映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.12.18 「007 スペクター」 Tジョイ大泉

2015.12.18「007 スペクター」Tジョイ大泉

 

今作のトップはメキシコ、「死者の日」の祭り。街中がゾンビ風に化粧した群衆で埋め尽くされている。それをクレーンと空撮で丸ごと収める。その中を、人をかき分けボンド。贅沢この上ない。貧しい邦画的発想から抜けきれない私はついついエキストラ何人位だろう? 弁当いくつ位用意したのかな? このせこさ、ダメだ!

贅沢はちゃんとフイルムの中に生きている。初っ端からガバッと掴まれてしまう。後はもう身を委ねるだけ。

祭りの低音の効いた音楽がズンズン響く。その上にシーンに合わせた劇伴がのって、ホテルの中ではそれ風に、サスペンスはその様に、また祭りの音楽となり、その間づっとリズムはキープされている。撮影も大変だったろうが音楽も大変だったろう。

話は前作の「スカイフォール」から繋がっている。死んだ前のM (ジュディ・デンチ) の残した“ルキアを殺せ”が始まり。舞台はメキシコからローマ、スイス、モロッコへと飛ぶ。それぞれの地で見せ場あり。ローマではモニカ・ベルッチ、スイス以降はレア・セドゥが絡む。大ロングの砂漠を横真一文字に走るボンドとセドゥを乗せた列車、映画とはこういうものと見せつけられる。

冷戦下の007は直接の敵ではないにしろ、情報を手に入れるとか兵器を買うとかで、ソ連や中国が必ず見え隠れした。それが出来なくなって、前作「スカイフォール」からはMI 6の中から反MI 6が生まれる、謂わば組織の中のガン細胞の様な敵と戦うことになった。昔の仲間、昔の友、Mに捨てられた者等、脚本は知恵を絞りに絞って作っていることがよく解る。

「ミッションインポシブル」は明るい。組織は裏切るし切り捨てるけど俺たちハグレ組は決して仲間を裏切らない、というシンプルさが一貫していて、アメリカンである。一方ボンドは一人だ。密かに支える者はいるし、M (レイフ・ファインズ) もボンドをかばう。がやはりボンドは一人だ。ダニエル・クレイグになってからはどうしようもなく孤独感が漂う。MI 6の中で育てられた。「殺しのライセンス」 以外に選択肢は無かった。その感情はシンプルではない。

今作の敵は、幼き頃兄弟のように育てられた義兄とも言うべき人だった。これからガン細胞はどんな転移を見せるのか。

スカイフォール」では、猟場守の “両親が死んだ後、ジェームスはこの地下に2日間籠り出てこなかった、出て来た時は大人になっていた” という台詞に打ちのめされた。今作の中では、セドゥにスパイにならなかったら? と質問され “他に選択肢はなかった” と言う、今作の台詞で印象に残ったものを探せばこれか。今作も充分に面白い。が、敢えて言えば、前作と今作の差はこの台詞の差かも知れない。

音楽は例のテーマの頭の半音進行の部分とサビの金管のメロを上手く料理して劇伴の中に生かして、前作同様、見事なエンタメ映画音楽である。

あのテーマ、てっきりジョン・バリー作曲と思っていたら、モンティ・ノーマンという人だそうである。第一作「殺しの番号(ドクター・ノウ)」の映画音楽担当がジョン・バリーで、あのメロディーを編曲してタイトルバックに使った。思えばあの頃はエレキギターブーム。最初に聴いた時、デンデケデッデッデデデはダサいと思った。ブラスが入るところからはカッコイイと思った。考えてみるとトップの半音進行はデンデケ・メロの伴奏だ。当時よくあった伴奏のパターンで歌物の伴奏にも結構頻繁に使われていた。あれはテーマ・メロではなく、伴奏なのだ。してみるとあれはジョン・バリーの編曲の領分なのか。その辺正確なことは解らない。ただいつの間にか半音進行は伴奏から昇格してボンドのテーマの一部となってしまった。そして他の曲の伴奏にあのフレーズが使われていると、ボンドのテーマ使っている、という位になってしまった。

今作ではこの半音進行の伴奏メロとサビのブラス・メロが劇伴の中に上手く生かされて素敵な映画音楽となっている。結局デンデケ・メロはエンドロールにのみ顔を出す。前作「スカイフォール」でも劇中に一回だけだった。トーマス・ニューマンもあのメロ、嫌いなのかなぁ。

監督 サム・メンデス  音楽 トーマス・ニューマン  主題歌 サム・スミス