映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2008.8.25 「西の魔女が死んだ」恵比寿ガーデンシネマ

2008.8.25 「西の魔女が死んだ恵比寿ガーデンシネマ

 

“小さい頃は神様がいて~” 子供の頃は魔術も使えたし、万能だった。

娘が小さい時、もうじき雲間から太陽が出てくるのを見計らって、“いいか、もうじきお前が魔法を掛けると天気が急に晴れるぞ、お前には魔法の力がある!”と言い聞かせるもキョトンとしていた。

物心ついて自意識が出来て最初に出会う「社会」は多分小学校のクラス。そこで他人を意識し、人間関係というものに最初に出会う。初めはガキ大将と子分、金持ちと貧乏等、シンプルな関係。子供は調整能力がないから関係はストレートに出て、時には残酷だったりする。それが少しずつ集団の中での調整能力を身に着け露骨ではなくなる。その分複雑になる。敵を作って集団が纏まる、弱い者を決めてそれをハケ口とする等。いじめの構造。

子供の心は人間関係でパンパンになり、耐えられなくなった時自殺までする。だったらそんな人間関係ナシにしてしまえ、登校拒否、引き籠り。

この映画の主人公はちょうどそんな時期の女の子。少女は“escap!”とつぶやく。escapした先はお婆ちゃんの所。八ヶ岳山麓の林の中でお婆ちゃんは自然と共生していた。少女とお婆ちゃんのひと夏の、かけがえのない物語。原作は有名な児童文学だそう。

人は生きている間中、人間関係の中で、喜び苦しみ、成功したり失敗したり、金持ちになったり貧乏になったり、好きになったり嫌いになったり、もがく。でも人間関係の向こうにもう一つの大きな自然の世界があること、いずれは死ぬ私という自然的存在、それになかなか気が付かない。

少女はひと夏、人間関係の世界を離れて、野イチゴでジャムを作ったり、畑を耕したり、鶏の卵を取ったり、その鶏が犬に襲われて死んだり、落雷で道に迷ったり、様々な自然と向き合う。そしてこの頃“死”を意識する。少女はそれをストレートにお婆ちゃんにぶつける。“お婆ちゃん、死んだらどうなるの?”“死んだことないから解りません”

お婆ちゃんは聞いた話としてこう続ける。“死んだら魂は肉体から離れて新しい旅に出ます。肉体からの脱出に成功したら必ず連絡します”

お婆ちゃんは実は魔女だった。この家の女には魔女の伝統が引き継がれているという。少女はお婆ちゃんの下で魔女修行を始める。しかしそれは早寝早起きだったり、人を疑ってはいけないだったりの当たり前の生活習慣、そして自分のことは自分で決めるということ。これをキチンとやれなければ魔女にはなれません。魔女とはお婆ちゃんの生き方。

人間は物語を作ることによって納得し安心する。お祖父ちゃんが死んだ翌年、ここに野イチゴが生えてきました。収穫の時期はお婆ちゃんの誕生日と重なりました。これはお祖父ちゃんの私への誕生日プレゼントです。お婆ちゃんはそうやって物語を作り人生を乗り越えてきたのだ。それを孫娘に教えたのだ。

二年後、、お婆ちゃんは死ぬ。ドアに落書きがあった。

「ニシノマジョカラヒガシノマジョヘ タマシイダッシュツセイコウ」(正確かどうか?)

“死”をこんなにファンタジックに表現した言葉を知らない。涙が溢れた。

この孫娘、お婆ちゃんから伝授された、人間関係の向こうにもっとどうしようもなく大きな自然世界があること、そしてどうすることも出来ない自然世界を物語という魔法で乗り越えられるということ、をしっかりと受け継いだ。きっと人間関係なんて難無く乗り越えて生きていける。

お婆ちゃん、サチ・パーカー、シャーリー・マクレーンの娘とか。始めぎごちない台詞や仕草に躓いた。しかし話が進むにつれ、英語教師として来日し、日本人のお祖父ちゃんと結婚したという設定も含め、そのタドタドシサがピッタリと思えて来た。少女(高橋真悠)も自然、リョウも大森南朋も郵便配達の高橋克実も木村祐二も、みんな良かった。

音楽、トベタ・バジュン。日本人。全く知らない。Pfメイン、Fl、Ob、G、リコーダー(?)、に時々小編成の弦が入る。人間の感情に付けるのではなく、映画全体の流れで付けている。説明っぽくないし感情の押し付けもない。距離を置いてベタつくことなく映画の流れを助けている。品の良い音楽である。

編集はゆったりしつつも話の展開は余計な説明を省いてテンポ良い。ローリングの主題歌もピッタリとはまり、映画の余韻を壊すことなく聞けた。

監督 長崎俊一 音楽 トベタ・バジュン 主題歌「虹」唄・手嶌葵 詩曲は別の人