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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2008.10.24「トウキョウソナタ」恵比寿ガーデンシネマ

2008.10.24「トウキョウソナタ恵比寿ガーデンシネマ

 

トウキョウ山の手ソナタである。

一流会社の総務部長がリストラされて、でもプライドは棄てきれずに行き詰る。家では、依然自分の父親像を家族に押し付ける。食事は父親が箸を付けるまでは始めない。形だけは整った家族。でも、友人夫婦の無理心中がなくても、食い詰めた強盗に出くわさなくても、日々の生活に追われて否応なくそれまでの価値観を棄て、清掃や守衛の仕事を受け入れている人がたくさん居る。一旦割り切れば、視点を変えれば、別の世界が拓けて来る。ものは考えよう。色んな人生があるんだ!と言う風には考えられない人々の物語。

これを真正面から至極真っ当にやられても、何を今さらである。山の手では納得する人も居るかもしれないが、下町ではそんなものドラマにもなりゃしない。“銀行を襲う”とか“解散!”と叫ぶとか、はたまた故郷へ帰って“おくりびと”になるとか、この映画の先を作るのがエンタテインメントではないのか。真面目に山の手リストラ家族を真正面から描かれても息苦しいだけなのだ。黒沢清は真面目である。このマジメさは息苦しい。

 さて音楽。音楽を語らず、映画の内容を先に語ってしまったのは、語るにはあまりに音楽が少なかったからだ。だからと言ってこの映画の音楽が語るに足るものではないということではない。全く逆である。

 歪んだようなFlのモノトーンと、バックにストリートオルガン(?)、オフでPfの硬質な打音。これがタイトルバックと父親が彷徨うシーンなど2~3箇所、劇伴といえるのはこれだけ。自動車販売店のBGMに安っぽいSyn音。調性のある音楽らしい音楽は最後の、次男が音大の試験で弾く、ドゥビッシーのPfソナタだけである。

 しかし、これは映画音楽としては素晴らしい演出である。音楽を付けないことも大いなる音楽の演出なのだ。

 この崩壊した家庭に調性のある音楽はふさわしくない。調性のある音楽は画面の中に潜む感情のどれかを増幅してしまう。この家庭の各人が持つ複雑な感情のどれかを安易に増幅でもしようものなら、この映画はぶち壊しである。作曲家か監督か、どちらかがそれをとってもよく解っていた。だから出来る限り音楽は無しで行き、最後に出てくる唯一の調性ある音楽としてPfソナタが、この家庭の再生を予告して終るのだ。この演出は見事である。

 では何箇所かに入ったほとんど調性のないFlの曲は?あれは崩壊してしまっている家庭の歪み音。どんな感情とも対応しない音楽。だからこそ調性感なく、硬質に響く。だったらいっそこの音楽も無しにしたらどうだったのか。

 音楽の代わりに効果音が、あたかも音楽のような演出をしている。線路脇の家というのは音的に上手い設定。時々通る電車の通過音が、コミュニケーションの場で無くなった食卓のBGMであるかのように、静寂を際立たせている。

 自動車販売店のBGMも無しでよい。劇中の現実音であっても、急に安手のsyn音楽が流れると、目立ってしまう。

 最後のPfだけにしたら、随分すっきりしたのではないか。

かって森田芳光が「家族ゲーム」で全く音楽のない、遠くにビル工事の杭打ちの音だけが聞こえるという見事な音の演出をやってのけた。それを思い出した。惜しい。

 「トウキョウ山の手ソナタ」は、久々に見事な音楽演出だと思う。

監督・黒沢清、音楽・橋本和昌