読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.12.1「さようなら」新宿武蔵野館

2015.12.1「さようなら」新宿武蔵野館 

 

一篇の映像詩と言ったら良いか、観る側は通常のエンタメ映画を観る時とは違ったモードで対応する必要がある。これも一つの映画的表現である。

原発事故で汚染され住むことを諦め国を上げて移住を決意した近未来の日本。移住の順番と行先は抽選で決められる。ススキが生い茂る高原の村でその連絡を待つ人々。すでにかなりの人がここを立ち去っている。ターニャは病を抱えながらレオナと二人で暮らしている。ターニャは南アフリカからの難民、レオナはターニャが病になった丁度その頃両親が買い与えたアンドロイド、幼い頃から傍にいる。

画面は決してSFではない。洋風の小屋の二人はフランス絵画の様であり、ススキの揺れる高原や空は美しい自然のままである。SFを思わせるものは唯一レオナの顔の無表情だけ。

レオナは旧型で歩行が困難になっており、電動車椅子で移動する。ターニャが車椅子を押したりする。新しい肉体に早く取り替えてあげるべきだったとレオナに謝ったりする。

レオナは谷川俊太郎若山牧水ランボーやカール・ブッセの詩をターニャの求めに応じて朗誦する。自分の価値観や感情は持たない。ただターニャを通じて学習をする。レオナにはターニャの過去が、ターニャ自身が忘れてしまったことも含めてファイルされている。

幾つかの細やかなドラマがある。原発、人種差別が背景に横たわっている。しかしそれらはこの設定にリアリティを持たせる為のもの、重要ではあるが本筋ではない。

やがてターニャは死を迎える。ソファに裸身を横たえ、光が変化し、肉体が少しずつ消滅してミイラの様になっていく。カメラはこれを固定したワンカットで延々と映す。車椅子に座りじっとそれを見ているレオナ。時間が可視化される。凄いワンカットである。

やがてレオナも朽ち果てていく。最後は電動車椅子で外に出たレオナが何十年に一度だか咲くという竹の花を見て終わる。

ターニャの人間の時間、レオナの電源さえあればいくらでも続く時間、そして窓の外に全てを包み込んで広がる大自然の時間、それぞれの時間が流れる。人間の時間は僅かなもの、泣いても笑ってもこればっかりはどうしようもない。死ぬ時は死ぬ。その時ひとつ思い出があれば、とターニャは言う。ターニャの思い出とは何だったのか。

ターニャは、父親が竹の花を見て泣いたという話をレオナにしていた。その時レオナは解らなかった。しかし最後に赤い竹の花を見た時、ターニャの感情を学習したレオナはきっと泣いたのでは…

音楽は、ほんの僅かな箇所にPfの硬質で規則的なフレーズが繰り返される。死を迎えてからのシーンには小編成の弦が静かに入る。夕景では弦の上に女声のボーカリーズ。でも決して盛り上げなんかはしない。感情を排した音楽。淡々として抑制された音楽。

音の主役はむしろ自然の音、窓から入る風音である。時に虎落笛の様な。さりげなく付いていて良い。

ほとんどがワンシーンワンカット、しかも固定での撮影。ゆっくりとした時間の流れ。この映像が静寂を作り出す。静かな映画である。

「FOUJITA」の自然は墨絵の様であり宗教画の様であり、そこに神々が宿っていることを感じさせるような、FOUJITAが見た、小栗が見た、人間が見た、自然だった。映像技術を駆使して作りこんであった。この映画の自然は、人間の目を通した自然ではない。ただそこにある、あるがままの自然、宗教的匂いは一切無い。

竹の花にも宗教的匂いはない。出会ったこと、一時心が通じ合ったこと、それが生きた証として、赤く記憶に残る。

この映画は、人間が生まれ生きて死んでいくことを、必死に形にする。解明なんか出来ない。ただこの不条理を何かの表現として現すことが出来た時、それは人に伝わり、感動を呼ぶ。

昨日からずっと「イノチ」なんてことを考えてしまった。観終わって気分爽快も映画なら、「イノチ」なんぞを考えてしまうのも映画である。初めは気持ち悪かったレオナの顔と吹き抜ける風音が脳裏から離れない。

 レオナ(ジェノミノイドFというのだそうな)は初め役者が入って演じているのかと思った。そうではなく平田オリザとロボット工学の博士が作り上げた本物なのだそうである。このロボットで先に芝居をやっているのだそう。

両親とターニャの子供の頃の映像をター二ャの背中なめで映すシーン、突然バシッと映像がカットアウトして暗転、一瞬映写事故かと思った。でも暗い中にターニャの後姿はあり、「電源切れ」との台詞、あれは上手い演出。

撮影と美術の貢献大。

監督 深田晃司  音楽 小野川浩幸