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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.2.20 武満徹の命日

2016.2.20 武満徹の命日

 

命日コラムが続く。

2月20日は武満徹(1930~1996)の20回目の命日だった。もう20年も経つ。

先生と初めてお会いしたのは1977年である。会ったというより、見たという方が正しい。

「はなれ瞽女おりん」(1977. 監督.篠田正浩)の音楽録りの現場だった。「おりん」のサントラの話があったのだが、発売日が映画の公開に間に合わないということで流れてしまった。間に合わなくても作っておけば良かった。ちゃんとステレオで残しておけば良かった。

話は流れたがマネジャーの宇野さんが、音楽録り見に来れば、ということで喜び勇んで行った。本物の武満徹に会える!

アオイスタジオの2F、フイルムが掛けられる大き目のスタジオ。あの頃は、音楽を入れる箇所のフイルムを切り出して映写し、それに合わせて音楽を演奏し録音した。

調整室の中は狭く、映画のスタッフでぎゅうぎゅうだった。真ん中には本物の篠田正浩がいた。とてもお気楽な見学者が挨拶するような雰囲気ではなく、急いで奥の機材置き場に回り込んだ。ここからはスタジオの中も映写するスクリーンも調整室の様子も見える。

音楽録りの初めはいつも緊張感が漂う。1曲目の演奏が始まるまでには、マイクのチェックやら譜面の確認やらで小一時間は掛かる。スタジオのアシスタントが飛び回る。映画のスタッフはイライラする。武満先生はスタジオの中に入りっぱなしで演奏家に色々と指示を出しているようだ。

スタジオ内の音に聞きなれた声があった。“それではM5、テストいきます”指揮は佐藤勝だった。すでに佐藤先生とは面識があった。知っている人がいるとホッとする。

映写スタート、雪の中を列を作って歩く瞽女の大ロング、そこにハープと鳥笛  (後で知った) と幾つかのパーカッション、そこにObが入ってくる。瞽女の歩く背後に“宇宙”が立ち昇った。雪に煙る白の中に漆黒の宇宙、絶対孤独の宇宙である。衝撃だった。

時々このブログで“宇宙、宇宙”と騒いで、本来ならそれがどういう意味かを説明しなければならない。しかしそれを私は的確に説明できない、的確な言葉を持っていないのだ。いい加減、曖昧、超主観的で伝えるということを放棄している、その通り。その辺、ひとえに私の能力の無さ、垂れ流しブログゆえ、お許し頂きたい。

武満先生が凄い勢いでスタジオから調整室へ来た。“合わない、どうしても1秒合わない、検尺間違ってない?”それからは大騒ぎである。篠田監督は、検尺狂ってたら音楽録りなんて出来ない、中止だ中止! と助監督を怒鳴りつけた。慌てた製作担当が、早メシにします!

スタジオから出て来た佐藤先生と演奏家たちはこちらの騒ぎはお構いなく昼飯に行った。

監督や映画スタッフもその内にどこかへいなくなり、武満先生と宇野さんと何人かの音楽スタッフだけが残った。先生は興奮冷めやらぬ様子で、この次は台詞一個一個までキッカケ合わせてやる! とむきになっていた。

この頃私はサントラのレコードは作っても、映画音楽の現場は知らなかった。1秒合わない!の意味が解らなかった。演奏は揃っているから、1秒合わなくても良いではないかと思った。武満先生は細かくキッカケを合わせていたのだ。Obのメロはどの絵柄のタイミングで等。それが狂ったのだから確かに大騒ぎとなる。

検尺とは音楽を入れる箇所が最終的にフィックスした後、編集か助監督がその長さを正確に測る作業のことを言う。それを作曲家に連絡して、作曲家はそれにそくして書きに入る。VTRなんてない時代である。記憶の中の映像と送られてきたタイムだけが頼りなのである。

宇野さんが私を先生に紹介してくれた。髪をかき上げながらこちらをジロリと見た。それで終わった。名刺を渡したかどうかも覚えていない。

早々に退散した。私も興奮していた。ああいう音楽を初めて聴いた。これまでに想像もしたことなかった音楽だった。その音楽が映像と出会った時、映像の背後に宇宙が拡がったのだ。凄い、唯々凄い、と思った。

午後はスムーズに運び、予定時間内に録音は終了したと後で宇野さんから聞いた。

 

その後「燃える秋」(1979. 監督.小林正樹)でご一緒させて頂き、LPレコード「日本の映画音楽 武満徹の世界」も作らせて頂いた。「乱」(1985. 監督.黒澤明)でもお手伝いをした。

ある時、アバコスタジオで作業をされているとのことで伺った。

ネェ、あの映画観た? 音楽良かったよ。

先生、ちょっとそれ観てません。

じゃ、あれ観た?

それもちょっと…

じゃ、あれは?

それも…

3本続けて私は観てなかった。その後の長い沈黙。先生との関係はこれで終わりだと思った。あの頃、あんなに忙しい先生が、年間100本は観ていると言っていた。

幸い関係は続けて頂けた。それ以後、先生と会う時は慌てて映画を観て、せめて1本だけでも引っかかるようにした。

20年である。