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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.11.10 「永い言い訳」 TOHOシネマズ日本橋

邦画

2016.11.10「永い言い訳」TOHOシネマズ日本橋

 

妻がバス事故で突然死んだ。その時夫は若い女と情事の真っ最中だった。誰に言い訳をするのか。言い訳すへき妻は死んでいる。自分への言い訳? 自分自身が納得して受け入れること?

 

衣笠幸夫 (本木雅弘) 、流行作家、マスコミにも持てはやされている。記者に囲まれて当たり前のコメントをする。妻の不幸に見舞われた夫を普通に演じる。しかし涙は出ない。

夫婦の間は冷えていた。それでも心の整理はする必要がある。まして作家だ。何等かの形で作品化する、そうしなければ前に進めない。作家の業、イヤな職業だ。

同じ事故で死んだ妻の親友の夫・大宮 (竹原ピストル) はひたすら泣き悲しむ。中学受験を控えた真平 (藤田健心) と小学校に上がる前の妹・灯 (白鳥玉季) がいる。大宮はトラックの運転手、生活の為、仕事は休めない。母親の死は家事や妹の世話を真平にもたらす。母の死を悲しむより、自分の負担が一気に増えたことで押しつぶされそうになっている。受験も諦めるしかない。それを知った幸夫は衝動的に家事や子供の世話を買って出る。買物、食事の世話、保育園の送り迎え、全くの別世界。そのてんてこ舞いぶりを本木と子供たちが絶妙に演じる。狭い室内の手持ちカメラが効果的。子供、特に妹は自然、演じている感が全くない。

若い編集者の岸本 (池松壮亮) が、”子供を持ってくると全てが許される、逃避なんじゃないですか” (そんな意味のこと)と冷ややかに言う。時々出てきてクールなコメントを発する池松が良い。「セトウツミ」( 拙ブログ 2016.9.14.)といい本作といい、池松、さり気なくキラリと光る。

大宮は具体で生きている。今も必死でトラックの深夜便を運転して生活を支える。幸夫の助けは有難い。子供もなついている。

保育園の送り迎えを申し出る女性が現れたりして、前に進めないでいた大宮の方に日々が展開しだす。幸夫はそれに嫉妬する。

身近な人の死を、死そのものとして悲しむことが出来る人間なんていやしない。みんな自分の都合を加えて考える。真平は”お母さんじゃなくてお父さんだったらよかった” と思っている。それを父と喧嘩した時、口に出してしまう。真平の心は容量を越えてしまっていた。

喧嘩の数日後、大宮が事故を起こす。田舎の病院へ向かう幸夫と真平。

怪我は大事には至らなかった。病院を出てくる大宮,迎える真平と幸夫。父と子が駆け寄って、という感動のシーンにしても良いところ。カメラは真平を促した幸夫を写し続け、オフに真平と大宮のさり気ない会話を二言三言。この外し方は上手い。このさりげなさ、好きである。

大宮父子と幸夫は駅で別れる。駅のロングショット、そこに「オンブラ・マイ・フ」(作曲.ヘンデル、歌・手嶌葵) が流れる。この映画の唯一の癒しのシーン。

ようやく作品化出来た。その出版記念パーティー。大宮親子も居る。真平が、口下手の父に代わって挨拶する。映画的には大団円、こうしないと纏まらない。しかし大宮も真平も、自分たちがネタになった小説をどう思うだろう。素直に祝えるだろうか。第三者の父と子の物語を借りて、幸夫自身の気持ちは整理が付いたのだろうか。付くはずがない。ただ、この家族と関わる中で、自分のことだけを考えた生き方が少し変わった。妻は子供がほしかったのかもしれない、とも思った。人生は他人に寄って作られる。”人生は他者だ” 小説用のメモノートに書き込む。それは言い訳用のノートでもある。父っちゃん坊やが少し大人になった。

言い訳なんて一生続く。”生まれてきてゴメンなさい” の言い訳を考え続けるのが人生なのかも知れない、多分。

竹原ピストルの登場シーンはいつも怖い。台詞を喋り出すまでに ”間” がある。この偽善者! と殴りかかってくるのではないかと、いつも思う。でも少しして口を開く竹原の台詞は穏やかで優しい。この ”間” に幸夫への批判がギュウギュウ詰めになっている。

 

音楽、頭にレトロな感じのジャズギターのピッキング。そしてステファン・グラッペリ風のVlソロ、快調に入る。Vlは中西俊博、これだけはローリングで読み取れた。西川監督、「夢売る二人」(拙ブログ 2012.9.20) でもブルースギターでやっていた。こっち系好きなのかも。成る程、幸夫を滑稽に描くということか。幸夫の暗めな心象、そこにはPfの単音でゆっくりと間をおいて、ラ、ド、ミ、ラ、短調の分散和音。こういうムキだし、作曲家は多分しない。恐らく演奏家の脇で直接指示して弾かせたのではないか。あるいは自分で弾いたか。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11) の鉄塔のシーン、是枝監督と同じ様なやり方をしたのではないか。Pf単音なら作曲家を頼らず、その場で指示して自ら音楽を好きなように出来る。あくまで推測ではあるが。

中盤あたりからはPfソロで「バイエル」の曲 ( 多分、確信無し、昔弾いたような記憶が…) になる。その曲はGuでも奏される。エンドロールもこの曲だったからこれがテーマの様なものか。練習曲だから、感情のない幾何学的音楽、映像と距離を置く。

そして大宮と真平を見送る田舎の駅、ここで「オンブラ・マイ・フ」が感動的に流れる。

カラオケやらTVの音楽やら現実音処理の音楽はかなりあるが、劇伴としての音楽は少ない。各々のシーンを観る限り違和感無く、音楽は役割を果たしている。しかし全体として観た時、この映画で音楽はどんな役割を果たしたのだろう。「オンブラ・マイ・フ」だけは 許しの音楽として初めから決まっていたか。それ以外のところで音楽を付けた意味はどこまであるのか。無いより流れがスムーズになる、雰囲気が出る、それだけでも良いといえば良いのだが。

音楽のこの統一感の無さ。必ずしも統一感が必要という訳ではないが、音楽は映画全体のトーンを決めることが出来る。頭のレトロなギターとVlのジャズ、エンドもこの編成でスローに、真ん中に「オンブラマイフ」をハイライトとして、他は全て無しにするという考えだってある。

エンドロールの音楽関係クレジットを一所懸命見た。音楽プロデューサーというクレジットはあったが、音楽というクレジットは無かったのでは。確信無し。見落としているかもしれない。でも一人の作曲家がトータルで音楽を考えた、ということでないのは確かだ。ラドミもバイエルも作曲家は不要。「オンブラ・マイ・フ」は既成曲。頭のGuとVlの曲だけが音楽家の手になる。これももしかしたら既成曲か。

調べたら「揺れる」(音楽・カリフラワーズ) も「ディア・ドクター」(音楽・モアリズム)も「夢売る二人」(音楽・モアリズム)も、ブルースギターのナカムラという人のバンドで、作曲演奏共、ナカムラが担当している様。この人が西川監督とコンビだったのだ。本作でも頭のレトロジャズと中程の「バイエル」ギターバージョンはその人の演奏によるものと思われる。ローリングで演奏家の名がクレジッタされていたが、読み切れず未確認。作曲家というより演奏家としての参加。本作、実質的な音楽監督は西川美和だ。

映画音楽の方法に正解はない。最後は監督の主観に収斂するしかない。作曲家の見方が入り、監督の意図を遥かに超えた深さと広がりを持つことがある (稀だが)。その逆もある。ただ自分の内へ自己完結させていくと、映像と音楽が起こす奇跡の瞬間が訪れることはない。

 

僅かなシーンだが、浮気相手を演じた黒木華が、実に”らしかった”。深津絵里はいつも役その物になってしまう。灯が演じる以前の自然さで良かったのに対し、真平はしっかりと演じて見事だった。胸が一杯になるシーンはみんな真平絡みだった。

モックンは熱演、しかし綺麗過ぎる。あの端正な顔はどんなにむさ苦しくしようと変えようがない。ノーブルですらある。本当は少し汚らしさが漂う役者の方が滑稽さは出たかも知れない。そうしたら商業映画として成立しない。難しいところ。

 

原作・脚本・監督 西川美和     音楽のクレジット無し(未確認)