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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2013.10.11 「そして父になる」 丸の内ピカデリー

2013.10.11 「そして父になる」 丸の内ピカデリー

 

20年後には間違いなく宇宙の塵になっている。年のせいかそんなことばかり考える。その塵が人間として再び結実するのには悠久の時が必要、「火の鳥」のような話。そう思う時、今人間としてあることの奇跡、人と出会えたことの奇跡、を感謝する気持ちで一杯になる。ちょっと宗教的

最大の出会いは親子。親と子として出会えた奇跡、それは私の精子とあなたの卵子などというレベルを遥かに遥かに超える。たかだか5~60年、同じ空間と時間を共有し、また永遠に別れていく。そう考えた時、血やDNAという自然科学的説明は雲散霧消してしまう。ただただその出会いを受け入れ、その奇跡に感謝するしかない。

しかしそんな気になるのはたまにで、毎日は人間社会の常識と目に見える日常。目に見える日常は強固で、まして自然科学的裏付けに我々は特に弱い。それが残された最後の確実なもの、という幻想を持っている。

強固な日常は、血は水よりも濃いのか、取り違えを知らなかったらどうなったか、と問うて来る。その日常に裂け目が生じた時、ようやく実は、血が繋がろうと繋がらなかろうと、”そして父になる”、ということは変わらないことが解る。これからもあの主人公は葛藤しながら、父になる努力をし続けるのだ。出会えたことに感謝して。

 目に見えない真実を即物的具象としての映像で表現するのは至難の技、音はそんな時役立つ。冬の田舎道の鉄塔と送電線、そこにピアノの一音が響くと、背後に宇宙が立ち現れる。音楽、とっても上手くいっている。

ひとつも感情に付けた音楽が無かったのは良かった。馬鹿なプロデューサーが最後はひとつ泣けるような音楽を、なんて言ったかも。それらをすべて拒否して、音楽を言わば神の視点から付けたのは大きな成功。

しかしこれ殆ど楽音と効果音の中間のような音楽、全て作曲家の手になるとは思えない。ピアノと映像を前にして、ほとんど監督と作曲家の共同作業のような気がする。考えてみれば映画音楽は度合の差こそあれ、どれも監督と作曲家による共同作業と言える。単楽器で単音に近い音楽の場合、監督は介入し易い。口を出しやすい。録音機材も楽器も進歩してそれがさらに促進された。この映画の音楽、その典型のような気がする。そしてとっても上手くいった成功例だと思う。

かつて作曲家は殆ど楽音と効果音の中間に位置するピアノの一音や打楽器の一音を緻密に考え工夫し音楽の領域としてコントロールした。一音に色んな楽器を重ねたりした。それはあくまで作曲家が創り出す楽音だった。今、それらの音は作曲家の手からかなりの部分が監督の手に移りつつある。作曲家は演奏者やオペレーターに近い存在になっている。その時、作曲家による音楽としての一音と、監督との協労による一音にどのような違いがあるものなのか。作曲家は音楽の専門家であるが映画の専門家ではない。監督は映画の専門家だが音楽の専門家ではない。ただひとつ確実に言えることは、監督との協労による時はほぼ監督の意図通りのものが出来るが、それを超えることはない。作曲家が自分の考えの下で作曲した時、監督の意図を遥かに超えた世界が立ち現れることがある。確実な足し算か上手くいかないリスクも覚悟の掛け算かである。今は録音機材も楽器も進歩したので、やり直しはかなり効く。だとしたら作曲家の考えにまず耳を傾ける、というところからスタートしてはどうか。音楽の付け方はその人の映画の解釈である。作曲家はこの映画をどう解釈したかである。それには作曲家も映画を理解する力がなければならない。昨今の作曲家はそこに問題があるような気がする。

「そして父になる」はとっても上手くいった足し算である。が、掛け算にはなっていない。

 最後にオフで子供の声をエコー一杯に効かせて流しているのは、上手い音の演出。さすがドキュメンタリー出身。

監督 是枝裕和  音楽 松本淳一、森敬、松原毅