読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.3.18 「エヴェレスト 神々の山嶺」 Tジョイ大泉

邦画

2016.3.18「エヴェレスト 神々の山嶺」Tジョイ大泉

 

作家に文体があるように作曲家にも自分のメロディというものがある。それは生理に近い。それを超えようと、偶然性の音楽、理論に即した作曲、数学に委ねた作曲等、様々な試みがなされている。個人の枠に閉じ込められる作曲という行為を何とか超えようと試行錯誤する。現代音楽はその試みの悪戦苦闘の記録かも知れない。それでもふと口から突いて出たメロディはその人の持つメロディ。どんな高名な作曲家にもその人のメロディというものがあるものだ。それこそが個性であり、作曲家の売りであり、俗に誰々節と言われる所以である。

映画の音楽は、作曲家が無前提に持つ自分のメロディが映画と合わないと、どんなに努力し苦労しても上手くいかない。これは作曲家の能力以前に、“合ってない”ということだ。力のある作曲家はそこを編曲や音色やらの技術で何とか折り合いを付ける。しかしそれは映画にとっても監督にとっても作曲家にとっても、苦しい。

加古隆の持つメロディはマイナーの、ウェットで日本的抒情をたたえたメロディだ。NHK映像の世紀」のテーマである。あれは正に加古メロディ、秀逸である。この映画でもそれが出てくる。もちろん同じ曲ではない。しかしメロディが多少違ってもマイナーとその基本は変わらず、印象としては紛れもなく加古節である。

映画が始まって間もなく、山での滑落のシーンがあり、そこに弦を刻んでリズムを強調したサスペンスを盛り上げる音楽が付いた。助けずシャッターを切り続けた深町 (岡田准一) が叱責される。何でここに音楽を付けたのか。話は始まったばかりなのだ。早々と煽る必要はない。この段階での強調は不自然な感じがした。しかしそれはまあ良い。そのあと、野心とやり場のないエネルギーを抱えてカトマンズの人混みの中を歩く深町、そこにマイナーの加古節が朗々と流れたのだ。この段階で深町の気持ちは、自分は何者かになりたいという野心はあるも、哀しくも無ければ重くも無い。この音楽がついて深町は一気に、暗く悩める若者になってしまった。そしてここではっきりしてしまったことは、加古節とこの映画は合わないということだ。 ここも音楽は無くて良いのに。

その後は、屏風岩を昇る、羽生を追う、等の盛り上げシーンには弦を刻んだサスペンス音楽、岸 (風間俊介) のエピソードには加古節のVCソロ、深町の羽生への思い入れシーンには加古節のObと、楽器とアレンジを変え、サスペンスと加古節、この2曲が全体を構成して、後半からクライマックスにかけては、この2曲が編成を大きくして盛大に鳴る。効果音と大喧嘩である。

たまにヒマラヤの実景の大ロングにFLとGの、上記2曲の系統以外の曲が流れるとホッとする。

情感漂う映画に加古節は合う。だが大自然と人間が対峙するという構図の映画には合わない。どんなに大編成で金管を高らかに鳴らしてもそういう構図にはならない。どうしようもない。合ってなかったとしか言いようがないのだ。

加古隆はピアニストとしては突出した才能の人である。華麗なテクニックを持つ。若き日は欧州で前衛ジャズと現代音楽の境界を奏でる人だった。作曲家の加古はマイナーメロの情感溢れる曲を書く人である。それがハマる時は素晴らしいのだが。

映画? 本物のヒマラヤの撮影は素晴らしかった。これぞ映画という大ロングがあった。阿部寛岡田准一も大熱演、岡田はますます良い顔になって来た。尾野真知子はノッてないなあと思った。ピエール瀧はこのままだと只の役者になってしまうと思った。

監督はこの題材には向いてないと思った。

監督 平山秀幸   音楽 加古隆