映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.7.11 「ふきげんな過去」 テアトル新宿

2016.7.11「ふきげんな過去」テアトル新宿

 

小泉今日子は魔女である。彼女の中には現実と非現実が混在する。リアルを演じても背後にシュールが起ち現れる。そう演じているからそうなるのではない。彼女の意図を超えてそうなる。こんな女優、他にいない。だからそんな脚本を書いた時、みんな小泉に頼る。彼女の肉体を通さないと映画が成立しないのだ。この映画もそんな一本。

 

ファーストカットが二階堂ふみの仏頂面、かなり長い。が可愛い。

大井あたりの古い埋め立て地の訳あり一家。その家の高校生・果子 (二階堂ふみ)、年齢からくる青春の欲求不満と苛立ち、日本と言う国の今の閉塞状況への苛立ち、湾岸地域の開発から取り残され時代からも取り残された感漂う人々の苛立ち、どれか解らないが果子はいつも不機嫌でイライラしている。そんな果子のひと夏の経験。

祖母と娘3人、長女未来子 (小泉今日子)、次女サトエ、三女。未来子は昔、爆弾事件を起こし失踪、戸籍から消えた。未来子はタイチ (板尾創路) との間に娘果子を儲け、失踪後タイチはサトエと結婚し娘はサトエの子として育てられた。三女には父親不明の娘カナ(山田望叶)がいる。

今日も女5人、祖母、娘2人、孫娘2人が豆の皮むきをしながら世間話に興じる。少し離れた所に男一人、新聞を読むタイチ。

そこに未来子 が颯爽と帰って来た。みんな驚く。あんた死んだんじゃなかったの? それでも警察に届けるでもなく、そのままダラダラと受け入れる。未来子は果子の部屋に住むことになり、未来子と果子のヘンテコな夏休みが始まる。

予告編で、小泉が二階堂に、”あんたの本当の母親、あたしなの”というと、ふきげんそうに ”あっ、やっぱり” というリアクション。これだけで見たいと思った。

複雑な家庭環境、さぞかし大変なドラマがと思いきや、その辺のベタツキは全く無い。小泉が現実の5センチ上で存在するのでベタツキようが無いのだ。

ある夜、未来子、果子、カナの3人が、墓場の下にあるという硝石探しに出かける。小舟で少し沖に出る。東京湾の夜景が別世界に見える。日常が非日常に変わる。「アマルコルド」の沖を通る客船の様だ。どこだかに舟を付け、歩いて、辿り着いた墓場で土を掘り、空が白み始めた頃、硝石の塊を掘り起こす。これで爆弾が作れる。

この旅、3人が魔女であることを確認する旅だった。魔女三代。この映画で唯一、リアルから自由になったシークエンス。

音楽は岡田徹ムーンライダースのキーボード。劇伴音楽は確かここ一箇所だけだ。舟を漕ぎ出すあたりから入るリズムのあるロックっぽい音楽だった (不確か)。決して合ってなかった訳ではない。ただ、ここは音楽が主役を演じて欲しかった。一番オイシイところ、サラってほしかった。ここだけ弦を入れるでも良い。歯が浮く位綺麗にしたって良い。懐かしいシンプルなメロでも良い。あるいは未来子の永遠の1曲、そんな既成曲でも良かった。Vocalでもインストでも良い。監督の、俺にだけ解る1曲、だって良かった。音楽がへそを作ってほしかった。

未来子は僕ら団塊の世代以降の、”欲求不満の青春のミューズ” である。

大井あたりの三人姉妹の長女で近所では評判のイイ女で、タイチとの間に子供を作り、爆弾作りを学んで、ヤクザの事務所を爆破したとか、子供を誘拐したとか、最後は突然消えてシナイ半島に行ったとか。

ほっときゃ団塊の世代が勝手に深読みして理屈こねるよ、という監督の見え見えの仕掛けに敢えてハマる。

そこには様々な時代の青春と社会状況が反映されている。京浜安保共闘とか、丸の内爆破事件とか、北朝鮮とか、よど号とか、岡本公三とか重信房子とか、義展ちゃん事件とか、色んな言葉が浮かんでは消える。連想は人それぞれだ。

小泉はリアルな世界を演じながら、背後に違和感なくそれらを立ち昇らせる。こんな芸当、小泉以外には出来ない。

10年後に二階堂はそうなっているだろうか。

そしてカナ役の山田望叶 (やまだもちか) には呆然としてしまった。この子一体何者? 豆を剥きながらおばさんたち相手にシュールなボケとツッコミを絶妙な間でかまして、他の役者を全部食ってしまっている。「私の男」(2014.7.17拙ブログ) の冒頭、二階堂の子供時代を演じた子。あの時も驚いた。身内が全て死んでしまったというだけではない。宇宙にただ一人取り残された、という絶対孤独を漂わせていた。あの冒頭があの映画で一番凄かった。その子がカナなのだ。

魔女は継承される。未来子から果子、そしてカナへ。

 

さてこの映画、面白かったか? 残念ながら面白かったとは言えない。観終わって色々考えた。考えさせられたから悪い映画ではない。リアルで見た時、その荒唐無稽さに躓く。リアルではない視点で見るべきと解ったのは映画を観終わって暫くしてからだ。見ている間は違和感が先にたった。

未来子の設定、これどう考えても舞台のものだ。舞台ならリアルとシュールが混在する設定は可能だ。舞台の役は必ず何がしかの象徴性を持つ。映画の役は、即物的に、見えるリアル世界の住人でなければならない。ここをしっかりさせないと映画は成立しない。その上で違和感なくリアルではない視点へ移行する仕掛けが必要なのだ。それをこの映画は小泉という役者の存在に全ておんぶしている。映画の脚本に成り切れてないものを全て小泉に頼っている。これはちょっと酷な話だ。

小泉と二階堂、リアルを演じながら足は5センチだけ地上から浮いている (二階堂は浮き切ってないが) 。そんな役やれるのはこの二人を置いて思いつかない。絶対に地上から足が離れないのは、大竹しのぶ宮崎あおい。真逆として「オカンの嫁入り」(2010 監督.呉美保) の二人を思い浮かべた。

 

音楽は”夜の硝石探し”とエンドロールの2カ所のみ。エンドの歌、作詞・歌.佐藤奈々子 作曲.岡田徹、あんまりピンと来なかった。というよりほとんど記憶にない。本当は”夜の硝石探し”とエンドは同じもので行くべきだ。

映画の最後は運河で本当にワニが見つかり引き上げられるロング、オフで爆発音、果子が初めて笑う。仏頂面で始まり笑い顔で終わる。

私ならその後、黒味になって声だけオフで一言、言わずもがなだろうと説明過剰だろうと、

“おかあさん、ヤッた!”

僕は果子ではなく、未来子がやったと思っている。

 

監督・脚本.前田司郎   音楽.岡田徹  

主題歌.「夜の花」作詞・歌.佐藤奈々子 作曲.岡田徹