーターの様に登場する。かつてはそれなりの選手だったよう、今は医学 (?) を目指すとか。宮本には拓馬は眩しかった。盛んに、拓馬は偉い拓馬は偉い、を繰り返す。

その拓馬が送り届けたアパートの眠り込んだ宮本の脇で靖子を強姦する。宮本はひたすら眠りこけていた。

それからは宮本の勝ち目のない復習劇である。腕力を付ける為に重い荷物を両手に持ち、電柱で逆立ち腕立て伏せをやる。拓馬はひたすら憎たらしく描かれる。挑む宮本の姿に熱いものが込み上げる。第一ラウンドは前歯を三本折られてあっけなく終わる。これが冒頭のアバンに繋がる。

 

血だらけになった宮本に靖子は酷い言葉を浴びせる。“あんたは眠りこけていた、あんたは自分のプライドの為に戦っているんだ! ”

 

元カレが大ネタと称して言う。実は靖子は妊娠している、俺の子かお前の子か生んでみないと分からない。それを聞いて宮本は靖子の会社に突入する。"結婚しよう! 俺が全部引き受ける” 血だらけの顔でそう叫ぶ。

宮本はいつも誰かに殴られて血だらけだ。対峙する靖子は動じない。宮本の直情を見抜いている。“ふざけるな、こっちは命二つ抱えてるんだ! ” この啖呵は凄い。宮本は簡単に吹っ飛ぶ。呆然としている周りに靖子クルッと向き直って “そういうわけで私妊娠してまして” 満面の笑みで言う。唖然とする者拍手する者、もう笑うしかない。鬼気迫る蒼井、情けない池松、周りの女子社員の絶妙な突っ込み、凄いシーンだ。

大竹しのぶを継ぐ者は蒼井優だと確信する。

 

宮本は再度命懸けで戦いを挑む。しかし強靭な肉塊に宮本、あっけなく非常階段から宙吊りにされ指を三本折られる。役者・池松も命がけの撮影。またも玉砕かと思ったら、玉掴みの禁じ手から形勢逆転。このシーン、こぶしを握り歯を食いしばって気がつくと僕は一緒に戦っていた。力が入った。非力な小男が強大な大男を最後に倒すというエンタメの基本中の基本にマンマとハマる。

 

戦った相手は拓馬、その背後にあるラグビーエリート階層、そして日本社会に残るマッチョ体質。男らしさ、男は女を守らなければならない、短絡的正義感、自分の属する集団を守るということ。飛躍するが、その代表がトランプだ。そしてこのマッチョ、大衆ウケする。これで集団の纏まりを作れる。国家の基礎だ。しかし集団の外側に目をむけることを忘れると間違った方向へ行く。

 

宮本はわざわざ自転車に血だらけの拓馬を乗せて、ゴミ捨てに出て来た靖子のもとへ行く。そこで宣言する。自分の為だろうと何だろうとどうでも良い、俺はお前たち二人を引き受ける、全部俺が引き受ける! 折れた歯でフガフガしながら言う。“あんたは自分の為に勝手に戦っているんだ、あたしとは関係ない”と言いながら靖子は涙を流す。脇には這いつくばって拓馬、あんなにニクニクしかった拓馬が幼く可愛くみえる。

 

僕はここでC.Oして主題歌C.Iかと思った。が、夕方の商店街の引き画と宮本を迎えに来たお腹の大きい靖子、名前どうしようかという会話が入り、部屋で急に産気ずく靖子、あわてる宮本、強引な編集で救急車の中 (この繋ぎあざやか)、おかあさんも赤ちゃんも大丈夫ですよと救急隊員、ここで主題歌C.Iだった。僕はこの一連無くて良かったのではと思う。余韻がゆるくなる。過剰な説明という気がする。宮本が血を越えてどちらの子だろうと引き受けることを強調したかったのは良く解る。だったらローリング主題歌終わりの黒味に“オギャー!”と一声入れるとか、“名前どうする? まだ早いよ”と一言台詞を入れるとか、そんな処理もあったのでは…

 

それにしても何でこんなに時系列をいじるのだろうか。冒頭アバンの歯が折れた血だらけの顔は拓馬との第一ラウンドの後、両親のもとを訪れるのは第一ラウンドが終わって第二ラウンドで拓馬に勝つまでの間 ? それとも拓馬に勝った後 ? 前歯の有る無しで見ていたら、元カレから金借りて入れ歯を作ったらしい? 入れ歯で宮本の親と会った時、母親に妊娠を見破られる、宮本は全部話したと靖子に言う、“あのことも?”ここから“あのこと?”のミステリーにしようとしたのか。この時系列イジリ、あまりにやり過ぎでは…

時系列が正確に解らなくても、始めにうっかり(?) 言ってしまった“俺が守る”という軽い言葉が本物の言葉になるプロセスの映画であるということが解れば良いのかも知れない。宮本の言動を次々に否定して鍛え上げていった、したたか靖子の映画とわかれば良いのかも知れない。最後に“拓馬に勝つ”を持ってくる為の工夫であることは解るのだが…

 

音楽は、実に的確なところに的確に付く。主張するわけではない、しかし映画をしっかり支える。這う様にSynの低い音、その上にPfがシンプルなメロを載せる。途中からキックが入り、力を加え、さらにはEgとDrが入って宮本の狂気を作る。宮本の気持ちに沿う。Epf (?) のソロがちょっとウェットなところを補う。劇伴としてとっても良く出来ている。映画を良く理解した音楽である。

 

全編、池松壮亮蒼井優のエネルギーでパンパン。そんな中で元カレの井浦新メフィストフェレスの様な役をやって存在感を出す。“土壇場で逃げるんじゃねぇぞ”は良い。

モデルか役者か分らなかった「ワンダフルライフ」(1998 監督.是枝裕和) の頃のARATAから時を経て、新はいい役者になった。ピエール瀧は相変わらずのどっしりした存在感、ピエールの子分役の佐藤二朗がいつアドリブを言い出すか心配していたら言い出すことなく、渋く演じていた。一ノ瀬ワタルは肉塊を演じて見事。

 

そして主題歌、こんなに映画から直結して違和感なくハマること、滅多に無いのでは。それ程曲も詩も歌も映画を良く理解している。2時間近くの映画と3~4分足らずの主題歌のウェイトはほとんど拮抗している。

 

血とバイオレンスを描きながら「ディストラクション・ベイビーズ」では神話性を感じ、この映画ではファンタジーを感じた。手持ち多用で、狭い室内シーンが多い話ながら息苦しさ無く、淀みなく見せる、大したものである。

 

時々入る、蒼井優の横顔が美しい。

 

監督. 真利子哲也  音楽. 池永正二  主題歌. 宮本浩次

2019.9.02「火口のふたり」新宿武蔵野館

2019.9.02「火口のふたり」新宿武蔵野館

 

火口とは女陰のことである。そこには生命の神秘がある。そこから命が生まれる。死が隠れている。そして宇宙に繋がっている。日常の中にパックリと開いた非日常、宇宙への入口。けれどそのことに普段は気が付かない。“とっても気持ちイイ” 穴でしかない。

 

歳を取りフィジカルがダメになる頃、SEXに “とっても気持ちイイ” 以上の意味を感じる様になる。これは歳を取ることの功だ。この映画の二人がそれを感じていたかどうかは解らない。けれどかつて火口の淵に佇んだことは確かだ。死のうとした。それくらいギリギリの恋をしたのだ。

 

今、賢治(柄本佑)は離婚し子供とも別れ時々アルバイトで生活する、殆ど世間と縁を切ったようなプーの生活。社会で何某かに成ろうという気も無く昼間から多摩川で釣り糸を垂れている。

かつて直子(瀧口公美)は賢治を追って東京に出て来たが、捨てられ国へ帰り、今度結婚するという。二人は兄妹のような、いとこ同士だった。

式に参列する為に帰った賢治と直子の再会はさっぱりしたもの、かつてのドロドロを全く感じさせない。一つの時期を過ぎた、そんな年齢だからか。

けれど直子は今夜だけ昔に戻ろうと賢治を誘う。直子はかつての二人の交歓の写真を大事に持っていた。若き日の心と体が一体になっていた頃の激しい恋愛の写真だった。飄々としていた賢治に火が付く。今夜だけが、婚約者が出張から帰るまでの5日間となった。

 

出演者はほとんど二人だけ。ほぼSEXと食事のシーン。SEX描写は激しい。ギリギリまで映す。それがこの上なく美しい。“かつて” が甦る。心と体が一致していた頃が甦る。

二人の心にはいとこ同士という禁忌があった。心が体にストップをかけ結ばれなかった。でもいとこ同士なんてざらにある。兄妹だって親子だって。亡くなった賢治の母親が、本当は賢治と直子が一緒になってくれたら、と言ってたと、直子が言う。おふくろ、それを早く言ってくれてたら…

 

直子の結婚相手は自衛隊員、鉄板の様な胸板を持ち、「坂の上の雲」に涙する。しっかりとした社会の一員である。直子は少し前に子宮筋腫が見つかって子供を作るなら早い方が良いと言われている。それで結婚するのか、と賢治は非難気味に言う。でも言い方は軽い。

秋田は同じ東北でも震災の被害は免れた、その後ろめたさがある、と直子。しょせん当事者にはなれないと賢治。そんな会話がさりげなくSEXの合間に溶かし込まれる。

 

4日目、二人は一泊の小旅行に出る。西馬内亡者踊り(にしもないぼうじゃおどり、三大盆踊りの一つ。全く知らなかった)を見る。深い頭巾を被り、死者と一緒に踊る盆踊りとのこと。このシーンの尻のストップモーション、何故?  ちょっと気になった。 翌朝、置手紙があり、直子は居なかった。

ここで終わるのかと思った。ところがどっこい、賢治の父親(声だけ・柄本明)から電話で、直子の結婚式が延期になったと言う。バレタか!と直子のところへすっ飛んでいくと、何と自衛隊員、極秘任務でいつ戻れるか分らないと言って隊に戻ったとのこと。その極秘任務とは、数日以内に富士山が大爆発を起こすというもの。この荒唐無稽、それがすんなり入るか。僕にはすんなりだった。もう結婚は無しである。

風力発電の巨大なプロペラが幾つも並ぶ海岸で、間もなく来るらしい大災害を前にして、とりあえずは,“体の言い分”に従って生きて行こうと二人は話す。広い画の象徴的な良いシーンだ。

次のカットは小馬鹿にした様に、子供が描いたような富士山の噴火の画(蜷川みほ)、そこにエンドロールが上がってきて、“とっても気持ちイイ”という歌が入る。

 

さんざッぱらエロの極致を見せられて突然幼児に退行したような富士山の噴火の画、この落とし方に僕は良い良いと思った。これが映画だ。でも馬鹿にしてると思う人もいるかも知れない。富士山の火口はかつて二人が彷徨ったところである。直子の部屋にはその大きな写真が壁に貼られていた。その生も死も呑み込んでしまう大きな穴が今噴火しようとしている。噴火すればみんなチャラ、社会の中で築き上げた諸々は御破算だ。今言えるのは社会への忖度よりも体の言い分に正直になることだ。

火口は女陰に繋がっている。女陰には社会を壊す破壊力がある。

どうだ! 収まってなるか! という荒井晴彦の声が聴こえる。

 

以上はそれらしき理屈。僕は何より、どうしても賢治を忘れられない直子のしたたかで純な恋の復活劇を感じた。「賢ちゃん、平気で嘘ついてあたしを抱いた」「賢ちゃん、あたしを捨てたんだよ」そう言って、鈍感な賢ちゃんから見えないように横向いて涙ぐむ。賢ちゃんの言うことなら何でも聞く、バスの中でのSEXも、路地の隙間でのSEXも。

二人で美術館を訪れ渡り廊下の様な所を歩くシーン、賢ちゃんの歩幅に追い付けず出来た間隔を小走りで追いつく直子、それを引いた画で何気なく捉える。何と可愛く健気なことか。直子の一途さが最も良く出ているシーンである。荒井晴彦はこんなデリケートを演出出来たのだ。直子・瀧口公美の魅力と力で、エロティックで一途な純愛という芯がしっかりと通った。

 

音楽は下田逸郎、歌物が3曲。「早く抱いて」「この世の夢」「紅い花咲いた」、知る人ぞ知る下田逸郎の名曲。おそらく在り物音源、この映画の為の録音ではない。女性ボーカル、下村陽子という人か。エロティックな歌詞と可愛い声が不思議な世界を作り出す。歌が語り部の役割を担う。ピッタリの選曲である。途中「この世の夢」(?)のメロをVlソロで演奏して何ヶ所かに劇伴として当てている。必要最小限の音楽がしっかりと世界を作っていて隙がない。エンドロールには「紅い花咲いた」、“とっても気持ちイイ” という繰り返しが観終わった後も頭の中を巡った。この歌だからあの画でも可笑しくなかった。

 

完璧な世界が出来ていた。二人だけの出演者、かつての交情のスチール (野村佐紀子)、富士山火口のスチール、富士山噴火の画、ほとんどアカペラに近いシンプル素朴な女性ボーカルの歌、敢えてこじんまりとさせ、削ぎ落とし、洗練された世界を作ることに成功している。

映像は、スーパーの買い物、盆踊り、風力発電の海岸、美術館等、広いロングの画を時々入れて変化を付けている。その塩梅は絶妙だ。こじんまりと纏めた世界の背後には震災だったり社会だったり世間だったり宇宙だったりが立ち昇る。そしてどこに“死”が横たわっている。

 

蛇足

もっともこじんまりと纏め上げることに貢献している歌を、例えば武満徹的な音楽でやってみたらどうなったか。全く別ものになるが、合わなくはないのでは。二人は火口を通り越して “宇宙のふたり” になる… 荒井晴彦が絶対そっちへは持って行かないということは解っているが。

そんな勝手な想像が出来る、見応えのある作品。

今年の主演女優賞今のところ、瀧口公美。

 

監督. 荒井晴彦  音楽. 下田逸郎  

2019.9.26「ある船頭の話」新宿武蔵野館

2019.9.26「ある船頭の話」新宿武蔵野館

 

オダギリジョウ、初監督作品。脚本もオリジナルで自ら執筆。長い間あたためていたという。オダギリがこういうテーマに関心を持っていたことに意外な気がする。

 

 

話は近代化の波が地方へも押し寄せた明治の終わり頃か、山深い郷の渡し船の船頭トイチ(柄本明) の話である。川に橋が架かると言う。村人は喜ぶ。トイチもそれを受け入れている。新しい便利なものが入ってくれば、前の者は退場するしかない、それが流れだ。まだ近代化がもたらす歪みを知らない牧歌的な頃、便利を喜ぶ村人と退場する者の哀感だけがある。映画はその哀感を一人の船頭に集約させて描く。

 

ロケ地の選択は見事である。阿賀野川のどこからしい。岩だらけの岸に掘っ立て小屋を作り、その周りにオブジェの様に流木を置く。渡しに乗る客との会話を通して村の生活が語られる。医者がいて田舎芸者がいて橋の工事関係者がいてマタギがいる。お馴染みもいれば威張り腐るよそ者もいる。時々村の若者源三 (村上虹郎) が来て一緒に魚を釣り一緒に食べて行く。人間の生活が自然の一部として組み込まれ調和する。それを撮影のクリストファー・ドイルのカメラが四季の自然の変化を押えながら哲学的いや霊幻とも言える映像に切り取る。

 

トイチにもそれなりの過去はあった様だ。それがフラッシュでインサートされる。

川下で一家殺害の事件があり、娘だけが行方不明らしい。その娘らしい少女 (川島鈴遥) が流されてくる。トイチはそれを救い上げ、小屋で一緒に暮らすことになる。少女の衣装は朱色のモンゴル遊牧民の服の様 (衣装・ワダエミ)。 緑と青の世界に艶やかに朱色が加わる。

カメラは闇の中で寝ている少女の腕や脚を輝くように映し出す。エロティックであると同時に生命力の象徴だ。ライティングが素晴らしい。ゲスの勘繰り、トイチは老いらくの恋に走る、ではなかった。その気はあったかも知れないが、むしろ娘のような気がしたのかも知れない。

娘は凛としている。寡黙だった少女は少しずつ心を開いていく。

 

橋が出来た。渡し船を使う人は減って、村人の生活は便利になり、それと同時に人の心も変わっていった。変わった者の象徴として、羽振りの良くなった源三が、トイチの居ない間に娘を襲う。

トイチは村を捨て、娘を乗せて、川を下っていく…

 

近代化に取り残された者の哀感を描いた映画はたくさんある。「デルスウザーラ」(1975監督.黒澤明、毎度例えが古くてごめんなさい) などもそうだ。詠嘆で纏めるか、今に繋がる問題点を抽出してそこに焦点を当ててドラマ化するか、やり方は色々だ。オダギリは失われて行くものへの哀悼に焦点を絞る。かつて人間と自然が共生する、こんな調和の取れた美しい時代があったのだ。一方で近代化による恩恵が今日の世界を作り出したことは認めざるを得ない。豊かになった便利になった。そしてその行き着く先は、「戦争」であり「核」である。そこまで考えると話は大きくなるが、突き詰めればそういうことだ。オダギリはその一番初めの段階を詩的に描きたかった。だから無理してドラマチックにしない。余計な説明もしない。その思い、とっても解る。

しかし敢えて言う。この映画ほとんどテーマのむき出しだ。船頭の格好をしているだけで、ほとんどテーマを語っている。台詞には未消化の言葉が散見、“肉体”なんて言葉、僕は大いに引っ掛った。本当はこの脚本を誰かもう一人の脚本家に投げるべきだった。第三者の目を入れて映画的芳醇を作り出すべきだった。もっとドラマチックに盛り上げるという意味ではない。淡々としていて良い。ただ僕は、良い映画とは思ったが芳醇は感じられなかった。

川の精の様な少年、水の精の様に泳ぐ少女、ファンタジーの要素が時々入る。それが映画の中に溶け込んでいない。台詞も生硬だ。ここまで脚本を作り込んでいては自分での直しは難しい。思い切って他人の手に一度委ねるべきだった。他人の目を通すと気が付くことは必ずあるはずだ。面倒だがその一手間を惜しんではダメなのだ。

 

娘を乗せて下り、やがて広い川幅となる。そこにローリングが上がってくる。僕にはあの川幅はダム湖のように見えた。あそこはダム湖でも良かったのだ。さらに無粋を承知で言えば、いつの間にか海に至り、彼方に原発が見える、でも良かった。もちろん、これテーマの押し付け、オダギリの意図でないことは解っているが。

 

音楽.ティグラン・ハマシアン、僕の知らない人。ジャズのピアニストらしい。ほとんどピアノソロ、シンプルでゆっくりなメロディーをしっかりと前面に立たせて印象的。3拍子の曲4拍子の曲、口笛とユニゾンになったり、後ろにSynのVoiceを重ねたり。響きがとっても映像に合っている。この人を選んだこと大正解。

 

死んだマタギの父 (細野晴臣) を息子 (永瀬正敏) が森へ還すエピソード、土砂降りの中莚を剥ぐと細野晴臣の置物の様な顔がドカッと出た。とっても良いエピソードとっても良いシーンだったが、思わず笑ってしまった。あの顔は個性派俳優として使えるのでは。

 

監督・脚本. オダギリジョー  音楽. ティグラン・ハマシアン

2019.9.18「サタンタンゴ」ヒューマントラスト有楽町

2019.9.18「サタンタンゴ」ヒューマントラスト有楽町

 

第1章 ファーストカットで眠りに落ちる?

ラソンに臨むような気持で見た。

ファーストカットはひと気の無い寒村、そこのぬかるみの広場に放たれた牛の群れ。一頭がカメラに近づいて来たのでそれに意味があるのかと思ったらそうでもない。その牛はいつの間にかカメラ前から去り、奥には交尾する牛。テンデンばらばら、好き勝手にしている。その内どの牛がリードしたという訳でもなく、みんながゆっくりと広場の左側へ移動し、カメラもゆっくりゆっくりとパンしてそれを追う。牛たちは広場の外れでようやく建物の影に消え、そのカットは終わる。ファーストカットで眠りに付ける人もいるだろう。

カメラが切り返して、それらを見ている人として人物を登場させるのかと思った。が、そうではなかった。手前から見つめるこのカットは誰の視点なのか。

ヒューヒューという風音、その音が周りの静寂を強調する。背後にゴワーンという様な音が薄っすらと這っている。初めは聴こえるか聴こえない位、それが少しずつ大きくなっていく。多分鐘の音、それを変調させて、この音を作っているのか。この音はこれから何度も出てくる。

 

第2章 普通の映画を観るつもりではダメ!

室内、男二人が延々と、みんなの一年分の給料を盗んで逃げるという企みを話す。カメラは話す顔も話してない時の顔も、どんな表情も逃すまいとワンカットで追い続ける。そこに流れる時間と見ているこちらの時間は同じである。それはこちらに変な緊張をもたらす。

普通の映画は、映画がどんどん引っ張ってくれる。筋立てや台詞によって、あるいは編集によって自在に時間をコントロールして、必要な時はアップで強調したりして。

この映画はそれを一切しない。こちらがそれを読み取らねばならない。しかし耳慣れない人名が沢山出てきて誰が誰やら。解っているのは、ここはハンガリー、街から遠く離れた食うや食わずの集落、秋の雨期の季節に入り、街との行き来も容易ではなくなっている。時代は社会主義が行き詰まった頃、ということ位。これで男二人の表情とポツリポツリとした会話で行間を埋めるのは至難の技だ。普通の映画のつもりで見た人は眠りに落ちる。つまり、この映画は普通の映画ではないのだ。こちらがビット数を上げる (下げる?) 必要があるのだ。映画に対する態度を変えることを迫られる映画なんて滅多に無い。

 

第3章 タンゴに合わせて12章 休憩2回 3パート

時々黒味が入り、文字とナレーションで章立ての説明が入る。12章に分かれていたことは後で知った。タンゴのステップに合わせてのことらしい。上映は3パートに分けられ、二回の休憩が入る。

前半6章はほとんど一日かそこらの出来事、映画はそれを視点を変えて丹念に描く。時間は行きつ戻りつする。

 

第4章 雨は降るが傘は差さない日も射さない、効果音が主役のよう

この映画に太陽の日射しはない。ただひたすら鈍色の空、そこから絶えず雨が降る。明かりは唯一夜の酒場、それ以外に光は無い。人々は何故か傘を差さず、ぬかるんだ道を厚い皮のコートを着て行き来する。皮のコートが古くなると固くなって座るのに難儀するなんて延々と喋る。

各シーンには効果音が長いワンカットに通奏して流れる。牛の鳴き声、時計のカチカチ音、ポタポタという雨だれ、土砂降りの雨音、風音、虫の羽音、ぬかるみを踏むグチャグチャ音、教会の鐘、どれも現実音扱いというよりシーンの主役としてオンオフ付けずに通奏して流れる。まるで全体の構成を音で組み立てているようだ。

そして息づかい、これはリアルを越えて強調されている。

 

第5章 時系列の整理

廃墟の様な集落、そこに住んでいる10人たらずの人々、雨がビチョビチョと降り続く。

時系列で整理すると、恐らく最初は街の警察署の廊下である。そこに座っている二人の男、イリミアーシュとペトリナ、もしかしたらこれが唯一かも知れないカメラの切り返しがあり、二人は警視の部屋に呼び込まれる。そこでのやり取りはよく解らない。ジプシーではないとかロマではないとか、ただ二人は社会主義経済の中で“働かない罪”で収監されていたことは判る。警視が自由と秩序の話をする。そして言う “君たちに他の選択肢は無い”

唯一の選択肢、蜘蛛のお仕事 (煽動と密告) をする為にイリミアーシュとペトリナは集落に向う。縦の遠近法、ゴミの舞い上がる中二人のうしろ姿をカメラが執拗に追う。まるで集落までの道のりを延々と同行するかの様。

その頃、集落ではイリミアーシュが帰ってくるという噂で持ちきりだった。これが物語の発端、人々は右往左往する。唯一 “これで変わる” と呟くフタキ。

 

第6章 金の成る木と少女と猫と

イリミアーシュの子分でもある兄に騙されて、金の成る木を生やすべく種となるお金を埋める少女、再び戻って掘り起こすと金はない。兄に詰め寄るがあしらわれる。少女は納屋で自分より弱い猫を、粗相をしたと叱り虐め、殺す。

夜、土砂降りの雨の中、唯一の光である酒場に引き寄せられて窓越しに覗いた少女は、パーリンカ (ハンガリーの酒) を飲みながら踊り狂う大人たちを見る。

そこに、酒を買いに出てきた先生と遭遇する。が、ぬかるみの中で足蹴にされる。先生は少女に悪戯をしたことがあるらしい(不確か)。少女は先生に救いを求めたのか。その時背後をイリミアーシュ、ペトリナ、少女の兄、の三人が通過する。背景にスモークを焚きライトアップして美しいシーン。

少女は彷徨った末にたどり着いた廃墟 (「禁じられた遊び」を思い出す) で猫の屍骸を抱きかかえながら猫いらずを飲んで絶命する。“心は平穏で、天使が迎えに来るのが分かった” というナレーションが入る。果たしてそうなのだろうか。

 

第7章 蜘蛛の巣は気づかぬ内に張りめぐり

「蜘蛛の仕事 その一」と名付けられた章、酒場にはいつのまにか異様な臭いが漂う。地面から立ち昇っているよう。「蜘蛛の仕事 その二」では集落のほぼ全員が酒場に集まって踊り狂う。アコーディオンが執拗に同じメロディを繰り返し、狭い人数の中で相手を代えながら同じようなダンスを繰り返す。

力尽き皆寝入ってしまったそこに地面から異様な臭いが漂う。イリミアーシュが浸透する。その頃少女は絶命していた。これも蜘蛛の仕事に入るのか。

 

第8章 時間模型の切り分け

これらの出来事が多視点で分解され、時間は多層の時系列で前後し、再び塊となって映画を形作る。

ドカッと差し出された時間の塊にはどこかに関連を示す映像が入る。

家の壁に隠れて企みを盗み聞いたフタキの姿は、部屋からこの集落を観察し記録する先生の窓越しからのロングの映像である。

酒場を覗き見た少女の顔は、サタンタンゴを踊り狂う酒場の内側から、窓越しの顔として入ってくる。

イリミアーシュたちがどこどこを歩いて来るという話は、少女を足蹴にした先生の背後に写りこんでいる。

タル・ベーラはまるで面白がっているようだ。現実全体を描くということは、こういうことなんですよ、映画にはこんなことが出来るんですよとでも言いたげに。

 

第9章 二度観たバカ

後半の章はイリミアーシュの演説から始まる。

僕は実はこの映画を2度見した (2019.10.01 イメージフォーラム) 。7時間18分の2度見、これは我ながら自分を褒めてあげたい。その上、いつもパンフレットは読まないのだが知人から借りてパンフレットも読んだ。それでようやくここまで理解出来た。1度見の時は誰がイリミアーシュかも解らず警視と会話する二人は子分だと思っていた。イリミアーシュは居るのか居ないのか分からない、人々の空虚が作り出す共同幻想のようなものと勝手に思っていた。だから後半冒頭で生身のイリミアーシュが登場し、少女の死を利用して見事な大アジテイションをしたのには驚いた。タル・ベーラは曖昧を許さない。

イリミアーシュ (ヴィーグ・ミハーイ、音楽も担当している) は端正な顔立ちの人、扇動者にはスター性が欠かせない。後半は時系列も直線で、多少の疑心暗鬼はあるものの人々は見事にイリミアーシュの蜘蛛の巣に絡め取られていく。元々、冒頭の牛の群れの様に自分の意思を持たず、誰引っ張る訳でもないが何となく群れてしまう、警視が言った“自由が怖い”人々、自由からの逃走、イリミアーシュにとっては赤子の手を捻るようなもの、理想の農園をチラつかせて金を巻き上げ、情報収集の為に新たな職場に送り込む、蜘蛛の巣網の完成である。唯一、“死をおそれる”フタキだけは一人自分の道を歩み始める。

 

第10章 冬ごもり

先生はパーリンカを絶えず飲みながら、自室の窓から集落を見て記録する、観察者だった。少女と遭遇した夜、行き倒れて病院に担ぎ込まれていた。その間に集落は蜘蛛の巣に絡め取られてしまった。もぬけのからとなった集落に戻った先生、そこでとっくに崩れ去ったはずの教会の鐘の音を聴く。無いはずの教会へ行くと“トルコ軍が来るぞ”と叫びながら鐘を突く男が居た。

在るはずの無い教会の聴こえるはずの無い鐘の音を聴いてしまった先生は窓を塞ぎ光を遮りノートに記す。“フタキは鐘の音を聴いて目を覚ました。一番近い礼拝堂は8キロ離れているが、そこには鐘が無かっただけでなく、戦時中に塔も倒れてしまっていた” 冒頭、牛の群れに続いてのシーンのナレーションである。話は振り出しへ戻る。

 

第11章 アコーディオンと鐘

音楽はアコーディオンの三曲のみ。一つは酒場で踊り狂う時の執拗に繰り返されるダンスの曲。二つ目は、酒場狂乱の最後の方、ハリチ校長がカッコ付けてオッパイおばさんシュミット夫人を、タンゴはいかが?と誘って踊る「サタンタンゴ」、この曲はここだけ。一番重要で何度も登場するのは、この集落のテーマあるいは人々のテーマと言ったらよいか、マイナーの情感溢れる曲。初めて集落を主観移動で紹介するカットに登場し、その後も頻出する。けっして前向きの曲ではない。どちらかと言うと、人々を嘆くような意味合いか。劇伴と言えるのはこの曲のみ。そしてこれも頻出する鐘を変調させた這う様な効果音に近い曲。これがこの映画の通奏低音で主題かもしれない。もしかすると“トルコ軍が来るぞ”と鳴らした鐘が原型か。

 

第12章 我が脳の限界と縦と横

2度見しパンフレットも読んだがどうしても解らないことがある。一つは「宇・宙・的・経・済」、これは何を意味するのか。社会主義の絵に描いた餅的経済を揶揄しているのか。

もう一つは無煙火薬。イリミアーシュは無煙火薬の話をしていた、あるいは武器商人の様な男とこの話をする。廃墟と化した集落を破壊しようとする為か、密かにテロでも目論んでいるのか。

そしてもう一つ、僕がこの映画に一番惹かれたところ、それはこの集落への出入りがいつも縦の遠近法であること。イリミアーシュとペトリナが街から集落へ向うゴミ舞う中の手前から奥への一直線、アルカリ土の道を奥から手前に来る一直線、少女の兄も加えた三人が集落をあとにする奥に向う一直線、兄と少女がお金を埋めに行く一直線、帰ってくる一直線、その他この集落へのインとアウトはすべて縦の遠近法で長~いカットだ。

一方、集落の中の描写はほとんどが横移動、冒頭の牛の群れ、酒を買いに行く先生、思い出せないがもっと沢山あったはず。

一度見の後、頭にこびり付いたのはこの縦のイン・アウトの一直線だった。どれも人物が米粒になる位まで追う。集落へのイン・アウトを超えて、どこから来てどこへ行くのかという宇宙的な気分にさせられる。この集落とは何なのか。深読みというより映像が問いかけて来る。僕はそこに引っ掛かり、そこに惹かれて、2度見した。この映画はこの縦の遠近法が全てなのではないか。もしかしたらタル・ベーラはこの縦を描きたかったのではないか。話はその為のお膳立て?

アコーディオンの集落のテーマは横に呼応する。ゴワーンという鐘の曲は縦だ。どこかから現れ、サタンタンゴを踊り狂い、どこかへ消えて行く。唯一覚醒しタンゴは踊らなくなったフタキ (そうか、彼は足が悪くて初めから踊らなかった?) もいつかは縦の線の奥に消えて行く。正確な意味は解らない。

 

監督. タル・ベーラ  音楽. ヴィーグ・ミハーイ

2019.9.20「ワンス アポン ア タイム イン ハリウッド」新宿ピカデリー

2019.9.20「ワンス アポン ア タイム イン ハリウッド」新宿ピカデリー

 

映画オタク・タランティーノの蘊蓄満開の映画である。というよりも幼き頃の彼の脳裏に染みついた光景や音楽を見事に再現した幼児体験再現の映画。1969年のハリウッド、タランティーノは5歳か6歳? 何故1969年か、それはシャロン・テート事件があった年だからである。

タランティーノは1969年のハリウッドに二人の男を送り込む、歴史をちょっとだけ変える為に。送り込まれた男とは、一人はTVでスターとなるも人気に陰りが見え始めたリック(レオナルド・ディカプリオ) と、スタントマンでリックの身の回りの世話をするクリス(ブラッド・ピット) 。リックはスティーブ・マックィーンクリント・イーストウッドの様に上手く映画にシフトし損なった。それにイラつき焦っている。クリスはそんなリックの良き相談相手であり、現場でトラブルは起こすが特段の野心もなく、犬との暮らしに満足している自然体の男。

 

マックウィーンはTV「拳銃無宿」(役名はジョシ―・ランドル) から「大脱走」(1963) で見事に映画へと転身した。「ブリット」(1968) や「華麗なる賭け」(1968) では大スター扱いである。「ローハイド」(役名はロディ・イェーツ) のイーストウッドマカロニウェスタンで国際的スターとなった。

その年、アメリカでは「明日に向かって撃て」「真夜中のカウボーイ」「イージーライダー」が公開され、アメリカンニューシネマの台頭の年だった。リックはその波には組しない、言わば古いタイプの俳優だ。リックのモデルはいるのだろうか。おそらくタランティーノが作り出したキャラクター。クリスも当時撮影所周辺にいた、役者になり損ねた人などを参考にして作り出したキャラクターだ。タランティーノが愛情込めて作り出した二つのキャラが1969年のハリウッドに送り込まれる。

映画は1969年のハリウッドを、街並み、車、ファッション、映画の看板に至るまで、驚く程の忠実さで再現している (多分) 。撮影所にはそっくりさんが演じるマックウィーンがいて、ブルース・リーがいて、チャールズ・ブロンソンがいる。本当に良く似ている。「大脱走」の時はどうだっただの、「ボナンザ」「コンバット」ナポレオン・ソロ」なんて言葉が飛び交う。まるで当時の撮影所から中継しているよう。ただブルース・リーをちょっとオチョクリ気味に描いているのはおそらくタランティーノの趣味が入っている。“タランティーノの1969年ハリウッド”だから仕方ない。二人のキャラは作り上げたものだが、舞台は見た目も会話も徹底的に当時を再現していてリアルだ。

 

撮影所への行き来はクリスが運転してのデッカイ、アメ車。カーラジオが引っ切り無しに鳴っている。音楽は既成曲が殆どすべてである。次から次に耳馴染んだ曲が流れる。DJやMCも入る。これが耳から当時を作り出す。僕が一番洋楽を聴いていた頃、直ぐに曲名が出て来たもの、アーティスト名が出て来たもの、この曲何だったっけ? 脳の奥底に眠っていた記憶が何十年ぶりかで呼び起こされる。

ミセス・ロビンソン? ドック・オブ・ザ・ベイ? 夢のカリフォルニア? サークル・ゲーム? アイ・シャル・ビー・リリースト? マービン・ゲイ? ビーチ・ボーイズ? ジミヘン? ドアーズ? ジャニス? 誰か洋楽に詳しい人、この映画に流れた既成曲を一覧にしてくれないだろうか。

ひたすらガンガン流れるBGMだが、多少はタランティーノの趣味が反映されていたか。ビートルズは流れなかった? ストーンズは? ステッペンウルフは? ヘルタースケルターは何故? 夢のカリフォルニアはパパス&ママスのバージョンではなかった? ミセス・ロビンソンはイントロだけで歌前でC.O? 「雨にぬれても」(「明日に向かって撃て」主題歌. B・J・トーマス) や「うわさの男」(「真夜中のカウボーイ」主題歌. ニルソン) が流れなかったのはさもありなんと思ったけれど。重箱の隅をつつけば切りが無い。一度見なので記憶は曖昧。ただ聴覚と記憶中枢はフル回転。

 

タランティーノは視覚と聴覚で1969年のハリウッドをほぼ完璧に再現した。第一目的は達成である。

そこを舞台にしての次なる目的、その為にタランティーノはリックの屋敷をポランスキー邸の隣に置いた。「ローズマリーの赤ちゃん」(1968) がヒットしたポランスキーはそこに引っ越してきたばかりだった。

 

当時アメリカ西海岸はヒッピーであふれていた。ロスしかりサンフランシスコしかり。「花のサンフランシスコ」(スコット・マッケンジー) はヒッピーのメッカだった。ベトナム戦争に反対しマリファナを吸い、あちこちを自由に流離うフラワーチルドレン、コミューンを作り犯罪を犯す者もいた。法を犯すということに無頓着だった。集団内ではフリーセックスと喧伝され、遠い日本からそんなニュースを僕は鼻血を垂らしながら聞いていた。日本でもヒッピーまがいの若者が新宿に集まり東口広場の芝生にたむろして、そこはグリーンハウスと呼ばれていた。ヘンに何をやってもよい、俺たちは自由だ、という雰囲気が充満していた。

自然の摂理に任せると社会の維持に不都合が起きる。その為に法が必要となる。おそらく法の敷居が最も低くなっていた時代だったのかも知れない。

そんな時代背景の中でシャロン・テート事件は起きた。チャールズ・マンソンをリーダーとするカルトな集団がポランスキー邸を襲い、妊娠八ヶ月の妻シャロン・テートと居合わせた何人かを殺害した。マンソンに狂信的に従う男女は指示されたままに、ただ襲った。実はマンソンが殺害しようとしたのはポンスキーが引っ越してくる前に住んでいた人物だった。悲惨この上ない事件だった。

 

タランティーノはこれを何とかしたかった。1969年のハリウッドに少しだけフィクションを加える。襲う家をポランスキー邸の隣のリックの屋敷にしたのだ。TVの西部劇で散々人を殺してきたリック、“殺しを教えてくれた奴を殺しに行こう”この合言葉の下マンソンファミリーはリックの屋敷を襲う。そこに居たのは腕には自信のあるスタントマン・クリスとアクションスター・リック。リックもクリスも日頃からヒッピーを“クソ野郎”と思っていた。男も女もボコボコにする。リックは撮影で使った火炎放射器を持ち出して女を火達磨にする。タランティーノの怒りの凄さが解る。

騒ぎに気付いたポランスキーが隣の屋敷から出てきて、リックと挨拶を交わす。“今度、パーティーに来ませんか? ” 歴史は書き換えられた!

でもこれはSFのタイムスリップものでも並行宇宙ものでもない。かつて起きたことを遡って変えることは出来ない。映画の中だけで別の物語に作り変えた、それだけである。

もし並行宇宙があるとしたら今頃シャロン・テートは大女優になっていたかも知れない。ポランスキーも少女強姦なんて事件を起こさなかった…

ポランスキーはこの映画を見ただろうか。悪夢は思い出したくないか。でもきっとタランティーノに、“ありがとう”と言ったのではないか。

 

ディカプリオ・リックは絶えずタバコを吸い、酒を飲み、イライラしている。神経質で正直で世当たりが下手なのだ。ディカプリオはそれを上手く演じている。コマッチャクレた子役少女とのやり取りは秀逸。ただのデブではなかった。

子役少女が読んでいたのはディズニーの伝記、これには笑えた。前年がウォルト・ディズニーの45周年だったからか。このへんのタランティーノは細かい。

ブラピは、全面に出るキャラではないのだが、アピールするところはして、カッコイイ。屋根のアンテナ直しの身軽さには恐れ入る。だらしなく履くジーンズのなんと決まっていることか。

シャロン・テート役のマーゴット・ロビ―はミニスカートが似合う綺麗な女優だ。初めてメインの役を演じた映画を劇場で見るシーンは初々しく、史実を知っているからか何とも切ない。

 

音楽は全篇既成曲、ただ何ヶ所かに劇伴風のものがあった。記憶しているのは、ヒッピーの住処となった西部劇村の持ち主 (ブルース・ダーン) をクリスが訪ねる所、奥に寝ているというので止めようとするヒッピー女を押しのけて入っていく。狂暴な奴が突然襲って来るかも知れない、ドキドキのシーンである。そこにそれを煽る様にドンドンとリズム強調の音楽が付いていた。あれは過剰な説明、不要だ。折角、劇伴無しでスッキリと纏められるところ、勿体無かった。

その西部劇村の持ち主を当初はバート・レイノルズが演じるはずだったという。急逝してブルース・ダーンが代わりに演じたそう。前日に見た「ラスト・ムービースター」とどこか繋がるものがある。映画を生業としてしまった者の生き様か、業か。

タランティーノは映画オタクぶりをフルに発揮して、良い映画を作った。

 

監督・脚本. クエンティン・タランティーノ  音楽. クレジット無し

2019. 9. 19「ラスト・ムービースター」シネマカリテ

2019.9.19「ラスト・ムービースター」シネマカリテ

 

前日「サタンタンゴ」(7時間18分150カット、拙ブログ2019.9.18) を見てのこの映画、一瞬目眩がした。「サタン~」を見た時の目眩とは真逆。僕は「サタン~」対応の鑑賞眼のままになっていたらしい。映画ってこんなに何にも考えずに身を任せて見てよいんだ。テンポも程好く無駄が無く、話の展開は良く解り、重要なポイントはアップになったり音楽が入る。至れり尽くせり、何と寛げることか。そしてちゃんと感動しウルッと来て、終わりもこちらの予想通りで爽やかだ。

かつて映画が娯楽の王様だった頃、一時現実を忘れて映画の世界に没頭し、憂さを晴らして映画の主人公になった様な気分で劇場から出てくる、これが娯楽の王様、映画の醍醐味だった。今、エンタテイメントは参加型にシフトして、一方的に受け取るだけのものは主流の座を追われつつある。そして映画自体も、映画にとって映画的表現とは何か、という明解な答えなど出てこない問を自らに問うている。「サタン~」はそんな問いを内包した映画だった。

僕は自問する映画も好きである。一方で牧歌的なくらい素朴で一時を楽しませてくれる映画も好きだ。重要な点、「解り易い」と「安易」は違う。「難解」は「つまらない」ではない。昨今の映画はこれを混同している様な気がしてならない。

 

「ラスト・ムービースター」は解り易いが安易ではない。エンタメの王道を行く映画である。

70年代、男で初めてセックス・シンボルと言われてヌードも披露したバート・レイノルズの映画である。主演もバート・レイノルズ、企画自体が彼を想定したもの。まさか先に企画があり、そこにバートをはめ込んだということではないはずだ。

冒頭、80を過ぎた老人の彼が映し出されただけで驚く。頻繁に目にするイーストウッドならともかく、「ブギ―ナイツ」以来の僕には鼻の下の口髭だけではなく、顎も含めて白髪混じりの髭だらけの老人、これには驚いた。しかし良く見ると顔はメリハリ効いて端正、身体は少し小さくなった様な気がする。老いたバートが老いた老俳優バート(役名はヴィック・エドワーズ) を演じる。虚実皮膜、どこまでがフィクションでどこまでが真実なのか解らない。その塩梅が絶妙だ。

 

生まれ故郷に近いナッシュビルの映画祭から功労賞授与の手紙が来る。デニーロにもニコルソンにもイーストウッドにも授与したという。送られてきた飛行機チケットはエコノミー、どうも様子が変だと思いつつ行くと、小さなライブハウスで行う映画オタクの映画祭だった。デニーロもニコルソンもイーストウッドも招待したが受け取りになんか来なかった。アテンドの女リル(アリエル・ウィンター) が言う。“招待に応じたバカはあんただけよ”  宿はモーテル、送り迎えのオンボロ車を運転するリルは鼻ピアスしてバートを余所に彼氏と携帯で電話ばかりしている。怒って帰ろうとするが、ふと思い立って近くにまだあるはずの生まれ育った家を訪ねる。その辺からリルと少しずつ気持ちが通うようになって来る。良くある話と言ってしまえばそれまで。

若き日が甦る。かつての映画の若き日のバートと今のバートが一つ画面の中で対話する。

イーストウッドデニーロの選択は正しかった、自分は選択を誤った等、ハリウッド的裏話も満載である。プライベートでの後悔、今は施設に居る最初の妻への訪問、認知症の彼女からは  “お知り合いだったかしら? ” と返って来る。老いの悲哀、人生の後悔、功成り名を遂げたという自負、それらが絶妙にブレンドされていぶし銀の輝きを放つ。リフレッシュした彼は功労賞を受け取り、映画祭スタッフに礼を述べてハリウッドへ戻る。

一つとして予想を裏切るところがない。完璧な予定調和である。しかしその予定調和の何と心地よいことか。

バート・レイノルズはこの映画公開の翌年2018年,82歳で亡くなった。この映画が製作されて良かった。この映画に主演して良かった。きっとそう思っているに違いない。こちらもこの映画を作ってくれてありがとうと言いたくなる。黄昏を迎えた人生の様々な思いをそのままエンタメ映画に結実させたのだ。バート・レイノルズにとってこんな幸運なことはない。しかも上質なエンタメ映画として僕の様な遠い所に住む老人の心を打った。

見た人はみんな、“解る! そうだよな”と感じたに違いない。

 

音楽は全編カントリーである。快調なテンポを作り映画を明るくする。どれが既成曲でどれがオリジナルか僕には判別つかず。歌詞が映画に合っているものがあったから、それがオリジナルなのかも知れない。劇伴はあったのだろうか。全く記憶にない。

 

二日に渡り真逆の二本、面白いものは面白い。

 

監督. アダム・リフキン  音楽. オースティン・ウィントリー

2019.9.04「引っ越し大名」池袋グランドシネマサンシャイン

2019.9.04「引っ越し大名」池袋グランドシネマサンシャイン

 

チャンバラではない、武士の大義とかでもない、武士の生活を描く時代劇が登場したのは、いつ頃からだろうか。多分「武士の家計簿」(2010 監督.森田芳光) が始まりか。次に「武士の献立」(2013 監督.朝原雄三) がある。そこに少し毛色の違った「超高速! 参勤交代」(2014 監督.本木克英) が加わった。

この映画は「超高速! 参勤交代」に「武士の家計簿」を足して、今のサラリーマン社会を反映させた、上質なエンタメ時代劇である。

冒頭、紙芝居の様なイラストで ”国替え” の説明がある。参勤交代が大名の経済力を削ぐ為ということは中学の歴史で習った。けれど ”国替え” のことを習った記憶が僕にはない。

”国替え” が参勤交代の比ではない大事業であったことに驚く。しかもかなりの頻度、さらには石高の変更まで。幕府からの問答無用のお達し、ただ従うしかない。

イラストの後、何故かモノクロになりビチャビチャと雨降る中歩く”国替え”の行列の足元のアップ、あれ?「七人の侍」? 考え過ぎか。

 

城主松平直矩 (及川光博) は幼き頃の国替えがトラウマになっており、今宵も夢でうなされる。ハッと目覚める。駆け寄る寝屋番小姓の手を握り ”愛 (う) い奴” 、この台詞私には大受け。この台詞をこんなに自然に言える役者は及川光博を置いて他にない。及川の殿は最後には家臣思いで泣かせてくれるが、それまでは男色ネタで、ともすれば ”御公儀の理不尽への怒り” と固くなるところを、のほほんとさせてくれる。及川の存在感は大きい。

”愛 (う) い奴” の後、駆け込んで来た家臣が、国替えの沙汰が下りたと告げる。また国替え、姫路から豊後日田(大分) 、しかも15万石から7万石への減俸。それからのてんやわんやと無事成し遂げるまでの話である。

 

タツムリとあだ名される書物好きの引き籠り侍・片桐春之介 (星野源) が引っ越し奉行に任命される。みんな逃げての貧乏くじ。掛かる費用は2万両、藩にある金7千両、これを如何に工面するか。前回の国替えの記録が前任者の下に残っていた。前任者は下士ゆえに評価されぬままこの世を去り、娘・於蘭 (高畑充希) だけが残された。前任者の記録と娘の協力で何とか乗り切る訳である。

プロセスはリアル、まずは運ぶ物を減らす断捨離、捨てられるものはことごとく捨てる。書物も捨てる。言い出しっぺの書物好き晴之介は断腸の思いで書物を燃やす。燃やす前に三日三晩書庫に籠り、全てを頭の中に入れた。何やら「華氏451度」(1966 監督.フランソワ・トリュフォー)を思い出す。切り捨て御免ならぬ、「見切り御免」の書状を持って各家を周り、抵抗する上司も説得してどんどん捨てて行く。家老にはお妾 (丘みどり) も捨てさせる。お妾、唄いながら登場、その時歌詞が画面下に出てカラオケスタイルにしたのは笑えた。

次は一番経費の掛かる人足代、これを自らの手で運ぶようにする。その為に皆唄いながらトレーニングをする。”歌は皆の心を一つにする” と前任者の記録にあった。この ”お引越し!” と合唱する「引っ越し唄」、棒を立てて少し卑猥な野村萬斎の振付と相まって効果的だ。本番の引っ越し大移動もこの歌を唄いながら行われる。辛い国替えが皆の協力の下での楽しい行事の様に見えてくる。歌詞は誰が書いたのか。作曲は上野耕路とある。わらべ歌や作業の歌 (田植え唄等) の様な元唄はあるのだろうか。少し和のテイストも入ってピッタリ、映画の中で大きな役割を果している。何やらエノケンの映画の様な。荷物整理の歌も同じ歌の歌詞違いだったか?

金策は商人から借りるしかない。晴之介は頭を地べたに擦り付けて頼む。武士のプライドはあるのだろうが、無理難題を頼む時には誠心誠意を尽くす。それが商人にも通じる。

そして最大の難問、リストラである。石高は半分以下になる。藩士も減らさねばならない。リストラ言い渡しのシーンはほとんど現代と変わらない。”なぜ私が?” と問う。今も昔も明解な理由などない。上意、つまりは問答無用。抗議の手立ては腹を切ること位。隣の部屋には晴之介の親友蛮勇の鷹村 (高橋一生) が刀を構え控えている。刃傷沙汰に備えてである。武士も大変だったのだ。

ここでのシーン、帰農を言い渡されるピエール瀧飯尾和樹 (ずん) がイイ味を出している。山間の荒れ地、そこを開墾せよと言い渡す。加増になった暁には必ず迎えに参ります。絵に描いた餅、それを真剣に晴之介は説く。その夜晴之介は於蘭のもとを訪ね、腕の中でオイオイと泣いた。於蘭はそれを母の様に受け止めた。カタツムリがどんどん立派な武士になっていく。リーダーになっていく。その顔付きの変化を星野がきちんと演じる。

無事豊後日田へ引っ越した姫路松平藩はその後4~5年毎に国替えをさせられた。奥州白川への国替えでようやく加増が実現する。晴之介が約束を果たすべく山間の地へ迎えに訪れると、荒れ地は見事な段々畑になっていた。このドローンカットは感動的だ。ピエール瀧と飯尾は復職せず農民となる道を選ぶ。二人とも百姓の良い顔になっていた。

 

石碑には十数年の間に亡くなった者と帰農した者の名が刻まれていた。松平直矩が家臣の前で、”これで皆揃った” と涙を流す。男色ミッチーは最後に家臣思いの良き殿として話を締める。不覚にも込み上げるものが…

 

何よりもキャスティングが脇役に至るまで適材適所、非の打ちどころがない。星野は言うに及ばず、豪快高橋一生は新境地開拓である。

前任者の娘で出戻り子供ありの於蘭は、今は藩との関係は無くなっているにも拘らず、程好く女の魅力も発散して引っ越しチームの要。設定にいささか無理があるも高畑の女優力でそれを感じさせない。しっかり者の大人の女がチェリーボーイを立派な男に成長させるという話でもあり、そっちは高畑がしっかりと支えている。

リストラされる小澤征悦、ピエール、飯尾、家老の松重豊、甲高い声を出す家老の正名僕蔵、勘定方の濱田岳、すっかりお母さんになってしまった富田靖子、唯一の悪役西村まさ彦、頭にちょこっとしか出ない男色柳沢吉保 (向井理)、そして幕府隠密 (名前分らず)、これ程行き届いたキャスティングは中々無い。

 

音楽、上野耕路、犬童監督とはコンビである。冒頭国替えの説明や日田へ出発する所、最後の再会等、厳かなところに、ホルン、木管、笛、大きくはない弦、そしてプリペアドPfの様なコトコトした音を入れて格調高い音楽を付ける。要所要所に付けるこの音楽が映画の品格を作る。マリンバPercチェンバロがコミカルなシーンに付けられる。チェンバロはソロでも上野らしい転調のある不思議なメロを弾いてアクセントを作る。AG (もしかして琴?) も活躍する。タッチの様にEGも入る。解り易い付け方、映画をより解るように説明的に付ける。エンタメ映画、基本的にはそれで良い。ただ僕は付け過ぎだと思った。特に前半、コミカルな所にそれを補強すべくコミカルな音楽を重ねる。一度付けると同じ様なコミカルなシーン全部に付けることになる。同じ様なシーンであっちに付けてこっちに付けないのはおかしい。結果短い音楽を引っ切り無しに付けることになる。僕はその悪い例の様な気がした。

編集が早いテンポで展開するので、解り易いように音楽を付けたのかも知れない。けれど音楽をつけなくても充分に解る。音楽をもっと減らしたら、もっとスッキリしたのでは。そこだけが気になった。

ユニコーンの主題歌は違和感無く聴けた。

 

監督. 犬童一心  音楽. 上野耕路  主題歌. ユニコーン