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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.8.2 「ラサへの歩き方 祈りの2400km」 イメージフォーラム

洋画

2016.8.2「ラサへの歩き方 祈りの2400km」イメージフォーラム

 

途中までドキュメンタリーと思って見ていた。それにしてはカメラはしっかり固定されている。手持ちの画は少ない。たまに切り返しがある。だがそこに映る人々が芝居をしているとは思えない。演出があるとも思えない。

チベットの小さな村の11人が、尺取り虫のような格好で少しずつ少しずつ進む五体投地で、聖地ラサと神の山カイラスを巡礼する2400キロの一年がかりの旅に出る。幌付きの荷車に最小限の衣類や寝袋、小さな薪ストーブ、テントを積んで、それを耕運機が引っ張る。ノロノロ進むその後ろを五体投地の人間が続く。歩くよりはるかに遅い。

広大なチベット高原、そこをうねるように走る舗装された道。そのアスファルトの上を人間尺取虫がほんの僅かずつ進む。千里の道も一歩から、万里の道もいち五体投地から。カメラはそれを大大ロングで捉える。人間があまりに小さくて画面の中から直ぐには見つけられない。対面する山の高所から撮ったカット。凄いカットだ。

夜になるとテントを張りストーブを焚いてその回りで祈りの経を唱え、うさぎや羊の寝袋にくるまって寝る。夜の山影、その脇薄雲の中に浮かぶ月、その霊験さ。手前にはチョロチョロと煙を出す小さな小さなテント。人間の卑小さと自然の巨大さに気が遠くなる。

途中で妊婦が産気ずく。その時は近くの街の病院に耕運機で運んだ。文明もちゃんと生活の中に織り込んでいる。産むと直ぐに赤ん坊と共に戻り、授乳しながら五体投地を続ける。

ある朝、リーダーの古老が死ぬ。みんなそれを静かに受け入れ、鳥葬に付す。

これらは五体投地の旅に同行したドキュメント取材班が本当に出くわした出来事ではないのか。どうしてもそう思える。確かにあんなに都合良くカメラが良いポジションにあるとは考えられない。やっぱり演出なのか。その境目は最後まで解らなかった。それ位リアルで自然だった。ローリングでDirect、Write by と記されていたのでやっぱり脚本があったのだと思った。それでも遭遇した出来事を整理した脚本だってある。どこまでが本当に起きた出来事なのか。どれが演出で作ったシーンなのか。

 

高校生の頃「大地の歌」(監督/サタジット・ライ、音楽/ラビ・シャンカール) を観た時も確か同じようなことを感じた。それまで普通の映画しか見ていなかった僕には衝撃だった。こういう映画があるんだ。その時の僕の関心事はラビ・シャンカールの方だった。思えば「大地の歌」は音楽も入っていたし、この映画よりはるかに演出された映画だった。

 

音楽なんか一つも無い。風音や、板がアスファルトを擦る音や、耕運機の音や、荷車の音や、ストーブの音や、寝息や、マ二車等、それらが音楽代わり。よく音を拾っている。

幾多の障害に遭遇しても慌てず騒がず淡々と五体投地を成就する道を探し出す。その内一緒に旅しているような錯覚にさえ陥る。

この映画をおおう、ゆったりとした優しさのようなもの、めげない明るさ、大らかさ、は何なんだろう。

チベットの圧倒的な自然。その前では人間は無力、運命を受け入れるしかない。助け合って生きて行くしかない。人間の力なんて屁の様なもの。そこから生まれる共生の精神。

五体投地とは ”他者の為に祈る” こと、とチラシにあった。チベットの人々にはそれが沁みついている。そうでなければこの地では生きていけないという、生きる知恵なのだ。

なによりも全編を通して “所有” が希薄だ。”所有” に伴う ”自己主張” が希薄だ。 

車にぶつけられて耕運機が大破しても、先を急いでいると事情を説明されると車を見送る、賠償なんて無い。文句も言わず荷車をみんなで押して峠越えをする。

五体投地のやり方を口うるさく言う長に出くわすも、その夜はその長が家に泊めてくれた。五体投地用の皮の前掛けをくれたりもする。人に出くわせば必ずお茶の声掛けをする。

脇を漢民族 (多分?) のトラックがピュンと通り過ぎる。

 

10年近く前、TVのNHKスペシャル青蔵鉄道開通のドキュメントをやった。ついに北京からラサまで鉄道が通ったという番組だった。世界一高いところを通る鉄道、その鉄道の脇の道路を五体投地の巡礼がグニョログニョロと這っていた。近代と原始が並立する映像だった。その時初めて五体投地ということを知った。

それは、近代と原始ではなく”人間は万能である”という歴史を突き進む民族と、”人間は無力である”ということを知る民族との並列だった。”無力” を知る民族が考え出した、世にも奇妙な祈りのかたち。気の遠くなる程ゆっくりと優しく、過酷で忍耐のいるこの祈りのかたち。チベットの人々はそれを楽しそうに行う。

漢民族は温帯の中原で人間同士の壮絶な戦いの歴史を経ている。温帯に圧倒的な自然はない。せいぜいが黄河揚子江か。どちらも人間に恵みをもたらす。人間中心の価値観になる。西洋は人間の自然に対する勝利の歴史である。日本も今や西洋とさして変わらない。

かつては自然への畏敬と畏怖は世界中に有ったのかもしれない。それがどんどん失われて行き、ついにはチベットの人々に辛うじて残っているということなのか。

それも少しずつ侵食されている。脇をトラックは通る。一番小さな娘は携帯電話で村の兄弟と話す。これにはちょっと驚いた。若者はラサの床屋の娘が気に入ったよう。帰りに寄ると言っていた。違う価値観で生きるようになるかもしれない。政治的にもチベット漢民族化は進む。だがこの映画を観る限り、チベットにはまだ我々とは違う価値観で生きている人々が居る。

“所有”や ”利益”や” 自己実現”や ”成功”や、『私』に拘り続ける僕ら。僕らは今更これから逃れることは出来ない。それとは違う価値観。せめてこの映画を観て、一時、こびり付く『私』から解放されるのも良いかも知れない。ほんの一時だが…

こんな監督、居たんだ!

 

監督/脚本 チャン・ヤン