映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.7.7「きみはいい子」丸の内TOEI

2015.7.7「きみはいい子」丸の内TOEI

 

団地に住む幼稚園入園前の娘と母親(尾野真知子)、夫は単身赴任。同じく入園前の男の子と赤ん坊を抱えるシングルマザー(池脇千鶴)、小学校4年を担任する若き男性教師(高良健吾)、呆け始めの一人暮らしの品の良い老婆と精神的障害を持つ少年、ここにある子供の問題、大げさに言えば”この国の子供は今どんな状況にあるか”を同時進行でドキュメンタリーのように描いていく。各役者が役者であることを忘れさせてしまう位、自然に演じている。ガチガチに詰めた脚本ではなく、設定を与え自然にやらせ、それを切り取ったのだろう。子供も限りなく自然、それに驚く。

愛情を素直に注げない母親、学校でのイジメのメカニズム、虐待されているらしい少年、それに気付くがどうしようも出来ない若き教師、痴呆のおばあちゃんと精神障害を持つ男の子との交流、この国が抱える矛盾が末端の弱き子供たちに表出している。

作為は限りなく隠す。演出は唯一、池脇が尾野を”あなたも子供の頃つらい目にあっていたのね”と抱きしめる所。ほとんどサスペンスすら感じる、そのままレズシーンになってもおかしくない位の意図的過剰な演出。ここのみに集中。この一点突破、白眉。

結局なんにも解決はしない。クライマックス、5時を過ぎてもいつも校庭に居る、居場所のない少年の姿がない。高良が走る。おばあちゃんと障害児童とのコミュニケーションのインサート。「喜びの歌」(ベートーベン)がPfでくずしながら入り、弦が加わり、まるで走る高良はロッキーの様。あれ? このまま明るくまとめて解決? いえ、少年のアパートの扉には転居の紙が貼られていて、そのままカットアウト、黒味、ローリング。この終わり方、衝撃的である。

音楽は入る事によってこれは演出されたものですよと気づかせてくれる。それくらいリアルなのだ。音楽を付けるとこういう効果もあったのだ。Gソロ、マリンバソロ、Pfソロ、などが時々入る。それで充分。職員室での先生同志のやり取りのちょっとコミカルなところに付けているマリンバ、あれは無くてよい。

職員室、居場所のない少年、虐待を受けているのでは? 家で継父に殴られているんでしょ?の質問に首を横に振る。少年と高良が教室へ戻る階段、ここにPfがボロンと入ったら一番の泣かせ所が作れる。聞こえて来たのはリコーダー合奏の「お星さまピカリ」、音楽室から聞こえてくる現実音を見事に演出の音楽とした。ここにPfだろうがGだろうが、どんなオリジナルの音楽を付けても作為が先に立つ。それを承知でこれでもかとやる考えもあることはある。しかしこの監督、見え見えの作為を回避した上、より深い感動を作り出した。

だったら最後の「喜びの歌」も弦なんか入れて盛り上げること無かったのではという気もする。映画としてはここで盛り上げてストンと落とす、そんな意図とは思う。もちろん現状でも良いのだが。

この作曲家とはコンビのようである。「オカンの嫁入り」も「ここのみにて光輝く」もこの作曲家である。大きなオーケストレーションのタイプではないよう。監督もこれまでのところ音楽に大きな役割を負わせてはいない。監督の指示通りにやっているのだろう。大編成の音楽が必要な作品の時はどうするのだろう。

人間は生まれてから成人するまでに最も手間と長い時間の掛かる動物なのだそうである。そしてその間に親子の感情が作られる。それを予め奪われてしまっている子供たち、あるいはその時期を様々な理由で上手く過ごせない子供たち。地域が崩壊し、家族が崩壊し、親子もかつての様に無前提に確実なものではない。そんな時、ひとりでは生きられない人間の子に歪みが凝縮されて現れる。それをそのまま眼前に示した作品。今や子供が普通に大人に成るのは奇跡に近いのかも知れない。

恥ずかしながらこの監督を知らず、この作品を観てビックリ、遡ってDVDで「オカンの嫁入り」と「ここのみにて光輝く」を観た。

「オカン~」は大阪下町を舞台にした大竹しのぶ宮崎あおいの母娘の話。ここには確実な居場所がある。鬱陶しいくらい濃密な下町がある、時には肉親をも超える絆で。これは失われているのかも知れない。こんな居場所あっほしいという願望の映画かも。

「ここのみ~」これは初めから社会のどこにも居場所がない人の物語。何とか居場所を作ろうともがく物語。

三作とも舞台も手法も違う。しかしこの監督の問題意識と演出力は凄いものがある。大変な監督が出て来たものである。

監督 呉美保  音楽 田中拓人