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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.21 「怒り」 日劇マリオン

2016.9.21「怒り」日劇マリオン

 

東宝マークの途中からSynのパッドが静かにスネークインして空撮の夜の住宅街を覆う。Pfのリヴァーブを深くかけた高音域の打音がゆっくりとオフで入る。その一角、”怒り”が、ふとした切っ掛けで爆発する。凄惨な殺人、妻と夫の無残な死体、血文字で“怒り”、かなりドギツイ導入である。

突然、歌舞伎町の騒音がC.Iして右往左往する洋平 (渡辺謙) の後姿。風俗店への手持ちカメラでの突入、そこに居た、3ヵ月前に家出した娘・愛子(宮﨑あおい)。愛子はちょっと人とは違う。何でも受け入れてしまう優しい娘、その娘が目の前でヨレヨレになっている。

娘を連れ帰る車中。イヤフォンで聴いていた音楽を父親にも聴かせる。イヤフォンレベルでF.Iしたかと思うと一気にフルボリュームとなり、それに合わせて画面は踊り狂うゲイたち。プールサイドのゲイパーティー。男同士のキス。浸りきっているエリートサラリーマン・藤田( 妻夫木聡)。喧噪がC.Oしてケアハウスの静寂。寝たきりの母を見舞う藤田。母がどこかへ行った時の話をする。また行けばいいじゃないか。

それを受けて波音とボートのエンジン音、東京から越してきたばかりの泉 (広瀬すず) と地元の少年・辰哉 (佐々本宝) を乗せたボートが画面下から画面上の無人島に向かって沖縄の海を真一文字に走る俯瞰。

事件の発端と3つの舞台が簡潔に乱暴に提示される。3カ所に脈絡はない。編集は強引、それを躓くことなく音が運ぶ。Pfの音楽、歌舞伎町の喧噪、イヤフォンから入り爆音となるゲイパーティーの音楽、ケアハウスの静寂、海とボートの音…、有無を言わさぬ音のメリハリ。

 

藤田が男 (綾野剛) とハッテン場で出会う。やがて一緒に住むようになる。男の素性は解らない。が、優しい男だ。ケアハウスの母親にも引き合わせる。母も心を許し、最期の看取りも男がした。一緒の墓に入る話もする。一緒は無理でも隣なら。安っぽいヒューマンドラマにならない様、会話が一ひねりも二ひねりもしてある。このダイアローグ、中々。

愛子は父の下で働く無口な流れ者の男・田代クン(松山ケンイチ) を好きになる。この男も素性は解らない。田代は愛子の前だと心が楽になると言う。

泉と辰哉が向かった無人島にはバックパッカーらしき男 (森山未來) が居た。田中と名乗った。ジェット機の爆音と共に現れたこの男、やはり素性は解らない。

時々事件を追う刑事 (ピエール瀧三浦貴大) の様子が入る。すでに事件から一年が経過、モンタージュ写真を公開する。それを取り上げるTVのワイドショー、犯人は整形をしているかも知れません。モンタージュ写真が映し出される。3人は似ているかも、いや違う、疑念が少し湧く。

 

素性が解らないということ、様々な事情で社会的認知の外に置かれた者に法律の庇護は無い。じっと耐えて生きる。発することの出来ない”怒り”は充満する。引火のきっかけは何でもよい。沸点の低い奴が爆発する。誰が犯人であってもおかしくない。

 

映画は東京、千葉、沖縄の話を短いセンテンスでランダムにつないで行く。普通はエピソードごとにある程度の長さに纏めてつなぐものだ。どの話も、信じるということと、犯人かも知れない、という間の緊張で成り立つ。だから愛子のエピソードに泉がカットインしても、田代の話に大西 (綾野剛) が突然インサートされても、気持ちは共通しているので違和感がない。さらに同じエピソードの中で時間軸を前後させたりもしている。それらを台詞のずり上げずり下げ、音楽をまたいで付ける、効果音等で、躓くことなく運んでいく。台詞が前のめりでリードし、効果音が流れを遮断し、音楽が感情を継続させる。あるいはずり上がった効果音に導かれる様に台詞が入り、音楽がインサートをまたいで継続する。先に作ったサウンドトラックを物差しに画をはめている様だ。もちろん実際には画が先にある。でも音が編集替えを要求するなんてこともあったかもしれない。音によって3つのエピソードは境目が無くなり一つの塊となる。信じることと疑うことのゴチャマゼの巨大な塊。

 

誰が犯人でもおかしくない。映画はそのミステリーで引っ張っていく。

愛子は人とは違うと同時に無垢の意志を持つ。信じ疑った極限で発する透明なオーラ。宮崎あおいが観音様に見えた。

藤田も大西を疑った。大西を兄の様に慕っていた薫 (高畑充希) が話す喫茶店のシーン。大西は藤田という存在が出来たことを嬉しそうに語っていたと話す。たったワンシーンだが高畑充希が印象深い。ここの音処理、喫茶店のノイズが段々無くなり台詞だけとなる。台詞と台詞の間の無音がこんなにも圧迫感のあるものとは。息詰まる。藤田が外に出るとスーッと蝉の声やらノイズが戻る。

人をどこまで信じられるか。藤田も愛子もそれを全うし切れなかった。大西も田代もそれを解っていた。でも一時社会の中に自分の場所を得た夢を見た。

沖縄の話は重い。決して今の沖縄の置かれた状況を訴えることが目的ではない。”怒り”の為に沖縄の状況を借りているだけだ。がしかし、”どうしようもない怒り”の度合が高過ぎる。それに遭遇してしまったのが田中だ。この男の屈折は尋常ではない。それだけ怒りが溜っており、引火もし易いということだ。田中を信じていた辰哉に ”怒り” が飛び火する。

 

音楽はほとんどPfのソロで、ゆっくりとしたコードにシンプルなメロがのる。3拍子だったり4拍子だったり。その後ろにSynのパッドが這う、時に高音の歪んだような音で。サスペンスと疑念。

前半は選曲で充てたと思われる。少なくともPfの曲はきっとそう。台詞のずり上がりずり下がりと複雑な編集の中で上手い充て方をしている。ゲイパーティーやコンビニのBGM等の既成曲も演出の音楽としてしっかりと役割を果たしている。

ケアハウスの廊下から入るPfの練習曲、アレ? と思ったら次のシーン、公園に面した家の窓にPfを練習している女の子がいた。母親が見て見ないふりをしてカーテンを閉め、Pfは止まる。あとのシーンの音楽をずり上げて付けていたのだ。この辺も上手い音の演出だ。

後半、疑念が膨らんでいくあたりからは弦が加わる。こちらはかなり細かい充て書の様。曲は練習曲の様にシンプルだ。アルペジオの曲をエンドロールで2Cellosが演奏している。

総じて音楽は優しい。言い換えればメロがあるということだ。音楽が果たしている役割は大きい。

三浦貴大が ”指紋鑑定が出ました” と言うシーン。観ているこちら側には犯人とも違うとも解らない。叫びを上げる愛子の画。そこにSynの弦で音階の様に単純な音楽がこれ以上無いボリュームで入る。この音楽にちょっと引っ掛った。これを確認したくて二度観をした(9.24 Tジョイ大泉)。これで良い! と思った。

(関係者より聞いた。Syn弦ではなく、生弦の12型とのこと。我が耳いい加減です)

 

この映画の素性の知れない3人の様に、誰に当ってよいか解らない、そんな思いを抱えた人間が沢山居る。社会に居場所を持たない者は勿論、居場所を持つ者でもやり場のない思いを抱えている。形に出来ない思い、例えば「辺野古基地反対」というスローガンにすると零れ落ちてしまう様な思い。

うんと引きで見た時、その原因は概ね格差社会という言葉に集約されるかも知れない。しかし寄りで見りゃ一つ一つはみんな違う。原作の吉田修一と李相日監督は「悪人」に引き続きこの形に出来ないものに形を与えるべく挑んだ。よりリアルな現実を表現として形にするには具体的なケースを並べるしかない。一つだけを掘り下げるのは「悪人」でやった。二つで塊とは言いにくい。3つ並べて初めて”怒り”という塊になる。個別であると同時に大きな”怒り”の塊を作り上げた。

 

ラスト、警察の取調室で犯人を知っているという男が腑に落ちるような説明をする。これは必要だったか。多分エンタメにするにはこの位解り易く腑に落ちるようにしなければならないのだ。その為、犯人が分かってからエンドまでがちょっと長い。出来ることならこの男を出さずに納得させて欲しかった。ここを簡潔にして大ラスの泉の叫びになれば。

重箱のスミだが、大ラスの泉の叫びの画、叫びのピークでCOではなく、叫び終わって一呼吸あってからCOとなっている。この辺は好みの問題だが…

 

良い映画は役者がそれ以外考えられない位みんな適役に思える。この映画は正にそうだ。みんな素晴らしい。ひとりひとりの素晴らしさを言い出したら切りがない。主要人物はもちろん、ちょっとだけの池脇千鶴も圧倒的存在感だ。スター揃いの中で一人違和感を放ちつつアクセントを付ける辰哉の佐々本宝もそうだ。儚げなゲイの綾野剛、僕が今年観ただけでも「リップヴァンウィンクル~」があり「64」があり「日本で一番悪い奴ら」がある。何という役者か!

 

監督. 李相日   音楽.坂本龍一  

 

(初めてネタバレに注意した)