映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.10.13 「お父さんと伊藤さん」 渋谷シネパレス

2016.10.13「お父さんと伊藤さん」渋谷シネパレス

 

お父さん (藤竜也) 74歳、伊藤さん (リリー・フランキー) 54歳、彩 (上野樹里) 34歳、ちょうど20ずつ違う、誰の身に重ねるかで観方が変わる。

お父さんは定年まで教師を務めあげ、何年か前に妻に先立たれ、長男一家のところに同居している。自分の生き方、生活スタイルをしっかり持っていて変えず、人にもそれを押し付ける、いわゆる頑固ジジイ。

伊藤さんと彩はコンビニのバイトで知り合い、いつの間にか同居するようになった。伊藤さんは怒られている時も薄笑いを浮かべている様な顔をしている。今は臨時で小学校の給食のおじさん。バイト生活は長い。一度結婚して別れた。子供はいないよう。それ以上は描かれない。あとはリリー・フランキーの顔を見て想像するしかない。このデッサン顔が色んなドラマを想起させる。アパートの狭い庭で野菜を育てている。

彩は、一度は正社員として勤めたものの、今はバイト生活。

長男 (長谷川朝晴) は正社員として普通の会社に普通に勤め、きっと普通程度の上昇志向があるのだろう。その妻は息子の中学受験で頭が一杯。お父さんへの拒絶反応で吐いたりする。長男は追い詰められて、お受験期間だけでもお父さんを預かってくれと彩に頼みに来る。そんなこと関係なく、問答無用でお父さんは転がり込んで来た。

お父さんは社会の中でしっかりと何がしかであった。そのプライドは強固で、だからめんどくさい。

彩と伊藤さんは、世間と戦うことを止め、何がしかであることを放棄した。バイト生活で最低限の生活を維持し、小さく自己満足の生活を送る。伊藤さんは柔和で優しい仙人の様な人だ。リリー、竹林の七賢に見えてくる。中国の屏風絵に居そうだ。

お父さんは始め20歳も違う同居人が居ることに平然としつつ内心驚く。結婚する訳でもない。お父さんの価値観の許容範囲外だ。彩は生活の細部に渡るお父さんの斯くあるべきに辟易としてぶつかってばかり。昔からそうだった。争わない伊藤さんは何でも受け入れるのでいつの間にかお父さんは伊藤さんに心を開いていく。二人で植物の世話をする。

 

失踪したお父さんを長野の生家で発見する。叱責する長男と彩に対し、”僕はここで暮らす、伊藤さん一緒に住まないか” とお父さん。伊藤さん、この時は驚く程はっきりと物を言った。”何で家族でもない僕が一緒に住まなければならないんですか、それは家族の問題だ、家族で解決すべきだ” (不確か)。

伊藤さんは、3人でしっかりと向き合わなければダメだ、そう言い残して消える。久々の親子三人、向き合うと言っても、言い争いをした後昔話になって川の字になって寝る、それだけだ。

親子って何なんだろう。たまたまそんな関係だった為に余計な苦労をさせられる。そんなもんなければ何と気楽なことか。一方、ここまで子供を育てたんだ。少しくらい大切にしてくれたって良いではないか。親も子も自分の都合で考える。観る方も年齢の近い方に肩入れする。

伊藤さんは関係ない人として、また年齢的にもちょうど真ん中、何する訳でもないが触媒を果たす。親子としてたまたま出会い長い時間を共有した、宇宙で一番関わりを持つ他者、そんな見方を出来るのは真ん中に居る伊藤さんだけだ。きっと伊藤さんもこんな経験を経ているに違いない。

落雷で生家が燃え、お父さんの価値観の象徴である柿の木も燃え落ちた。万引きしたスプーンも散乱して失せた。スプーンの万引きはお父さんが作ろうとした社会との接点なのではないか。振り向いてほしかったのではないか。

スプーンと柿の木が無くなり、お父さんは拘りを捨てた。踏ん切りを付けた。

この踏ん切りはちょっと哀しい。拘りがその人を作っているという面がある。そんな拘り、ちょっと引いて見ればつまらぬことなのだ。彩も長男も、ああそうですかと軽く肯き受け入れてあげれば済む話だ。一方、お父さんも持ち続けた拘りが大したものではないことを早く自覚すべきなのだ。解っていても捨てられない…

親子は腹を割って話せない。いつまでだっても親のプライドがある。これが邪魔する。言葉に出来ないから暗黙の裡に了解せざるを得ない。それは長い時間を共有した親子だから出来る。伊藤さんはそれを解っていた。

郊外のもっと広い家に引っ越して三人で住もうかと伊藤さんと彩が話した矢先、お父さんは有料老人ホームに入る決意をする。

歩いていくお父さんの足取りはしっかりしている。それを追う彩。老人ホームに入ることになるのか、三人で住むようになるのか、どっちか解らない。

 

家族のかたちが変わり始めて久しい。離婚も多いし、シングルマザーやシングルファーザーも増えている。必ずしも結婚というかたちを取らない夫婦だっている。そこに正規非正規の経済的要素も加わる。「家族はつらいよ」みたいな従来型の家族なんて今や少ない。疑似家族の時代なのだ。

長男の家は従来型、彩と伊藤さんは新しい形と言える。どちらが幸せか、これは当事者にしか解らない。彩と伊藤さんだって、時間が経ち子供でも出来れば考えが変わるかもしれない。長男夫婦も、時が経ち子供が成長した頃、離婚なんてことだってある。斯くあるべきという枷 (かせ) が無くなり、家族は多様化した。子供と収入(正規・非正規)と愛情と年齢で、家族は様々に変わる。

 

音楽、世武裕子、ほとんどPfソロである。バックに少しSynが入っていたかも。でも聴こえるのはPfソロだ。とっても洗練された曲。この映画で音楽が果たす役割はドラマに則して感情の増幅とかいうものではない。全体の雰囲気を作ることだ。それはとっても上手くいっている。日本的湿気は極力排除されている。音楽が一役買っている。

3人の役者の演技も同様だ。上野樹里は自然体でほとんど地のままという感じがする。

リリーは飄々としていて、演じる度合は絶妙だ。台詞は優しく、でも明瞭で、或る種の意志を感じる。藤竜也だけが少しカリカチュアして演じている。良いアンサンブルだ。

 

監督 タナダユキ  音楽 世武裕子