映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016. 6. 13 「教授のおかしな妄想殺人 」 シネリーブル池袋

2016.6.13「教授のおかしな妄想殺人 」シネリーブル池袋

 

ウッディ・アレンは今や思いついた企画は何でも実現出来る人の様だ。近年の多作ぶりは目を見張る。話はどれも殆どワンアイデア。締めは、“人間この不可解でいい加減な、愛すべき生き物”、それを如何に映画にするか。その語り口の妙が全てだ。落語である。

今作でもお決まりの、人生に絶望し、死に憑りつかれた哲学教授が、ちょっとリゾートっぽいニューポート (昔、ニューポート・ジャズ・フェスティバルがあったところか) の大学に赴任して来るところから始まる。東西の哲学に精通し、社会運動もやり、教え子にも平気で手を出すという伝説の教授エイプ (ホアキン・フェニックス) 、今はそれら全てに絶望しインポにもなっている。早速目を付けた教え子のジル (エマ・ストーン) からは迫られるも一線を越えるパワーがこちらにない。それがたまたまファミレスで聴いた隣の席の会話、酷い悪徳判事の話に正義感爆発、そんな奴は葬らねばならない、完全犯罪で。人生に目的が出来た。途端に力が漲り、男爆発。セックスも成功、殺人も成功。しかし警察は気付かないがジルは気付いた。共に価値観を共有すると思っていたジルはエイプの唐突な正義感の飛躍を受け入れなかった。結果、知ってしまったジルを殺そうとするのだ。

エレベーターに細工をし、突き落とすはずが、伏線の張ってある転がる携帯懐中電灯に躓き転んで、自らエレベーターの奈落へ落っこちて死ぬ。

オチはあまりに意外だった。これウッディ・アレン? しかも突き落とそうとするエイプと抵抗するジルはエレベーターのドアの前で格闘をするのだ。愛の格闘ならいざ知らず、殺す殺されるの格闘はウディの映画で初めて見た。こういうところをサラリとかわすのがウッディのはずだった。

リアリズムを求めている訳ではない。元々ウッディ・アレンの映画はちょっとした哲学的与太噺、三味線ならぬブルース (時にはジャズ) を合いの手に面白おかしく語るところに妙味がある。真正面はダサい。いつもちょっと斜め、その斜め具合がほど良い。

ベッドで目覚めたら全てエイプの妄想、ジルの“やっぱり無理、さようなら”の書置き、で終わらせたって良かった。死因は青酸カリ (エイプが使った) ではなく、ヒ素 (ジルが最初に思い浮かべた薬物) だったでも良い。それじゃ犯人は誰? まさかジル? で煙に巻いても良いのだ。揉み合いの格闘はない。脚本を詰める根気が無くなったか。歳を取るとそうなるのは自然。しっかりと企画を詰めないまま、まっイイか、で撮ってしまった様な気がしてならない。脚本に第三者を加えてもよいと思うのだが、今のウッディは受け入れないのだろうなぁ。

カント、キルケゴールサルトル、ヴォ―ボワール、ドストエフスキーハイデッガー、こんな名前が会話の中にインテリアとして散りばめられる。スノッブ心を刺激する。

音楽は全て既成曲。Pfの軽いブルースのインスト。入りがお決まりで明解なので、ここぞというところでそのフレーズが入ると、“よッ、待ってました!” と思う。合いの手だ。しかしあまりに何回も同じパターンの付け方にちょっとやり過ぎとも感じる。劇伴的使い方はこのブルースのアップテンポのやつとスローの2曲、ほぼこれだけでまかなっている。良く聴くと音源はライブ盤だ。観客のリアクションが入っている。なんでわざわざこんな音源を使ったのか。凄い名演なのかも知れない。その辺はローリングのクレジットを読み切れなかったので解らない。それよりこの映画、ブルースの“語り物”なのだ。“irrationalな男の物語”なのだ。だとしたら最後は海辺を歩くジルの回想なんかではなく、ブルースを演奏するライブステージとか、ホアキン・フェニックスに“お疲れ様!”とか言うバックステージを見せてしまうとか、色々と方法はあったのでは何て勝手に思う。

楽しめはするのだが、期待したので、ちょっと残念。

 

監督.ウッディ・アレン