2011.6.23「さや侍」丸の内ピカデリー
2011.6.23「さや侍」丸の内ピカデリー
松本人志、脚本監督。
“30日の行”、笑わない若殿を30日以内に笑わせなかったら切腹という設定に、刀を捨てたさや侍とそのしっかり者の娘が見張り番二人の力を借りて挑む。ギャグをやって太鼓がなり、伊武雅人の家老が“切腹に処す!残り後何日!”と大声で沙汰をする。ひたすらその繰り返し。このまま30日分繰り返すのかと途中で心配になる。それ以外のエピソードはなく、最後までその通り。途中から城外でやることが許され、町人が観客となり、町を上げてのイベントとなっていく。がパターンは同じ。最後に若殿が笑って大団円以外にないと思っていたら、落とし方だけは良かった。ついに最後の日が来て、さや侍は立派に切腹してしまう。
さや侍は行きずりの坊主に時世の句ならぬ“歌”を残していた。
川の流れを挟んで娘に向かってそれを読み上げる。少しづつ節がついて、それはフォークソングとなる。私は死んで今は先に逝った妻と幸せに暮らしている。心配せず君は生きて、愛する人を見つけて結ばれて子を宿し、私はめぐり巡って君の子供となる。ただただ巡り巡る、それだけ… そんな内容。
松本人志は確か最近父親になった。それだ! 子供が生まれた時私もそうなった。私が死んでも私はどこかに継承されている。死は怖くない。そんな感じになった。
さや侍の石碑の前で娘と若殿、そこにさや侍が現れて、首なしのギャグをやる。二人は笑い転げる。その石碑が現代になり、その脇を自転車でさりげなく通る松本。
終り方は良い。好きである。それまでがあまりにスカスカといえばスカスカ。この思いを伝えたい為にはこの映画の筋立ては最もシンプルである。おそらくちゃんとした映画の脚本はここをスタートとして膨らませていくものなのだ。膨らませないままアイデアと伝えたいことを剥き出しで提出してしまった映画。いくらギャグの仕掛けを大仰にしてもそれは無理なのだ。でも一途さは好きである。
音楽・清水靖晃 さすがである。
映画の方に演出が出来ていないので、音楽がそれを補って、特に前半、映像と音楽の役割は五部五部。説明的音楽ではあるが、あれがないと映画は成立していない。説明の音楽と、当たり前のところに当たり前の音楽。しかしそこは清水、ちょこっと捻ったこともやっていて安っぽくならず。清水の音楽が品を作っている。部分的にはかなり大きな編成も使っている。安っぽくしない為に必要なこと。ローリングのTPメロの曲も普通なようでいてちょっとそうでもなく、ベタにならず爽やか。坊主の吉田拓郎の様なフォークメロも清水か、それとも誰かのアドリブに近いものか。朗読に節がつき始めるあたり、ええっ? と思ったが、元々何でもありの映画、直に違和感はなくなった。