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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.7.25 「シン・ゴジラ」 TOHOシネマズ新宿

邦画

2016.7.25「シン・ゴジラ」TOHOシネマズ新宿

 

シン・ゴジラ」を巡って賛否両論が喧しい。僕はそのどれを見ても頷いてしまう。その通りだ! その通りだ! どれも一面での真実を言い当てている。こんな見方があったんだ、こんな誤解をされるんだ、賛も否も誤解も勘違いも含めて、それらの総体が「シン・ゴジラ」なのである。ここでこの映画について今更とやかく言っても始まらない。久々に洗い落としたはずだったビジネス的な見方をしてみる。

この映画、どう見たって子供向きではない。女性向きでもない。ましてやデートムービーでもない。とってもポリティカルな映画、好きなのはオジサンだ。今の映画興行状況の中でオジサンはもっとも映画を観に来ない。結果としてそこを対象にした内容となってしまった。中規模、アート系ならいざ知らず、夏の超大作としてこれは苦しい。

しかしこれは初めから解っていたこと、脚本を読めば解る。その前に脚本・総監督として庵野秀明を迎えた時点で解っていた。諸々覚悟で庵野を起用したのだ。

庵野秀明、謂わずと知れた「エヴァンゲリオン」の作者、絶大な支持者を持つカリスマである。僕は「エヴァ」を全く知らないからそのカリスマ性は解らない。しかし庵野というだけで観る観客は相当いるとのこと。このメリットでデメリットを埋められるのか。

 

“シン”というタイトルには驚いた。色んな案が出た末に決めきれずにこうなったのかと思った。従来のこのシリーズからすると考えられないタイトルである。新であり神であり真でり、原罪としてのシンなのだろう。原罪というより、日本が背負う “業" と言った方が適切かも知れない。このタイトルからもターゲットを子供にしていないことが解る。

そして宣伝コピーである。「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」、ゴジラ映画の本質を真正面から直球で表現した、これは文芸評論本のタイトルか。ここまでの徹底さに恐れ入ってしまった。

 

人間は物語を必要とする存在である。不可解なもの、得体の知れないもの、どうしようもないもの、に形を与え擬人化する。形のないものが形を得ると話が動き出す。これが物語だ。そうして物語に納得する。不可解なものと折り合いを付ける。「ゴジラ」(1954) はまさにそういう映画だった。核への恐怖と人間の理性の慢心への警鐘としてゴジラは生まれた。ゴジラはそびえ立つ。意志も感情も持たず、ただ破壊する。人間の理解を超えている。

ゴジラを生物として捉えてしまったのがエメリッヒ・ゴジラだ。物語は貧相になってしまった。エメリッヒ・ゴジラの日本でのプレミア上映の帰り、車の中で “不思議がなくなりましたね” とポツリと呟いた伊福部先生の言葉を思い出す。

哀しいかな、ゴジラはその造形の魅力ゆえキャラクターとして独り歩きを始め、背後の虚構性は忘れ去られて行った。

何回かのゴジラ復活の際、原点に還る、は必ずと言ってよい合言葉だった。しかしこの稀有なキャラクターはその魅力がかえって虚構性の原点に立ち還るという作業を妨げることとなった。キャラクターを如何に面白く見せるかという呪縛を超えることは出来なかった。

大方のビジネスは前例を踏襲する。リスクを伴う大きな方針転換はしない。少しずつジリ貧になって行き、終わりを迎える。ゴジラシリーズはこの繰り返しだった。しかしそれに耐え得るキャラクターであるということは物凄いことではある。 

今回、僕はこの原点回帰の徹底さに驚愕する。「 現実 対 虚構 」? そんな文言出したら商売にならない。東宝の社員監督がそんなこと言ったら、何青臭いこと言ってるんだ! と一蹴されたことだろう。それを今回やってしまったのだ。

このコピーを誰が考えたのかは知らない。何よりよく会社がこれを受け入れた。庵野起用の時点で東宝は覚悟を決めていたのだ、多分。庵野コンセプトで全面的に一貫させる。勿論戦いは到る所であったと思う。営業サイドがあのコピーをすんなりと受け入れるはずがない。これは芸術映画か!

結果は、映画の中身も、宣伝も、庵野コンセプトで一貫した。むろん庵野という実績とカリスマを備えた者だからこそ出来たことである。それより東宝という会社がそれを受け入れたことが凄いことなのだ。プロデューサーなのか製作の偉い人か、旗振り役はいるはずだ。その誰かが社内の守旧派 (多分初めは大半が守旧派だったのではないか) を押えて、説得して、庵野一貫路線を実現させた。これが凄いのだ。

試写会のパンフの監督コメントなんて、抱負でも何でもない。エヴァを終わった後云々、ノイローゼっぽくなって云々、東宝から依頼が来て云々、ただの繰り言である。こんな繰り言をパンフに載せるまでに庵野で一貫した。これは本当に凄い。主役は庵野だ。

裏を返すと、今日本でゴジラ映画を作るとしたらどうすれば良いか。「スターウォーズ」の様に子供から大人までをターゲットに大エンタメ大作として作る。これには膨大な製作費が掛かってハリウッド版には適わない。だとしたら… 

今、日本にとってゴジラとは何か。ゴジラという虚構を使って具象化すべきものとは何か。形にならない不安、どうしようもないもの、不可解なもの、それを突き詰めてゴジラという虚構を作る。それを今の日本のリアルな現実と対峙させる。それ以外にないと結論付けた。虚構が背負うものは、核であり、原発であり、何よりそれらを包括した3.11の想定外の大自然、あれは波の形をしたゴジラだった。そして背後に人間理性の慢心。まさに原点回帰である。

これしかない、こっちしかない。そして庵野となった。東宝ゴジラに関してそれだけ切羽詰まっていたのだ。これは大きな掛けだったと思う。大博打だったと思う。そんな博打を打つだけの、経営的余裕があったとも言えるが。

7月25日プレミア試写、観終わって、よくぞこんなゴジラ映画を作ったものだと感心した。随所にこれまでのゴジラ映画の名シーンへのオマージュをオタクらしく散りばめつつ、本筋は今そこにある危機に対処する政治映画である。そこの部分は徹底して現実的 (リアルなニッポン)だ。一気に観られた。そしてお客はどれくらい来るか心配になった。庵野ファンという人たちがいることを僕は知らない。普通に考えた時、これは男対象の、しかもオヤジだ。一番映画館に来ない層だ。その数日後、新聞の全面広告で「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」が大きく出た。この広告、明らかに女子供を拒否している。あわよくばそんな層にもアピールを、なんてスケベった下心は微塵もない。庵野イズムの徹底である。その志や良し。ただお客はどの位来るのだろう。その疑念は拭えなかった。

大ヒット、本当に良かった。僕は面白かった。でも未だに興行収入何十億というヒットというのが信じられない。オタクがリピートしたってこんな数字にはならない。女子供も来ているのか。

 

音楽はこれまでの伊福部特撮音楽を、フリークの庵野、樋口両氏が思い入れを込めて選曲し当てている。思い入れに属する領域に他人が口を挟む余地はない。鷺巣詩郎のオリジナル (誰かがエヴァの音楽とか言っていたが) は印象に残らなかった。EGの安っぽい響きの曲があったのが気になった。僕に伊福部音楽しか聴こえないのは仕方のないことである。

 

脚本・編集・総監督.庵野秀明  監督・特技監督樋口真嗣  准監督・特技総括.尾上克郎     

音楽.鷺巣詩郎  挿入曲.伊福部昭特撮映画音楽