2016.10.23 「何者」 Tジョイ大泉
2016.10.23「何者」Tジョイ大泉
内輪のチチクリアイ、これが一番の侮辱だった。学生の頃の表現活動なんてそんなもんだ。そのエネルギーの源は僕らの頃はただ“モテたい”だった。
芝居やバンドや小説や、身内でチチクリアっていた学生がモラトリアムを終えて社会へ出る、そこに就活という関門がある。
冒頭、荘厳でスペクタクルな音楽が入って、何が始まるのかと思った。画も暗いトーン、居並ぶ学生のロングショット、儀式っぽい。いや就活は今や儀式なのかもしれない。
僕らの頃はそんな大袈裟な関門では無かった様な気がする。会社なんていつでも辞めてやる、辞めて旅立つ、そんな時代だった。
学生でなくなった途端、チチクリアイの表現は世間にさらされる。世間とは、評論家なのか、プロのスカウトなのか、会社なのか、その帰結としてのお金なのか。そこに飛び込めないから就活する。世間の中の会社に属そうとする。組織の誰々という名刺で何者かになる。
何者?と問われて会社の名前を言う。ほとんどの人はそうだし、その会社名のある名刺は何者?に対する返答であり、世間はそれを信用する。だから学生のくせに名刺を作って真似っこをしたりする。わざと手書きの文字を使ったりして少しでも自分は他とは違うとアピールしたくって。名刺ごっこは何者かになった錯覚を起こす。
表現には認知が必要だ。表現しただけではチチクリアイの内。でもまず表現しないと始まらない。頭の中にある内はすべて傑作。誰だって未だ書かれない傑作小説や詩を一つは持っている。僕だって恥ずかしながら持っている。それはほとんどの場合、永久に書かれない。
認知されなくたっていいじゃないか。好きなんだし、やりたいんだから。確かにそうなのだが、認知されないということは、何者でもないということ、何者でもない状態でいるには相当の覚悟がいる。この覚悟が出来ずに、何者かになる為に就活をする。
芝居に没頭して学生時代を過ごした冷静分析型の拓人(佐藤健)。拓人とルームシェアする単純一直線のロッカー・光太郎(菅田将暉)。光太郎の彼女で拓人が密かに思いを寄せる素直な性格の瑞月(有村架純)。会社に入ったからと言って今は一生が保証される時代ではない、組織に頼らず個で生きなきゃダメだ、と初めの内は就活を拒否する隆良(岡田将生)、隆良と数週間前に同棲を始めた理香(二階堂ふみ)、五人の就活、それを拓人の目線で追っていく。
拓人が共に学生劇団を立ち上げた相方が、学生を辞めてプロになった。自分の劇団を立ち上げた。プロになったからと言って世間が認めたということではない。避けていたものの意を決して公演を見に行ったら、学生の頃よりつまらなかった。それでも毎月公演を打ち続けている。拓人はそれを冷ややかにツイートする
瑞月は親が離婚し母の面倒をみなければならなくなる。彼女だけが自分の思いだけで就活を決められない。自分のことだけで思い悩めるのがどんなに幸せなことか。渦中の者はそれが解らない。どんなに辛くたってそれは黄金時代なのだ。社会から強制されないことだって幸せなことなのだ。
拓人はそんなみんなの就活の様子をスマホでツイートし続ける。それを理香に気付かれて罵倒される。就活も上手くいかない。芝居への踏ん切りも付けられない。そんな半端な自分を正当化、というより自己保身の為にツイートしている。”自分のツイートを読み返して自己満足?、自分は彼らとは違う何者かである様な気になっているんでしょう!”(不確か)
冒頭の大仰な導入、荘厳な音楽。PCの変換を使ったクレジットタイトルの出し方、いかにもPCスマホ世代の映画。それに続いてROCKがカットインして、光太郎のラストライブ。このメリハリは良い。菅田のVocal、様になっている。シャウト系、バラード系、どちらも良い曲。音もちゃんとライブの音がしている。
音楽は総じて上手くいっている。Syn打ち込み系にPf、かなりベタ付けだが、野別幕無しのシーンベッタリということではなく的確。ズリ上がりズリ下がりの付け方も効果的。私が学んだ付け方ではない今風の付け方。フレーズも曲尻も合っているので充て書きか。それとも相当緻密な選曲編集をしたか。中田ヤスタカ、良いセンス。Pfのウェット系のメロがちょっとベタな感じがしたが、この位でも良いか。
監督、三浦大輔。演劇系らしい。多分自分自身の経験をいろいろと反映させているのだろう。所々に演劇的な表現もある。演劇やっていた連中、こんな経験をしている奴、ゴロゴロいた。みんな時が経つに連れ、普通に収まった。一応世間的には何者かになった気になっている。
スマホのツイートは困ったもの。瞬間芸の会話は消えるが、瞬間芸のツイートは後に残る。表現といえるまでの熟成を待てない未熟な文字表現が氾濫する。一億総ペラッペラ表現者。もう止められない。サルに大変な道具を与えてしまった。
応募する方も採用する方も、就活が馬鹿げていることは解っている。しかしそれに代わる方法が無い。拓人が1分間自己PRで、1分間で語ることは出来ないと席を立つ。この終わり方は清々しい。しかし映画の ”終った感” は無い。明解な ”終った感” を作るのは無理だ。「甘くほろ苦い学生時代」を描く映画にするなら簡単だが、この映画、自分とは何者か、世間で何者たり得るか、を問うている。問はまだまだ続く。こんな映画に成り難い題材を良く映画にしたものだ。
エンドロールの主題歌も違和感なく聴けた。
人間社会の中で”何者か”でありたい、という思い、それってとっても良く解る。でもある年齢を超えると、人間社会の中での”何者”なんてどうでもよくなる。でもそれはある年齢を超えて初めて解ること。人間社会の中で”何者”たり得ること、その為の戦い、葛藤、それはそれなりに若くて正しい。