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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.4.1 「ハッピーアワー」 テアトル新宿

邦画

2016.4.1「ハッピーアワー」テアトル新宿

 

昨年のキネ旬の邦画第三位、5時間17分という長さが話題となった映画。テアトル新宿で一週間だけの上映があった。3つに分けての上映、分け方は全くのぶった切り。2回の10分の休憩、高齢者は助かる。

役者は全員無名、ワークショップ参加者ということなので殆ど素人。始まって暫くはその素人さに戸惑った。それなりの芝居をしている者もいる。ほとんど台詞棒読みの者もいる。シチュエーションを与えて自由にやらせて、それを切り取るというドキュメンタリーの手法とも違う。台本あり、台詞もしっかりと書かれたもの、アドリブではない。第一部の中頃からそれが不思議に溶け出してきた。ある程度台詞らしく言う者と棒読みが混在して、それが一つのリアルを作り出す。通常の作り込まれた映画ともドキュメンタリーとも違う不思議な世界。そう感じられるまでには多少の忍耐がいる。

四人の30代後半の女。あかりはバツイチ看護士。桜子は中三の息子がいる専業主婦。芙美は多分役所の援助で運営する小さなイヴェント会社のプランナー、夫は書籍編集者。純は科学者の妻、目下離婚裁判中。みんなそれなりの情熱を持って結婚し仕事をし生活して来た。それが純の離婚裁判を知ったことが切っ掛けで、心の空洞を意識することになる。一昔前なら何の問題もなかったと言える四人。

“家”が確固とあった頃はもちろん、“家族”になってからも顕在化することが無かった空洞。経済力も無かった。“これでいいのかな?”とふと思うもこういうものだと諦めた。それが今は顕在化する。生活苦、夫の浮気、嫁姑、そんな決定的要因はない。しかし確実にある心の空洞。

四人はこれまでを振返り、夫婦であること、夫婦であったこと、そして自分自身、を検証する。三人は純の離婚裁判を傍聴する。冷静で理詰めで感情に欠けた学者の夫、しかし浮気をした訳ではない。浮気をしたのは純の方である。空洞は表わしようがない。言葉にならないものは裁判の材料にはならない。初めから勝ち目のない裁判、言葉尻を捉えての言い合い。

例えば、仕事漬けの夫、女たらしの夫、暴力を振るう夫…、映画である以上、多少のカリカチュアは必要だ。しかし出来るだけそれをしないようにしている。自然にありのままに、微妙なずれ、違い、淡いエピソードを積み重ねていく。無理に凝縮はしない。いきおい尺は長くなる。冗長で淡々として退屈にさえなる。間詰め出来る、この台詞要らない、このシーン要らない、通常の商業映画では話をいかに凝縮し伝えたいことを明確にするかと考える。この映画は真逆である。台詞を言う演者 (俳優というよりもこっちの方がふさわしい気がする) のどんな表情も間合いも逃さず、そっくり写し込む。凝縮すると捨てられるニュアンスをひとつも漏らさずすくおうとする。

「紙の月」の宮沢リエも空洞を抱えていた。夫を仕事漬けのエリート商社マンにして、若い男とのセックスを切っ掛けに銀行の金を使い込んでいく。空洞を納得させる為のお膳立てを施す。これが従来の作劇法だ。最後はガラス窓を突き破っての飛躍である。

 この映画はお膳立てを可能な限り避ける。言葉と表情で積み重ねていく。

四人で有馬温泉へ一泊の旅をする。その日を境に、純は失踪する。芙美の、夫と若い女性作家への猜疑心は膨らむ。桜子の息子は同級生の少女を妊娠させてしまい、先方へ謝りに行く時、夫は仕事を理由に同行せず、夫の母が着いてきてくれた。桜子と夫との溝は深くなる。あかりは自分の潔癖な仕事のやり方が回りとギクシャクしていることを感じる。

芙美がプロデュースした、夫と関係がありそうな女性作家の朗読会、ここで一同が会する。これは映画的クライマックスとして設定した明らかなお膳立てである。ここで一気に作為を現した。

実はこの映画の脚本、非常にしっかりとして計算されている。伏線もしっかりとはってある。ただ一つ一つのシーンは言葉の凝縮をせず、演者に自由に演じさせて、それをまた脚本に反映させていく、という方法を取ったのではないか。ワークショップとはそういうやり方なのでは (不確か)。橋口亮輔の「恋人たち」のやり方もそうなのでは… ワークショップというもの自体を私は良く解ってないので的外れかも知れないが。

この監督、ストーリーよりも何よりも演者が言葉を発する瞬間のリアルに一番の関心があるようだ。

この朗読会に純が現れるかとみんな集まった。しかし夫は来たが純は現れなかった。打ち上げの席で純の夫は、離婚裁判はやって良かった、あれは自分たち夫婦の検証作業だったという。自分は純を捜し続ける、その為に仕事も辞めた…

気まずい打ち上げの後、芙美の夫は若い女性作家を送っていく。芙美はそれを追わない。

終電の芙美と桜子、降りようとすると前のイヴェントで顔見知りだった若い男が偶然乗ってくる。芙美をホームに残して桜子は衝動的に男とそのまま電車で立ち去る。良いシーンである。

アーティストという胡散くさい若い男が出てくる。初めの方、芙美がプロデュースした「重心」というイヴェント企画。ものには重心があり、それを見つけると椅子も一本足で不安定な形のまま直立する。夫婦の間も友人の間もこの一瞬のバランスをもたらす重心を探り続けているのだ。この男、かなりいい加減、中身はカラッポらしい。純の失踪もこの男が関係しているというサスペンス風思わせぶり。女が吹っ切れる時の切っ掛けとなる若い男の象徴の様なものか。こいつだけは意図的にリアリティが無い。

あかりはこのアーティストとクラブで踊って酒を飲んだ後、一夜を過ごす。

芙美は夜明けの街を歩き続けた。

三人の女の三者三様の夜。純は失踪したまま。

翌朝、夫に問い詰められた時、桜子は言う。好きでもない男とセックスした、でもその男に感謝している。

多分、芙美も桜子も夫と別れない、表面的日常は変わらない。でも多分、新しい朝なのだ。何かが吹っ切れた、何かがスタートした…

「ハッピーアワー」というタイトについて考えた。心の空洞を意識しなかった今までの幸せな日々のことなのか。未だ出会えない心の空洞を埋めてくれる時間、ということか。ターニングポイントとなった一夜を指すのか。それとも、命の心配もなく心の空洞なんてデリケートなことを考えられる日本の今の我々の時間、ということか。もっと大仰に、生きていくって事はこんなことを繰り返すことで、そのこと自体が幸せなのだ、ということか。

音楽、弦カルとPf、初めの方にクラシック風の感情の無い音楽が少し、ヨーロッパ中世音楽の様な楽曲が一曲、VCソロ、あとはPfソロがほんの少し、ほとんど音楽は無いという印象。音楽が付くことによって作為的になることを避けたのだ。映画における音楽は (劇中既成音楽は別として) もっとも強い作為的演出なのだから。演出はしているのだが、出来る限りそれを感じさせない作り方をしているのだから当然である。少しの音楽はどれも俯瞰から見つめた音楽で合っているのだが、ヨーロッパ中世風音楽は色合いが強すぎて、何か所かに出てくるのならまだしも、一か所だけ出てくるのには唐突感があった。

音楽の録音は良くない。台詞も恐らく全部同録、所々聞き取りにくい所あり。でも撮影も含めた全体のトーンの中で音だけがクリアになると違和感が生じる。これで良いのかも知れない。

とても映画などにはならない微妙をあぶり出して映画として纏め上げる、しかも5時間飽きさせることなく。これって凄いことである。

純が旅立つのを桜子の中三の息子だけがそっと見送った。港、出て行く船。神戸でないと映画にならなかった、きっと。

 

監督 濱口竜介   音楽 阿部海太郎