映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.10.29 「君の名は。」 Tジョイ大泉

2016.10.29「君の名は。」Tジョイ大泉

 

運命の糸で結ばれた純愛というものがある。どんな困難も乗り越えて二人は結ばれることを決定付けられている。この映画は、そんな愛がある、ということが前提だ。

ある日突然、自分の肉体が見知らぬ異性と入れ替わっている。同じ高校生。かつて大林宣彦の「転校生」(1982) という名作があった。でも「転校生」はお互いが見知っている身近な者同士の入れ替わり。この映画は違う。東京に住む立花瀧 (声・神木隆之介) と岐阜の糸守という小さな村に住む宮水三葉 (上白石萌音)、全くの見ず知らず。理由付けは一切ない。突然そうなった。運命だ。

朝起きると胸が膨らんでいる。鏡を見ると映ったのは思春期の少女、中身は瀧。朝起きると股間に挟まる物がある、男の体、中身は三葉。肉体が入れ替わるというより、心が入れ替わったと言う方が的確だ。描写は可愛くエロティック、萌え系というのだろうか。

一晩寝ると朝には入れ替わった記憶は消えている。だからそれを夢だと思っていた。しかし妹の四葉から ”お姉ちゃん、今日はまともだね、昨日はおかしかったよ”と言われたりする。周りの様子から段々と夢でないことが解ってくる。入れ替わりは不定期。二人はバレない様にお互いの生活情報や起こったこと仕出かしたことを携帯に記録して相手に伝える。記憶は消えるが文字は残る。こうして二人は相手を知っていく。特別な関係になっていく。恋愛のプロセスだ。お互いの容姿は知らない。携帯に自撮り写真を残しておけばなんてツッコミは無粋。辻褄の合わないことは必ずあるもの。それを乗り越えてこそファンタジーだ。

 

祖母の宮水一葉 (市原悦子) は三葉の中に時々別人が居ることに気付く。”お前は三葉ではないね” でも少しも驚かない。“私も二葉 (亡くなった母親) もそんな時期があった”

この家は宮水神社の御神体を守る神官の家系。父親はそんな家系を嫌って家を出て、今は村長になっている。神官が寄りによって政治の世界とは、祖母は文句を言いながら一人で御神体を守り、三葉四葉姉妹を育てた。

二人に組紐を教える。何本もの糸で編み上げつつ、寄れて前後して。組紐は時間だ、時間を現すのだ、と一葉。日々の直線的不可逆的時間とは違う、寄れて前後する組紐的時間… この例え、ちょっと強引な気もするが…

祭りで奉納の舞を踊る三葉と四葉。口噛み酒を造って供物とする。米を口に含み唾液と共に吐き出してそれはやがて酒となる、最古の酒の形。

どうやら宮水家の女はこの世とあの世を行き来するイタコらしい。女系? 父親は娘婿?

こんな神憑りの家系であると同時に東京に憧れる思春期の高校生、それが三葉。

 

瀧は父親と二人で生活しているよう。父親民俗学の学者 (だったか? )、 それ以上の描写はない。バイトに精出して、お姉様風美人の奥寺先輩 (長澤まさみ) に憧れている。奥寺先輩、一途な時期を卒業した余裕で瀧に接する、イイ女だ。瀧に神憑った様子は見られない。

 

映画の冒頭は宇宙から地球に近づく彗星、時々接近を知らせるTVのニュースがインサートされる。映画の後半は二人と、この彗星が交差する話となる。

瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は衝動的に東京へ向かう、四葉にだけ告げて。

生活情報はあるが顔は知らない。”瀧君…、瀧君…” 捜し疲れた満員電車の中で二人は偶然向き合う。三葉の方が、もしかしてと声を掛ける。突然のこと、怪訝な顔をする瀧。乗り降りの人に押し出されて車内とホームへ引き離された瞬間、ハッと気が付く。三葉の髪からほどけた組紐が瀧の手に渡る。

それっきりだった。二人が会ったのはそれっきりだった。その日以降入れ替わりは起きなくなる。携帯も繋がらなくなった。

何年かが過ぎるも瀧は気持ちを引き摺っていた。思い切って奥寺先輩と友人と共に糸守へ向かう。この一連、奥寺先輩と友人と瀧の微妙な関係も描いて青春映画であることを忘れていない。そこで分かったことは、数年前、彗星の破片の落下で、糸守の宮水神社の一帯が消滅したという事実だった。役場の犠牲者の記録には三葉の名前もあった。それは東京で一瞬二人が会ってから間もない日。その日、瀧は降り注ぐ彗星のあまりの美しさにただ見とれていた。

彗星の破片が落下、一帯は消滅、犠牲者?百人、という新聞記事がインサートする。

瀧はひとり、消滅した村に向かう。そこにあったのは3.11を思わせる光景。ここから先はあの世、と一葉が言っていた御神体を祭る場所に足を踏み入れる。そこで三葉が奉納した口噛み酒を飲む。それが何を意味するのかはよく解らない。

隕石湖を見下ろす外輪山、時は黄昏、あの世とこの世が交差する組紐時間。現れた三葉と瀧は向き合う。瀧が彗星の破片が村に衝突することを話す

ミシェル・ファイファーの「レディホーク」(1985 監督リチャード・ドナー) という映画を思い出す。愛し合う二人が呪いによって鷹と狼に変えられるも黄昏の一瞬だけ元の人間の姿で向き合えるという話だった。

この黄昏のシーンは美しい。記憶が消えても忘れない様にとお互いの名前を手の平に書く。瀧が書き終え三葉が書こうとした時、黄昏は終わり、瀧の手の平に横一本線だけを残し、三葉は消えた。

そこから時間は彗星の破片落下の前に遡り、何とか村人たちを救うべく三葉の孤軍奮闘、父親である村長への直談判、変電所爆破など活劇だ。彗星の破片が衝突するなんて誰も信じてくれない、必死に説得して回る三葉、走りながら消えかけて行く瀧の名前を言い続ける。瀧君、瀧君、瀧君、タ…、キ…、躓いて転げ落ちて…、思い出せない。手の平を開いた。そこには、名前ではなく“すきだ”と書かれていた。オヤジの目頭は熱くなり、女子高生なら涙線は決壊だ。

娘を信じて村長は避難命令を出したのか。そこははっきりしないまま、映像は破片衝突の場面になる。そして黒味。時間経過だけでなく、何ヶ所か時間軸が前後するところに黒味を効果的に入れている。

 

それから何年かが過ぎ、瀧は就活の時期を迎えていた。三葉の記憶はほとんど消えかけている。それでもずっと引っ掛っていた。手には組紐の腕輪が巻かれている。誰に貰ったものか、何故し続けているのか解らない。でも運命の人っているはずだ。その人に遠い昔、会ったような気がする。四谷、通過する車窓からの代々木駅、歩道橋 (どこだろう?) 、都会の抒情と瀧の心情が重なって美しいシーンが続く。

センチメンタルなまま、このまま終わっても良いかと思った。少し前に、糸守に彗星の破片が衝突するも偶然にも避難訓練と重なり村人は全員無事、という新聞のアップが入っている。三葉もどこかで生きているのだ。ピュアな初恋なんて成就しないもの。二人は大人への階段を一つ登った、で終わる。ところが違った。

 

四谷か神楽坂か高田馬場か、あの辺の裏通り、二人はすれ違う。瀧がもしかして? と足を止めて振り返る。三葉は何事もなかったようにそのまま歩いていく。少しして振り返った。瀧もそれに気付いて振り返った。二人の目に涙。観客にも涙。

三葉の振り向いた笑顔にワンカット、アニメのお決まりの絵文字っぽい笑い顔があった。あれは好きじゃない。他にも何か所か、アニメ定番のリアクションや感情表現がある。ファンには共通言語となっていて違和感はないのだろうが、アニメ嫌いにとっては、だからイヤなんだよ、になってしまう。あのワンカット、残念だった。

主題歌が確かアカペラで入る。

 

実は二度観した。一度目は錯綜する時間軸を追うのに精一杯だった。それでも追い切れず、時間の行ったり来たりと並行宇宙が団子になって、でも一途でピュアな初恋は初々しく、画は綺麗で、所々にアニメ定番の感情表現があったりはするものの、時間軸を正確に解らなくてもオヤジだって感動したのだから、高校生あたりの感情移入は半端ではないだろうと思った。

このブログを書く為に時間軸と並行宇宙は確認したいと思い、めずらしく二度観した。二度目でかなり解った。しっかりと構築されているなぁと思った。しかしまだ正確には解り切れてないかもしれない。ここまで時間軸をいじられると僕はそれが気になって感情移入にストップが掛かってしまう。組紐時間に身を任せて細かいことは気にせずで良いのかも知れないが。

最後の再会、あれはイリュージョンとも考えられる。でも並行宇宙なのだろう。してみると別の宇宙では三葉は死んでいる。それを蘇らす為に並行宇宙という考え方を使った。それは突然の災害に見舞われた人々への救いにもなっている。

 

音楽はRADWIMPS。人気バンドらしい。Vocalものが4曲(?) も入っていて、話のブロック毎の纏めを歌が担っている。聞き取れなかったが歌詞も映画に合わせた意味になっているのだろう。歌がちゃんと劇伴の役割を担っている。冒頭に聴こえるマンドリン(?) の音色も良い。歌以外の劇伴、必要なところに的確に付けていて、ベタ付けでないのは良い。小編成の弦のアレンジも的を得ている。音楽のやり取りは相当あったのだろう。Synやプロツールスの無かった時代、デモ出しなんてない、音楽が一発録りだった頃には考えられない緻密なやり取りをしているのだろう。そんな今のやり方の良さが出ている。声と歌い方に特徴があるので、歌もあと一曲あったら鼻に付いたかも。ギリギリのところだ。

 

話は変わる。邦洋問わず昨今の映画、並行宇宙という考えを安易に使いすぎてやしないか。テレパス七瀬の頃は新鮮だったが、今や困った時の並行宇宙、一度死んだ者もこれで簡単に蘇らせてしまう。これを使うと必ずどこかに矛盾が起きる。この映画でも、最後のシーンの瀧と三葉の属する宇宙は違うはずだ。でもそこは組紐時間と口噛み酒の力、綺麗に纏めているのだから、これこそ映画の力である。

そうではなく、いくらでもやり直せる並行宇宙、リセット! ゲームのリセットとほとんど同義語で使うケースのことだ。例えば「オール ユー ニード イズ キル」(拙ブログ 2014.8)、あの映画の”死” はほとんどリセットだ。時間のループと言う考え方らしいがこれも多分並行宇宙の一形態、いつでもまた生き返れる、死んだって直ぐまたやり直せる。死は随分軽いものになった。けれど僕らが生きる日々は間違いなく不可逆的直線の時間だ。死はその中にある。リセットなど出来ない。安易なリセットは死からリアルを奪っていく。この蔓延、とっても気になる。

 

監督 新海誠  音楽・主題歌 RADWIMPS