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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.10.30 「ギャラクシー街道」Tジョイ大泉

2015.10.30 「ギャラクシー街道」Tジョイ大泉

 

ある限られた趣味の人にのみ解るジョークとか、ある映画を知らないと通じない設定とか、そんな小技が隠し味として仕込まれている映画はシャレていて、思わずクスリとしてしまう。この映画にはクスリが満載である、きっと。

話の飛躍、荒唐無稽さは、その許容ポイントが人によって違う。体調とその日の気分によっても違ってくる。この映画は飛躍と荒唐無稽で成立している。

例えば、クスリが作者のみにしき解らなかったら、飛躍と荒唐無稽に付いて来られるのが作者のみだったら、自分一人だけが解る自分の為だけの映画ということになる。

才人三谷幸喜のこの映画は何人位の人をクスリとさせられたか、何人位の人がこの飛躍と荒唐無稽について来られたか、それは私には解らない。

舞台は宇宙。ギャラクシー街道沿いの寂れたハンバーガーショップ。お客は様々な宇宙人。ビチョビチョに水が滴る体を持った者、挨拶として長い舌でペロッと相手を舐める者、月に一回脱皮する者、トイレで変身して巨大化する正義の味方、妊娠して卵を産む男、”宇宙で地球の常識は通用しない”の下、自由奔放何でも有り。それをハンバーガーショップのあちこちでグランドホテル形式に展開する。三谷はグランドホテル形式が好きである。バラバラのエピソードは最後に遠藤憲一演じるナントカ(?)星人の妊娠と卵8個の出産でみんなが協力して一つに纏まる。店長の香取慎吾綾瀬はるかの夫婦が諦めかけていたこの店でもう一度頑張ってみようという風に纏める。

クスリは主に三谷が憧れるニューシネマ以前の黄金期のアメリカ映画と「宇宙家族ロビンソン」やら60年代70年代のアメリカのTVSFのよう、私には正確には解らない。

荒唐無稽は一つ間違えると単に馬鹿馬鹿しいになる。よくぞ集めたスター達がそれを熱演する。

作り手は芸術とはいわないまでも、自分の考えやこだわりも含め思い通りのものを作りたいと思う。映画でビジネスをする側は少しでも解り易いものを望む。今に始まったことではない。この時両者に観客は想定されていたか。解り易さに折り合いを付けて寄り過ぎると自分の表現では無くなる。100人に見てもらえれば良いとなると、これは自主映画、仲間内だけで観る映画。その度合いと判断が監督の力量と言えるかもしれない。あるいは監督が客観性を無くした時、その度合いを冷静に判断するのがプロデューサー。三谷監督には誰も物を言えなくなっているのか。この映画、役者や公開規模や宣伝等見た時、単館系の映画を作ろうとしたとは思えない。しかし結果は、通の100人が喜ぶ映画を作ってしまった。この作品、カルト映画になることだけは間違いない。

音楽。荻野清子。当然ながら黄金期ハリウッド映画の様な音楽。タイトルバックは良かった。その調子でゴージャスにオケで行くのかと思ったら、ギターで情感たっぷりにやったりしてなんかショボかった。やりようがなかったのだろう。シンフォニックにベタに付けるとドラマが余計平板になり、台詞も効かなくなる。この映画の内容からすると付けられるところは限られてくる。ラストは西川教貴の往年ハリウッドミュージカル調の歌(作詞・三谷、作曲・荻野) 、これも今一決まらず。

三谷には珍しく下ネタ満載、これがソフィスティケートされてない。50男のいやらしさと露骨さが浮き出ている。スペースコールガールの台詞や卵から孵った遠藤の子供たちなどグロで差別の匂いすら感じる。「バーバレラ」のジェーン・フォンダのフィンガーセックスなんてシャレていたなぁ。

唯一、どんな時にもさらってしまう大竹しのぶがここでも圧巻。最後の最後の締めも結局大竹に頼ることになった。

数日前の朝日の夕刊のコラムで三谷がこの映画の言い訳らしきことを書いていた。本人も空振ったと思ったか。それにしても朝日のあのコラム、いつまで続くのか。自己宣伝紙面の私物化も甚だしい。初めの頃は面白かったのに。

監督 三谷幸喜  音楽 荻野清子