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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.11.15「FOUJITA」ユーロスペース  

邦画

2015.11.15「FOUJITA」ユーロスペース  

 

映画とトーク付きの上映を観た。トークは音楽を担当した佐藤聰明と前島秀國(評論家)。

画家・藤田嗣治を淡々と描く。放蕩をつくしたバリ時代、帰国してからの戦意高揚画家の時代。ゆっくりとした流れ、台詞も音楽も極端に少ない。ワンカットワンカットが完璧な構図完璧な照明で息を飲む。藤田の生涯を描く訳でもない。作品を紹介する訳でもない。内面の葛藤を描くというものでもない。ひたすら淡々、ドラマ的盛り上がりは初めから拒否している。だから普通の映画の様に登場人物の誰かに感情移入するなんてことは出来ない。感情的台詞はリリィの“死ぬな!”くらいか。

対談で佐藤は言う。映画音楽って簡単なんですよ、ラッシュに耳を傾ければ映像が音楽を求めていることが解るんです、その声に従えば良い。そう、筆者が教わり学んだのもそれである。ラッシュに耳を傾けよ。映像が求めている音楽を聞け! しかし小栗康平のこの映画のラッシュ、音楽を求めていない。どうしたらよいか最も悩んだそうである。

未使用曲が一曲。そびえ立つ樹齢何百年という巨木、それに付けた音楽 (M6と言っていた)

これを外してほしいと言われたとのこと。会場でその曲が流された。他の音楽の響きと一貫した弦の曲。この曲を付けると巨木は間違いなく神性を帯びる。佐藤もそのつもりで書いたのだと思う。小栗は、意味づけは観る人に任せたいという。作り手が意味を押し付けたくない。作り手側の説明の音楽は不要である。

筆者はこれまでそれをやって来た。具象の映像に精神性を付与出来るのは音楽だけだと思っていた。小栗はこれを拒否したのである。

仏から日本への場面転換も素っ気ない。何の映像処理もせず、バサッとカットが変わって、日本の打ち寄せる波と垂れ込めた雲の下の海岸、一瞬仏にも日本と似た風景があるなぁと思った。従来の考えでは時間経過と場面転換を解らせる為の音楽を入れる。その説明的Mはない。

 

音楽が補完するところのない完璧な映像、そこに求められる音楽。それは、佐藤さんあなたはこの映画をどう解釈しますか、あなたの解釈を音楽にして下さい、ということ。

映像には筋の運びとは直接関係のない、実景や美術品のカットがかなり長い尺で入っている。普通の映画なら真っ先に削られるカットである。それは小栗から佐藤への問である。

佐藤の音楽は、繊細で厳しい弦と、クロマチックゴング、スティールドラムが深淵を作り出す、サウンドとして一貫したもので初めから終わりまでブレない。クロマチックゴングやスティールドラムは対談の話で解ったこと、私の耳では解らなかった。そういえば武満徹もよく使っていた。

 

冒頭、線を書く藤田、この線が生きていなければならない。後半、戦争画の前で倒れた人を見て、絵が人を感動させるということを目の当りにしましたという。裸婦を描きFuFuとあだ名されて放蕩の限りを尽くしたパリ時代、日本に帰って戦意高揚絵画の巨匠となった戦中、さぞや内面には色んな葛藤が… しかし映像はそんなこと億尾にも出さず淡々としている。オダギリ(静かな熱演)の芝居も一貫して淡々である。所々にパリの実景、美術品、日本に戻ってからの鎌倉探訪、仏像や能面、藁ぶき屋根の古民家に住み、垂れ込める雲と山々の織り成す霊幻な自然を感じ、棚田と黄金色の稲穂の中を歩いた。

佐藤はそこに一貫した音楽を付けた。映像と音楽、そこに言葉は存在しない。

私はキリスト教の十字架の下に20年いたんですよ、と藤田は言う。

エンドロールのキリスト教をモチーフにしたフレスコ画の中にはオカッパ頭の小さな自身がキリストを見つめている。小栗はこの映画の新聞インタビューで、“明治以降の近代の受容の問題は果たして解決されたんでしょうか”と言う。

どのような言葉にするかは観た者に投げかけられている。

監督 小栗康平  音楽 佐藤聰明