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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2013.12.2 「かぐや姫の物語」日劇マリオン 

2013.12.2 「かぐや姫の物語日劇マリオン 

 

高畑勲監督作品のアニメ。

竹取物語とはこういうことだったのか…

誕生は偶然、親も国も時代も場所も選べない。生を受けた人間はこの地球という星の上で、自然を愛で、人を愛することを知り、同時に哀しみを知る。それはいつか別れなければならないということがどうしようもない前提としてあるから。そして死んでいく。死んでいくとは人間の側から見た言い方で、また宇宙へ戻るということだ。魂は何億年の後に偶然にもまた人間という形となって再生するかも知れない。しかし前の記憶はない。「火の鳥」である。

人間存在、これが竹取物語だったのか。宣伝コピーの”姫の犯した罪と罰” 罪とはこの地上に生まれてきた事、あるいはそこで自分を自覚し愛を知ったこと、罰とはその地上と別れねばならないこと、その記憶が消えること。つまりは”原罪”ということ。

人間は、置かれた状況を表現することしか出来ない。原始の時代から色んな表現と物語を作ってきた。それが感動と共感を呼んだ。人間に出来ることは宇宙の果てにそびえ立つ壁に、せめてもの引っ掻き傷を作ること位だ。高畑勲はしっかりと引っ掻き傷を作った。

アニメはどうしても好きになれない。背景はどんどん緻密になっていく。リアルを求めていく。写真の様に、あるいは写真を着色した様に。しかしその背景の手前に居る物語の人物たち、キャラクター、これだけは相変わらず平面、漫画、輪郭。この違和感はどうしようもない。これに違和感を感じない人がアニメファンになれば良い。私はダメだ。もしかしたら高畑勲は私と同じことを感じていたか (ナンテ)。この「かぐや姫」、その違和感がないのだ。背景もキャラも同じ筆致、筆で書く墨と水彩画のタッチ、鳥獣戯画に通じるような。初めからアニメをリアルに近づけようとすることを捨てている。全く賛成。キャラが浮いてないから違和感なくアニメの世界に入っていけた。

音楽は久石譲。雲に乗ってお釈迦さまだか観音様だかが、かぐや姫を迎えに来る。その音楽、それはお祭りの音楽、お祝いの音楽。Percマンドリン(?) 箏(?) Fl、ケーナ(?)等でラテン乗り、賑やかに女声も入る。高畑が「平成ポンポコ」で使った『上々台風』に近い音楽。あるいは「夢」(黒澤明)の“葬送”(笠知衆と村人が鈴を鳴らしながらパレードする音楽・池辺晉一郎) 。太鼓と重い男声コーラスで曲調は違うが「第七の封印」(イングマール・ベルイマン)のラスト、死神と主人公が山の稜線を踊りながら登っていくあのラストの音楽にも通じる。“お迎え”は“お祝い”なのだ。よくぞ久石譲からこの音楽が出て来た。よくぞこんなもの捻り出した。この音楽は私の本年の映画音楽のベストである。

わらべ歌がテーマとして一貫して重要な役割を果たす。これが高畑自身による作詞作曲であることはローリングで解った。糸を紡ぐ時などにも。これ輪廻の歌、御詠歌。この素朴な味わい、音楽家にはなかなか作れない。久石はこの歌も劇伴の中に上手く料理する。

これを着ると全ての記憶が消えるという衣、それを掛けられようとする時、姫は“待って!”と言う。おじいさんとおばあさんに向かってすがるように手を差し出す。早くこれを着てこの世の汚れをと促す女官に向かって “汚れてなんかいないわ、人の情けを…” 台詞途中でバサッとカットアウト、その瞬間、画面は止まる。背後から衣が掛けられたのだ。静寂。その姫の顔の美しいこと。今年もっとも深い涙を流した瞬間。目尻とかではない、もっと深いところから湧いてくる涙。

一瞬の素の後、また賑やかなお釈迦さま音楽、やがて姫とお釈迦さまを乗せた雲と音楽は月の中に消えていく。

最後は月に姫の子供の頃の姿、久石譲のテーマのフレーズがPfソロで一節奏される。この一連、映像も素晴らしいが、音楽の構成も秀逸。

この後、素を置いてPfがそっと入ってきて主題歌。この作曲は久石ではない。しかしこれも上手く合っている。歌単独で聴いた時はどうか分からないが、映画の余韻をキープしてしっかりと役割を果たしている。この主題歌のPfのみの編曲は久石の手によるものか。

監督 高畑勲   音楽 久石譲   主題歌 二階堂和美「いのちの記憶」