映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.5.24 「64 (ロクヨン) 前篇」、8.05 「64 (ロクヨン) 後篇」

2016.5.24「64 (ロクヨン) 前篇」新宿ピカデリー

     8.05「64 (ロクヨン) 後篇」Tジョイ大泉

 

かつて、原作・松本清張、脚本・橋本忍、監督・野村芳太郎、このトリオの作品は、多少の良し悪しはあれ、大きく外れることは無かった。「張り込み」(1958)「ゼロの焦点」(1961)「影の車」(1970)「砂の器」(1974)、どれも娯楽映画として一級であり、なおかつ社会に対する鋭い意識を内包していた。単純に“おもしろかった”。

たった一週間しかなかった昭和64年、そこで起こった少女殺人事件、通称「64 (ロクヨン)」、犯人をそこへ引き戻す、という予告編を見て久々に同じ匂いを感じた。原作・横山秀夫。脚本・久松真一瀬々敬久

「64」は今の邦画の中では、数少ない大人の鑑賞に堪え得る水準に達した作品であることは間違いない。

主人公三上 (佐藤浩市) 、かつて「64」の捜査に関わり、今は県警の広報官。平成14年、「64」はまもなく時効をむかえようとしている。

前篇では事件そのものは描かれない。未だに事件を引き摺っている者たち、殺された少女の父・雨宮 (永瀬正敏) 、県警上層部 (奥田英二、三浦友和、中村トオル等) 、そして三上とその家族、それらを描いて事件そのものを浮かび上がらせていく。

話を牽引したのは、まるでゴロツキの集まりといった風の記者クラブと、それへの対応に苦慮する三上との緊張関係。記者って“報道の自由”を盾に被害者の身の危険も風評被害も考慮せず実名報道を叫ぶ。何て勝手な奴らだ。そう思えば思う程、上層部と捜査課とマスコミとの間で板挟みになる報道官として、全てを背負い込む三上の苦悩のヒーロー度は上る。しかも家では一人娘がそんな父親に反抗して家出している。

警察とマスコミ、広報と記者クラブ、捜査する刑事課とマスコミ対応の広報課、県警と本庁、現場と首脳陣、これら警察内部の様々な対立の構図が背景にある。

事件の核心が描かれないまま終わる前篇は肩透かしで消化不良、でも思わせぶりとしては上手くいったのかもしれない。

後篇で一気にこの思わせぶりが輪郭を現す。土砂降りの雨の中、公衆電話BOXで電話帳を上から軒並み掛け続ける男、「64」とそっくりな事件、それに誘き出されて唐突に登場する犯人・目崎 (緒方直人) 、パズルは飛び飛びに埋められていく。

「64」の捜査で警察は犯人の電話の声を録音し損なうというミスを犯していた。この失態がどの位捜査に影響を及ぼしたか分からないが、少女は死体で発見され、事件は迷宮入りとなった。犯人の声を聴いているのは雨宮だけ。それが後篇冒頭の土砂降りの電話BOXへつながる。

雨宮と、科学捜査の担当で事件後に責任を感じて退職した幸田 (吉岡秀隆) が、「64」そっくりの誘拐を仕掛ける。犯人は今は普通の生活をし、中学生 (?) の娘がいる。じっと時効を待っている。

県警上層部には代々「64」に関する申し送りがあった。犯人の声を録音し損なったこと、市内までは分かったものの発信場所を特定出来なかったこと、このミスが遠因で少女を死に至らしめたこと、犯人を取り逃がしたこと、これらが世間にバレない様にするという申し送り。時効へ逃げ込めばウヤムヤになる。

仕掛けた誘拐は狂言であったことが発覚する。娘は知人宅へ出かけていただけで、雨宮と幸田はそれを上手く利用しただけ。誘き出された犯人は逆に狂言誘拐の被害者である。上層部からの指示で「64」には触れぬまま帰宅となる。「64」を知らない若手には何の不思議もない。しかしかつて捜査に関わった者にとっては明らかに「64」犯人のあぶり出しと解った。三上が広報官の立場を超えて最後の罠を仕掛け、かつて死体を発見した廃車置き場に目崎を誘き出し、逮捕に至る。目崎の娘は父親が逮捕されるところを目の当りにする。記者 (瑛太) がそれをスクープする。

 

雨宮、三上、幸田、県警上層部、目崎、それぞれの昭和64年と今 (平成14年) がランダムに交差し、昭和64年は色調を落とす等の画面の工夫はしているものの、なかなか追い切れない。電話BOXさえ何なのか解らなかった。ここまで整理出来たのはこのブログを書く為に随分考えたから。記憶の断片を繋ぎ合わせて、あゝ成る程そうだったのか、と納得するには随分と時間が掛かった。僕の理解力が低いということもあるが。普通ここまではやらないだろうなぁ。娯楽映画の場合、概ね理解と納得は劇場の中で完了しなければならない。

 

話の胆は、権力は不都合を隠蔽する、ということと、父親と娘、なのだ。この二つをしっかりと話の骨格とする。それさえしっかりしていれば組み立て方はいくらでもある。記者クラブは単なるゴロツキ集団ではなくなり、権力を持つ警察組織を監視するという役割がはっきりする。

雨宮と殺された娘、三上と家出した娘、娘にとっては良き父であった目崎と娘、父と娘の3つの形がここにある。みんな良い父であり掛替えのない娘だった。だからこそ何故誘拐し殺したのか、殺すことになってしまったのか、明解に描いてほしかった。賭け事にハマってサラ金にも相当借金があったらしいと、取って付けたような台詞だけはある。

ここは一番の感動のシーンが作れたのではないか。

 

橋本忍だったらどんな脚本にしたか。橋本の脚本はどれも骨太でちょっとやそっとでは壊れない。どんな演出にも役者にも耐え得る。何が胆か、それを捉まえたら、後はそれに従ってエピソードを整理していけば良い。

この映画、脚本の骨格が弱い。骨粗鬆症だ。だからエピソードを配置すると混乱を起こす。何が胆かを明確にし切れていない。ディテールに辻褄が合わなくても、骨格がしっかりしていれば納得してしまうものだ。

黒澤を支え、野村芳太郎を支え、生み出した名作を上げたら切りがない、今更ながら橋本忍の凄さを思う。

 

それにしても良くも人気者を集めたものである。人気者である必要もない様な役にまで。その為それぞれに見せ場を作らなきゃならなくなる。最後の方はそんな見せ場作りの連続。昔のオールスター映画を思い出して懐かしくもあったが、それで余計なシーンを作らなければならないとすると本末転倒である。やっぱり綾野刑事は札幌で暴れている方がカッコイイ。

 

音楽、村松崇継。とにかく少なかったことが良い。特に後篇は殆ど無かった。音楽による過剰な説明は百害あって一利なし。この映画にベタベタ付けていたら、解らないものが余計解らなくなった。本当に必要なところに斬新さは無いが真っ当な音楽を付けている。最後に一箇所、音楽がはっきりと奏でるシーンがあれば。そしてそんなメロ、例えば”父親と娘”といった曲、但し決してマイナーのお涙にならない、遠くから見つめるような曲があれば、などと…

それをローリングの小田和正に持っていかれたということか。小田の主題歌はアカペラのカットインも良かったし映画の余韻を壊さず纏めている。宣伝的にもインパクトのある曲で、主題歌としては成功したのではないか。

そこを劇伴でやってほしかった。

 

監督.瀬々敬久  音楽.村松崇継   主題歌.小田和正 (作詞・作曲・歌)