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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.10.3 「ある天文学者の恋文」 日比谷シャンテ

2016.10.3「ある天文学者の恋文」日比谷シャンテ

 

光の速さをしても届くのに何百年何千年と掛かる彼方の星は、空を見上げてその光を確認した時、すでに消滅しているのかも知れない。かつて放った光だけが残る。

初老の天文学者で大学教授のエド (ジェレミー・アイアンズ) とその教え子エイミー (オルガ・キュリレンコ) の恋、エドには妻子があるから今風に言えば不倫、老いらくの不倫、あまり美しいイメージではない。それを知恵と技術と役者の力を駆使して美しくするのが映画だ。

二人はそう頻繁には会えない。合えない時はメールでやり取りする。絶えず携帯の着信音が鳴る。時々贈り物も届く。そのエドの講義が休講となり、そこで数日前死亡したことが告げられる。エイミーには頻繁にメールが届く、死亡が告げられた今も。信じられないエイミーはエドの住むエジンバラへ向かう。エジンバラの古い街並みが美しい。

まるでエイミーがエジンバラへ来ることが解っていた様にメールが入る。DVDが送られてくる。DVDの中でエドはそこに居るかのように語りかけてくる。誰々に会えという指示もする。エドの家の前で張り込みをするエイミー。一緒に夏を過ごした湖のコテージではあたかも今さっきまでエドが居たかのように暖炉の火が燃えていた。

死を前にしてエドは手の込んだ虚構を作り上げた。自分が死んだ後もあたかも生きているかのように思わせること。何年も前に消滅した星の光を今見ている様に、生前に星の光をプログラムしておくこと。大学の講義でエドの死が告げられると、その何分後かにメールが送信される。エイミーは信じられず、エジンバラへ向かうか別の行動を取るか。考えられ得る可能性を想定してメールやらDVDやら様々な物を用意する。それらを実行するには協力者がいる。エドとは幼馴染の弁護士が壮大な指示書に従い指令を出す。コテージの女将は、もしエイミーが来たら、見つからないように暖炉の火を灯し続けるよう指示されていた。

DVDは編集されている。編集前のテープがあるはずだ。ようやく見つけたテープには無理に笑顔を作ってカメラに話しかけるも上手くいかず、苦しそうに苛立つエドの後ろ姿があった。彼は死が確実なものになった時、残りの全てをかけて、この虚構作りに没頭したのだ。それはエドからエイミーへの恋文であり遺書だった。

死者からの手紙という素朴なタイムラグは昔から映画ではよく使われた。今は携帯がある。メールがある。ほとんど瞬時に世界は繋がる。設計図は複雑かつ緻密を極めたに違いない。協力者で意図が解っているのはおそらく弁護士だけ、あとは配送業者の様に指示に従って機械的に対応するだけだ。脚本・エド、監督・幼馴染の弁護士というところか。それが見事に展開する。エイミーにとっては、まるでエドがどこかで生きているかのように。

エイミーが抱えていた母との間のトラウマもエドの指示で良い方向に向かった。学士論文もエドの指示で上手くいった。そのあたりからメールにズレが生じ始める。済んでしまったことへの意見が来たりする。エイミーは思わず泣きながら笑ってしまう。もう虚構は限界の様だ。もしかしたらすでに君の隣には若い男性が立っているかも知れない、私を忘れて新たな一歩を踏み出すように(不確か)、そんな意味のメールが届く。

 

エドは本当に死んだのか。メールや贈り物を届けているのは誰なのか。途中までは恋愛ミステリーで引っ張った。ミステリーとして突っ込み処は沢山ある。しかしそれはどうでも良い。いつの間にかこの二人の老いらく不倫は深く儚く掛け替えのないものとして輝き出すのだ。謎解きはエドの死を受け入れる過程である。受け入れた時、宇宙の時間と空間の中で、エドとエイミーという存在として出会えた奇跡に感謝の気持ちで一杯になる。この世に生まれ、たかだか7~80年で宇宙の塵と化す、人間って何だろう。そんな人間が人と出会い、愛するという時空を超えた精神の高まりを知る、愛って何なんだろう。そんな思いが匂い立ってくる。老いらく不倫などと言う人間社会のゲスな話を宇宙が匂い立つまでの映画に作り上げた、それは脚本であり演出であり役者の存在感 (ジェレミ―・アイアンズが演じるからそうなる)、そして欧州の街並み、それらが総合した時、背後に宇宙が起ち現れた。惚れた張れた、フラれた病気で死んだ、人間社会にドップリの恋愛映画が氾濫する中で、宇宙が匂い立つ恋愛映画なんてめったにない。

音楽はトルナトーレと盟友のモリコーネ。弦を中心のオケで優しく包み込む。結構沢山付けている。この映画がファンタジーではないがリアルでもないことを示している。印象に残るメロは無い。それがちょっと物足りなく感じたのだが、そうではなかった。モリコーネのメロは人間の喜怒哀楽の中に物語を的確に纏めてしまう。メロディー押しのモリコーネがそれをしなかったのはきっとそれを避けるためだ。世界観は作るがメロは印象に残らないようにする。感情移入をさせないようにする、きっとそうだ。

「鑑定士と顔の見えない依頼人」といいこの作品と言い、トルナトーレは知的作為に満ちた工芸品の様な作品を作った。作為の謎解きが目的ではない。背後に匂い立つもの、それを描くのが本当の目的だ。

 

監督 ジョゼッペ・トルナトーレ  音楽 エンニオ・モリコーネ