映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.3.15 「家族はつらいよ」 丸の内ピカデリー

2016.3.15「家族はつらいよ」丸の内ピカデリー

 

「母と暮らせば」の前に出来ていた作品。「東京家族」のキャストをそのままに喜劇とした。「家族はつらいよ」のタイトルは「男はつらいよ」と少しでも連動させようとする営業サイドが付けたネーミングなのだろう。いっそ「喜劇・東京家族」として「東京家族」と対であることをはっきりさせた方が良かったのでは。

70歳を越えてすでにリタイアしている老夫婦(橋爪功吉行和子)、長男家族 (西村雅彦、夏川結衣、男の子供二人)、独身で同居する次男(妻夫木聡)、今時珍しい二世代+1の家族、横浜郊外の一戸建てに住み、そこに時々長女夫婦 (中島朋子、林家正蔵) が訪れる、今の日本では比較的恵まれた一家。何の問題もないはずだった。ところが、突然吉行おばあちゃんが離婚届けを橋爪おじいちゃんに突きつける。それをきっかけにあちこちから様々なほころびが噴出する。そのテンヤワンヤを面白おかしく見せる。

橋爪おじいちゃん、高度成長期にガムシャラに働いて家族を養ったという自負がある。それ故自分は正しいと疑わない。そのヒズミが吉行おばあちゃんに鬱積していた。

働き盛りの長男は典型的なサラリーマン、自分のことで目一杯。その妻は子育てと姑シュウトメへの気遣いで手一杯。

長女はやり手で、髪結いの亭主の夫に不満だらけ。その夫は負い目と自己弁護で良くしゃべる。

ニュートラルなのは生活力のないピアノ調律師の次男だけ。その恋人は看護師の蒼井優

ほぼ「東京家族」と同じ。夫婦の設定だけが違う。

かつて妻は夫を支え家族の一員としてその役割を担うということに疑いを持たず、それが自己実現だった。当然だが今は違う。自分の人生自分の生き方が同時にある。吉行おばあちゃんの世代、それを疑わなかったが歪みは溜っていた。カルチャースクールの創作教室に通う内に、自分の人生、それ程大袈裟でなくとも、自分らしい生活、位の自覚は芽生える。経済的裏付けがある者はなおさら。妻の離婚の理由には、浮気や借金といったかつての様な決定的理由がない。靴下を裏返しのままだとか、うがいの時の音とか、まさにどこの家にもある、私にもある、日常の些細なこと。実はそんな理由はどうでもよい。要は、妻が夫から離れて自分の人生を生きてみたいと思ったということなのだ。

大多数の男はそれに気付いていない。養い通したことで100%義務を果たしたと思っている。離婚届は青天の霹靂。しかしこれは妻を人間として認める契機となる。自分自身を振り返る切っ掛けとなる。お互いを人間として認めあう夫婦、としてリ・スタートするチャンスなのだ。

妻が自分の人生をもう一度やり直すまでの覚悟でそうしたのかどうかは解らない。しかし意味としては夫への異議申し立てであり、妻の独立宣言だ。それを夫は理解出来ない。そこを笑いの基礎とする。回りはそれを理解したりしなかったり、肩を持ったり持たなかったり、それぞれの打算も加えて笑いを作る。やがて少しずつ夫が変化していく。ぼんやりと解ってくる。妻が元に戻るのではない。夫が変わるのだ。果たして夫は本当に変わったか。

蒼井優が、家族が集まった席で自分の親が離婚していることを話す。ここにこの夫婦の向かうべき方向性が見えると期待した。しかし話の途中、本題に入る前に橋爪おじいちゃんは脳卒中だかで倒れてしまい、ドタバタに逃げた。言葉で語ってしまうことを避けたのかも知れない。蒼井・看護師の処置が早かったので助かった、という浅い纏め方をする。

蒼井優が、思っていることは言葉にしなければダメだと言う。夫は妻に初めて感謝の言葉を口にする。それを聞いた妻は離婚届を破り捨てる。これで解決? これでこの夫婦は変わった? 離婚届ってそんなに軽かったの?

喜劇としてはさすがに練達、会話もテンポ良い。正蔵がおかしい。絶妙なタイミングで父・三平のパロディをやる。しかし良い喜劇には笑いの背後にペーソスがある

例えば「男はつらいよ」、そこには寅が考える理想の家族像があり、それに憧れつつ、どうしようもなくはみ出てしまう男の滑稽さと哀歓がしっかりとあった。寅は高度成長の中での絶滅種として笑いながらも郷愁と哀歓を誘った。

橋爪おじいちゃんにその哀愁があるか。これまでの自分を否定されたのである。信じて疑わなかった自分の価値観が何有ろう妻に否定されたのである。呆然自失と孤独感、もしかしたら俺は間違っていたのか、それが伝わってこない。それがないとリ・スタートにならない。

 

これは「東京家族」でも感じたことだが、山田洋次の家族観、それは今の時代、どの位説得力を持つものだろうか。家族は生きていく上での最小単位、最後の砦である。家族は守らなければならない。しかし家族の中身が変わって来ている。少し前までそれは“血” が前提だった。しかし今それは必ずしもそうではなくなりつつある。結婚、離婚、再婚のバーが下がった分、家族の中身は変わらざるを得なくなっている。大沢樹生喜多嶋舞のスキャンダルがまさにそれを示している。現実の家族はそこまで来ているのだ。文学ではもっと早くから疑似家族は大きなテーマになっていた。今の日本の家族を語る時、問題は“血を越えた家族”なのだ。本当に“血は水よりも濃いのか?”「そして父になる」である。

東京家族」も「家族はつらいよ」もそこを全く疑っていない。どこか古臭くて旧態依然の印象があるのは、その辺に起因するのではないか。

 

そこまでラディカルにならなくても、この映画の纏め方ではこの夫婦、何にも変わらないのではないか。

この映画の結末、私ならこうする。

離婚の判子は押さない。そんなことどうでも良いから。でも別居して妻は一人暮らしを始める。別居はマスト、それでないと男は変わらないのだ。

夫が人の話を聞くようになっていく。受験の孫には“無理するな”

一年後。正蔵が、どうもお父さんとお母さんらしい人が毎日公園にいるらしい、と飛び込んでくる。妻と夫は毎日公園の陽だまりのベンチでデートしていた。二人でもう一度暮らしましょうかと妻から。そうするかと夫。有料老人ホーム (この二人金銭的余裕はあるようなので) のパンフレットを広げる。公園の隅に黒いソフトの小林稔侍探偵。それに気付いた夫、アッ! (ストップモーション)。 軽快な音楽、カットイン!

 

音楽、久石譲。ギャグに合わせた効果音の様な短い音楽。何箇所かにホンキートンクPfの様なカントリーとかデキシー風、そんな軽い音楽。しかしクラシック畑の人、しっかり書いて演奏もしっかりしていて、バレはなくでもノリがない。もっとラフで良かった。息苦しい軽快な音楽。久石さんにとってはつらい仕事だった、きっと。仕方ない。

 

監督.山田洋次  音楽.久石譲