映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.4.30「バードマン」池袋シネリーブル 

 2015.4.30「バードマン」池袋シネリーブル 

 

60歳を過ぎた頃から来し方行く末が急に見えてきて、視界が拡がった。来し方よりは行く末の方に。行く末はいずれ宇宙の塵、そう考えると諸々が全く違って見えてくる。食わねば死ぬしクシャミもする。他人は気になる。でも大したことないというベースがしっかり出来てくる。

“バードマン”というキャラクターものでスターになった男 (マイケル・キートン) が、“バードマン”を抱えたまま60を迎える。その落ち目のハリウッドスターが表現者となるべくブロードウェイで、脚本演出主演、自らの資金を投げ打ってストレートプレイを打つ。その男の脳味噌の中、映画はそれを映像化する。脳味噌の中だから自由奔放、脈絡はなく、妄想だらけ。それを見事に映画一本フルのワンカットで作り上げる。もちろん技術的にはCGを使ったワンカットではあるが、映画全体が彼の主観、手持ちをフルに使って、見る者は彼の脳の中と一体化する。技術的にさぞ大変だったろう。長いワンカットの段取りは緻密極まりなかったはず。しかもそれを微塵も感じさせず、ただただ乱暴な主観映像のふりして通し切る。

考えればこんな葛藤、誰にでもある。毎日こんな葛藤が頭の中で繰り返されている。それは人には伝わらない。葛藤相手のバードマンを可視化した時、初めて表現となる。そうすることによって、より葛藤は明確となり、表現としてのエンタテイメント性が格段に拡がる。まさに映画。

マイケルジャクソンが死んだ日、ファラフォーセットも死んだが新聞はマイケル一色だった。ジョージ・クルーニーと同じ飛行機に乗り合わせ事故にあったら、翌日の新聞はクルーニー一色でバードマンの記事は無いだろう。そんな落ち目のスターの嫉妬、妻娘への後悔、表現者として評価されたいという名誉欲、俺はまだ有名なんだというプライド、俺はバードマンだ!、それらが混然一体となって脳の中を巡り息つく暇なし。様々な問題、生意気な若手役者、そんなことがある度に部屋に籠りバードマンと対話する。バードマンを肩に載せながら、舞台は初日へと突進していく。

吹っ切れるには老いの時間が必要なのだ。本当に大切なものが何か分かってくる。老いと諦めがベースを作る。老いと諦め、万歳。

娘が、薬物治療施設で施された治療と言って広げた長いロールペーパーの例え。これが地球の歴史。人類はたかだか15万年、それに相当するのは僅かグラス受け用ティッシュ。そのティッシュを丸めてポイと捨てて、人類の歴史が無くなっちゃった。こんな例え,誰が考えたんだ? 俺の人生、顕微鏡で見たティッシュの繊維一本ですらない。

お芝居は大方の予想を覆して好評を博す。芝居も満足に出来ないハリウッドスターと見縊っていたブロードウェイのうるさ型が溜飲を下げる。しかしそんなことどうでもよい。最期はバードマンと決別してNYの空に羽ばたいていく、娘と和解して。もしかしたら死んだのかも知れない。でも脳内のこと、どちらでも良い。

音楽は初っ端からDrソロ。脳味噌映像に合わせての即興プレイ。画面に合わせて後入れしたのか、素材録りしてはめたのか、いずれにしろ見事。時々手持ち主観の狭い楽屋通路のコーナーにドラマーが現れて演奏したりする。これがちゃんとシンクロしている。アントニオ・サンチェス、メキシコ人の有名なドラマーらしい。相当イメージ豊かな人である。

この映像に付けるとしたらどんな音楽か。私には浮かばなかった。感情移入してしまう楽音はダメだ。脈絡なく目まぐるしく展開する脳内の変化、絵面のテンポ、音楽はそれに合わせてDrソロを選んだ。これ以外の選択肢はない。

家族のエピソードで何か所かクラシックの既成曲、しかしこれも他との違和感全くなく付けられている。

こんな音楽の発想、私には思いつかず。

正式タイトルは、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

監督 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ  音楽 アントニオ・サンチェス