映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.1.24 「ぐるりのこと」 DVD

 2016.1.24「ぐるりのこと」DVD  

 

2008年6月7日 公開。

トミー・フェブラリーと聞いて、何だこれは? と思った。カタカナ好きの音楽業界、まあ仕方ないかと思った。しかしリリー・フランキーケラリーノ・サンドロヴィッチという名前を知った時は腹が立った。お前ら、遊びもいい加減にしろ、名前を何と考えている!

数年前、仕事でNYへ行った。安いエコノミーの往復チケット、その便にリリー・フランキーが乗っていた。行き帰りとも一緒。ジャージ姿で4~5人の仲間と。機内で気付いて騒ぐものは誰もいない。もしこの映画を公開時に観ていたら、恥ずかしながらサインを貰ったと思う。リリー・フランキー、あなたの名前はこれ以外にない。胡散くさくていかがわしくて、ひょうひょうとして輪郭は淡く、自己主張のジの字も無い様で存在感だけはある、ラフなデッサンのままで存在し、時に優しさまで漂わせる。「そして父になる」と「凶悪」を観て、去年は「野火」を観た。それらの前にこれがあったのだ。

木村多江、日本で一番薄幸が似合う女、薄幸は木村多江の為にある言葉と「ゼロの焦点」(2009.11.14 監督.犬童一心) で思った。この人に元気溌剌は似合わない。大分前、NHK土曜ドラマで、日本のOLが一念発起して上海に渡りそこでビジネスを成功させるという話を彼女主演でやった。台詞の半分以上は中国語で大変な努力だったと思う。しかし前向きな彼女に違和感があった。病んでいてほしい、不幸であってほしい。それでこそあなたの美しさは輝く。勝手である。

1993年、カナオ(リリー)と翔子(木村)、30歳。二人とも美大卒。律儀で潔癖症に近い翔子、どことなくボーッとして掴みどころのないカナオ。カレンダーに×印でセックスの日を書き込んで、決めたことは守らなければいけないと翔子、ノリを大切にするカナオ、このやり取りはほとんどアドリブの様に自然で、二人の性格を良く表わす。もちろんアドリブなどではなく、綿密な演出がある。翔子は小出版社勤め、カナオはスケッチさん(法廷画家)、二人は出来ちゃった婚をする。

夜道の後姿、二人の手が絡むところで最初の音楽。AG、男声、Pf、Dr の、幸せの音楽。

次のカットは位牌、子供は死んでしまったのだ。翔子の律儀さが周囲と摩擦を起こし始める。翔子は少しづつ心を病んでいく。カナオが帰ると流しに研ぎかけのお米が散らかっていた。病んでいく描写が上手い。

カナオのスケッチさんは時々の社会を象徴する事件の法廷をつぶさに見る。1995年、1997年 1998年、幼児殺害やらオームやら。ぐるりのことの間に法廷シーンの、ぐるりのそとが入り、画面上の変化を作ると同時に、時間経過を明確にする。ぐるりの10年はぐるりのそとの10年でもある。

翔子の実家の母 (倍賞美津子)、不動産屋の兄夫婦(寺島進、安藤玉枝、二人とも元ヤンキーみたい)が時々絡む。兄夫婦はバブル崩壊に翻弄される。

お米を研ぐカナオ。外は雷の夜、当たり散らす翔子を抱きかかえて、楽に生きること、受け入れることを諭すカナオ。翔子が好きだからどんなことがあってもずっと一緒にいる。この夜を境に病は癒えていく。涙と鼻水でグチョグチョになった翔子の鼻の頭をペロッと舐めるシーンは自然で美しい。グチョグチョの木村多江が可愛い。

今も戦い続ける柄本明、戦う前にめんどくさいが先に立つ寺田農。カナオだって急な虐待幼児のスケッチを指示された時はムカッとした。みんないろんなものを抱え込みながら生きている。スケッチさんたちの会話で、容疑者の親が自殺したという話題が出たとき、逃げてるだけじゃないですか、ときっぱり言い放つカナオ。つまらない拘りは捨て、ぐるりのそとにも左右されない。ひょうひょうとしながら、背負って生き続けるという芯だけはしっかりとある。こんなキャラ、リリー・フランキーのデッサン顔でしか演じられない。生き続けるという芯は「恋人たち」にも繋がっている。

1998年、タイミング良くお寺の天井画を依頼されて翔子の回復は完了する。日本画の画集を見ている翔子に雪がOLして音楽が入る。確か最初の音楽以降、ここまで音楽は無かったのでは。

Drのキックから入り、Pfがコードを弾く、Synの弦が重なり、AGのアルペジオ、メロは無い。天井画を書く翔子、オームらしき法廷を書くカナオ、大きなひまわりを書く翔子、100人殺せば良かったと嘯く新井浩文の法廷、かなり長い回復と時の経過のモンタージュを音楽でひと括りにする。これよく聞くとエンドに流れる主題歌のカラオケだ。それを編集で合わせたのか、法廷の台詞バックになるところではPfのみになったり、Drのキックが絵替わりのキッカケに合っていたり。これ音楽だけで聞いたら随分間の抜けたもの、しかし映像と一緒の時は何の違和感もない。映画音楽は音楽的完成度とは別のものなのだ。

橋口監督、おそらくきちんとした音楽がイヤなのだ。大オーケストラはないが、弦カル位でやる手はある。しかし確実にお上品な芸術臭が漂う。橋口が考える映画と違ったものになる。“明星”の作る音は、リズムがルーズで、スカスカで、わざと綺麗に整理されていない。綺麗に整理された音楽らしい音楽はこの映画の世界を壊してしまう。この映画が壊れない音楽、それが橋口にとっては“明星”なのだ。音楽的技量とは別の話、このへん本当に難しい。

重箱の隅、絵を書きながら眠り込んでしまう翔子、その姿を優しくスケッチするカナオ、で音楽はCO。この曲尻、どうにも不快な終わり方。次のフレーズの音が一音残っている。尻の一音は取るべし。もしくはもっと手前からFOしていくとか。橋口、FO嫌いなのかも。あるいはわざと中途半端な終わり方を狙ったのかも知れないが。私は気になった。

翔子は回復する。それでも律儀な性格はそう簡単には変わらない。またカレンダーに前よりは少ないが×印が復活した。ただ、受け入れる、つまり許す、許容するというキャパシティは確実に前より広くなった。それを優しく見守るカナオ。

1990年代の日本の夫婦の10年、こんな夫婦になりたかった。

さっきのカラオケにちゃんと男の2声Vocalの入った曲が流れる。今時のゆっくりめのラップノリの歌。

橋口のユーモアは良いなぁ。これ彼の日常を見る眼に起因している。思わぬところからユーモアを見つけ出す。「恋人たち」ではそれが減っているのが気にかかる。

監督 橋口亮輔  音楽 明星