映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016. 5. 20 「レヴェナント」 Tジョイ大泉

2016.5.20「レヴェナント」Tジョイ大泉

 

アイルランド系とイタリア系の戦いだったり、ヒスパニックとの戦いだったり、黒人差別だったり、そっちにばっかり目が行っていたが、そもそも新大陸に上陸した白人は原住民であるインディアンを侵略し虐殺し毛皮を奪い金を騙し取り、居留地に閉じ込めた、アメリカという国の成り立ちの大根っ子にはこの問題がある。この映画は忘れていたそんな時代の話。インディアンを強姦しバカバカ殺していた頃の話である。

冒頭、イリュージョンとしてヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)とインディアンの妻とその間に出来た息子との幸せな姿が映し出される。今、グラスは成長した息子と共に毛皮集めの隊の案内人となっている。妻は殺された様だ。犯人を成敗したことは台詞の中に散見する。仲間内の伝説になっているよう。複雑な地形と部族対立の中をくぐり抜けるにはグラスが必要、仲間からも信頼されている。

その男が熊に襲われ瀕死となる。このシーンは凄い。どうやって撮影したのだろう。助からないと判断した隊長が、賞金を出して、一人その場に残りグラスの最期を見届け埋葬する役を募る。ジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)が金目当てで応じる。ジョンはまだ息がある内にグラスを埋め、気付いた息子を殺す。土の中から蘇った男が、ズタズタの肉体を引き摺りながら、大自然と戦い、息子を殺した男を追い何百キロという旅をして、遂に本懐を遂げる。

グラスは自分が自然の一部であることを解っている。民族を超えて種を超えて、大きな生態系の中で生かされていることを体得している。その摂理に従う。妻を守り子を守り、それを侵すものとは闘う。生物としての人間のプリミティヴな姿。現実には人間は人間だけが (自分たちだけが) 存続出来るような様々な掟を作り、その中で生きている。グラスの様な人間は居るとしたら犯罪者だ。現実には居ない。これは自然と共にある勇者の伝説なのだ。壮大な自然の中に生きる勇者を描くには、見たことも無い様な本物の大自然がいる。人間の手垢に染まらない大自然。よくぞこんな場所を捜してきたものである。それをよくぞ見事に映像に切り取った。自然光のみで、ローアングルから見上げる木々や空、激流、吹雪、雨、太陽、月、大ロングで沈む夕日を撮る。その中に居る米粒のような人間を撮る。映像は息を飲む。

ディカプリオは熊と闘い、雪の中を転げまわり、真冬の激流に流され、馬の腹の中で寒さをしのぎ、崖を馬とともに落下し、自然と一体化した演技をする。それを手持ちの長回しでリアルに切り取る。

 

冒頭から大太鼓 (和太鼓 ?) がゆっくりと大きなリズムを刻む。大自然の鼓動のようである。人間の戦いが始まると、太鼓を長い竹のバチで叩いたようなパンパンパンという音がアクションにシンクロする。後ろにはSynのパッド。晴天の日、眼下に広がる川のシーンで初めて大編成の弦が朗々と奏でられる。口ずさめる様なメロディ感はない。生の弦の大きな響きの塊である。

音楽クレジットには、坂本龍一、アルバ・ノト、ブライス・デスナーとある。アルバ・ノトはSyn打ち込み、デスナーはオーケストレーションを担ったようである。書いて録音した曲がそのまま打ち合わせ通りに使われたことは殆ど無かったそうである。坂本がインタビューで答えていた。ダビングで色々といじられた。しかしここまで緻密に効果と一体化した映画の音響を作るには致し方ないのかも知れない。作曲家としては不本意な使われ方をされた箇所もあるかも知れない。でも船頭は一人で良い。そうでないとこういう音付けは出来ない。ミックスした録音技師は素晴らしい。そしてプロツールス (音楽用コンピューター)がなかったら出来なかった。音楽の音量レベルは高い。珍しいことである。大体音楽は小さいのだ。かなり大胆に大きい。

かつて私は、ラッシュに耳をかたむけよ、映像が欲している音楽が聴こえてくる、と教えられた。映像が欲してないところには音楽は付けない。押し付けになる。しかしこの映画も、先日観た「ボーダーライン」も音付けの考え方がどうも違う。さりとて昨今のハリウッド及び邦画の傾向である、“素“が怖くてどこにでも音楽を付けて埋めてしまうという安易とも違う。もう一度観てみたいと思っている内に上映が終了してしまった。DVDになったらしっかり検証してみようと思う。

監督.アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ 音楽.坂本龍一、アルバ・ノト、ブライス・デスナー