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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.02.03 「恋妻家宮本」 Tジョイ大泉

邦画

2017.02.03「恋妻家宮本」Tジョイ大泉

 

50歳過ぎて、子供も片付いた。そこに訪れる “私の人生これで良かったの?” 熟年クライシス。子供が居る居ない、経済的問題、親の介護、個々の条件はみんな少しずつ違うも、大きな背景としては女性に経済力が付いた故か。これは世界の先進国の共通のテーマの様だ。離婚というハードルはどんどん下がっている。

熟年クライシスの震源は主に女性。男はこれに鈍感だ。定年もしくはその直近、今更ジタバタしてどうなるものでもない。男は現状を受け入れる、いや肯定しさえする。男のクライシスは中年40半ばあたり。“俺の人生これで良いのか?” ミドルクライシス。「Shall we  ダンス?」(1996.監督.周防正行) はこれだ。ここに謎の女でも現れたら家庭崩壊、新たな人生、になる。

熟年クライシスを純文学的に描いた映画が「さざなみ」(拙ブログ2016.4.10) だとしたら、こちらはさしずめこの問題の漫画的コメディーだ。

アバンで、夫婦それぞれの性格、出会い、30年余の歴史、が簡潔に語られる。手際の良さに感心する。節目節目となる出来事の舞台は何故かいつもファミレス。庶民はファミレスを舞台に人生を進めて行く。

宮本陽平 (阿部寛) は優柔不断な中学の国語教師。かつてはちょっとだけ作家になることを夢見ていた。出来ちゃった婚で生活の為に教師となり、美代子 (天海祐希) は専業主婦となった。女の方がキレが良い。天海祐希ピッタリ。

蔵書の「暗夜行路」からハラリと落ちた離婚届が事の発端。日々の生活は全く別に見えてくる。増殖する猜疑心がドタバタ喜劇を生み出し、それを面白おかしく、時に漫画的誇張を加えながら描いて飽きさせない。エピソードを阿部のモノローグが繋ぐ。コメディーで描く以上、結末が暗いものにならないことは推測が付く。何故、離婚届? で思わせぶりに引っ張って行く。そして最後に種明かし。実は大した種明かしではなかった。微妙な心の問題である。そんな“微妙”で離婚届を用意してしまう、今はそんな時代なのだ。

かつて離婚という選択肢は、特別な人を除いて、一般庶民には無かった。そんな時代の代表として富司純子が、恐怖のババアといったデフォルメで現れる。面白く見せる為のテクニック。教え子の一人で、母が不倫に走ってしまった家庭が描かれ、富司はそこのお婆ちゃん。不倫嫁を子供の前で全否定する富司に対し、宮本はオドオドしつつもきっぱりと言い切る。正しさよりも優しさ、正しさは戦争を引き起こすが優しさは戦争を起こさない。宮本が生徒に見直されるシーン。阿部も熱演だが、生徒役の男女がしっかりしている。

淀みない展開、飽きさせることのない語り口、手慣れた職人芸だ。しかしヒリヒリとした現実には結局触れず仕舞い。初めからそれは意図してないのかも知れない。それが映画としての物足りなさとなる。

阿部のモノローグに頼り過ぎている。みんな言葉にして明解に説明してくれる。ひたすら解り易く。台詞の無い映像が、役者の表情が、こちらに、自分に照らし合わせて考えよ! と要求する、そんなところがほとんど無い。

阿部は顔かたちだけでなく、声までもスペクタクルだ。バリトンの音圧のある良い声。この声でのモノローグは嫌でも押し付けがましくなってしまう。過剰な説明、押し付けがましく受け取られてしまう声と語り口。

阿部も天海も熱演。漫画チックに描くならこれ位キャラが立っている方が面白い。しかしその分微妙なニュアンスは切り捨てられてしまう。デフォルメが勝ってリアルは後退する。とってもTV的。

 

音楽は漫画的デフォルメに合わせて、シリアスから恐怖まで幅ひろい曲想で付けて、こちらも職人技である。弦のピッチカートが効果的だし、富司純子のシーンでは「犬神家の一族」の様な、琴やダルシマ(?) がメロを取って遊び心も充分。木管も弦も大仰にならない編成で程好い。泣きを強調する様な音楽を付けなかったのも良い。全体にジャジーな感じが通底しているのでダサくない。かなりベタ付けだが気にならない。ただ一つ、一貫するテーマが一つあったら。それをアレンジで各シーンにアダプトしていく…

かつて映画音楽はテーマが2 (~3) つ、それを全体の音楽設計の中で配置していき、編曲で各シーンに合わせて行った。今、この手法を取る映画音楽をほとんど見なくなった。個々の絵面に合わせることが優先されて全体の音楽設計がないがしろにされている気がしてならない。

この映画の音楽、けっして悪くない。テクニックもあるしセンスも良い。とっても映画音楽に向いている作曲家だと思う。

 

エンディングは吉田拓郎の「今日までそして明日から」

”私は今日まで生きてみました 時には誰かの力を借りて 時には誰かにしがみついて

~そして今 私は思っています 明日からも こうして生きて行くだろうと

私には私の生き方がある それはおそらく自分というものを 知るところから始まるのでしょう”

 

詩としての言葉の凝縮は全くない。簡単なコードに合わせてその時の心境をただ垂れ流しているだけだ。他の世代にとってどうだかは解らないが、僕ら世代にとって何故これが名曲たり得たか。売れる売れないに関係なく、拓郎はその時の心境を稚拙だがストレートに叫んだ。その稚拙な叫びが稚拙な僕らに響いた。覚えたてのギターで直ぐ弾けるコードで我が事の様にこの歌を叫んだ。それが瞬時に蘇る。あの頃が甦る。そして今の自分は? これだけで胸が一杯になる。

時代世代を超えて生き続けるポピュラーの名曲がある。もう一方で或る世代が持つ名曲がある。これは間違いなく後者。

この後の拓郎は他のアーティストにも曲を提供するようになり、売れる曲作りのテクニックを身につけていく。プロになっていく。丁度ソニーの専属になった頃か。この歌にはプロになる前の拓郎の稚拙だが真っ直ぐな叫びがある。僕らの形にならないモヤモヤを拓郎が代わりに歌にして叫んでくれたと僕ら世代はみんな思った。

ファミレスで全員が勢揃いしてワンフレーズづつ唄うエンディングは私としてはちょっと違和感があったが、映画の締めとしてはあれで良いのかも知れない

 

監督が誰だか知らずに見た。エンドロールの最後の最後に,遊川和彦と出た。そうか、脚本家遊川の初監督作品だったのだ。それで納得。解り易さ、漫画的誇張、あざとさ、阿部天海というキャラの立ったキャスティング。TVドラマを知り尽くした人の演出、そつなくテンポ良く解り易く飽きさせず、つまりTV的なのだ。2時間、何の問題もなく楽しめる。でもサラリとして何かが足りない。何かが。

 

監督 遊川和彦  音楽 平井真美子