映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.03.21 「たかが世界の終わり」 ヒューマントラスト有楽町

2017.03.21「たかが世界の終わり」ヒューマントラスト有楽町

 

題名につられて見てしまった。有名な監督らしい。カンヌで賞を取ったことも後で知った。

冒頭の深い闇。効果音がFIしてそれが夜の機内であることが解る。いかにもな思わせぶり。思わせぶりな入りは好きだ。思わせぶりをかませてくれないと興味が持続しない。

どうもこの男(ギャスパー・ウリエル) 、死期が近づいているらしい。そのことを家族に話す為に十何年ぶりかで故郷へ帰って来たということの様だ。母(ナタリー・バイ)、兄(バンサン・カッセル)、その妻(マリオン・コティアール)、妹(レア・セドゥー)。みんな暖かく迎えてくれた (?)。

家族は些細な言葉尻で口論を始める。男は微笑みながらそれを傍観する。自己主張と思い込みの塊の様な家族で、その言い合いは凄まじい。

フランス人はオシャベリだ。大昔フランスへ行った時、驚いた。フランス人の会話は1秒間に30発撃てるマシンガンの撃ち合いだ。同じことを伝えるのにフランス語は日本語より多くの音を必要とするのかもしれない。聞いていて疲れてしまった。

男は静かに、それを聴いている。

男は十数年前、この家を出て都会で劇作家(?)として成功しているらしい。つまらない言葉尻で突っかかる会話の背後には家族それぞれの男への思いがある。

元は芝居らしい。登場人物は5人、家の中だけ、いかにも舞台だ。マシンガントークで面白おかしく引っ張りながら、やがて背後に、死んでいく男と、この広い宇宙で出会ったこの家族との関わりが、喜びが、”ありがとう”が、立ち昇る。

ところが映画は立ち昇らなかった。何でこんなことに突っかかるの? で終わってしまった。

舞台での台詞は詩である。舞台自体がデフォルメだ。ところが映画は映像はどうしようもなく即物的でリアル、そこで発せられる言葉は中々詩にならない。映画の台詞を詩にまで高めるには映画自体をリアルから少し浮上させなければならない。これは大変なことだ。

家族のリアルな描写の中で台詞は詩に昇華せず背後には何も立ち昇らなかった。

役者は名優揃い、皆熱演、しかしこの脚本をそのまま熱演しても上滑りするだけ。所々にMVの様なイメージショットを入れたところで逆に安っぽくなるだけだ。

音楽、ガブリエル・ヤーレ、久々に聞く名。ハリウッド調劇伴とは少し違う響きに、ヨーロッパの映画音楽を聴けるかと期待するも、のっけから説明調、その上トップエンドも含めて、要所要所に話の説明調の歌が入る。オリジナルなのか既成曲なのか。歌詞はかなり直截に映画の内容とシンクロ。サウンドは大人が無理やり今時若者サウンドに合わせた様なダサさ。ダメだ!

結局、自分の死期のことは話せず、事件らしきことは何も起きず、過去のわだかまりが解決した訳でもなく男は立ち去る。あれ? これで終わっちゃうの?

男が死のうが生きようが、家族の生活は続く。生きている者の日常は強い。やがて時間が男の存在を少しづつ消していく。誰だってみんなそうだ。でも出会った、一時同じ時間と空間の中で泣いたりわめいたり怒ったりした。それで良い。私が存在したことを少しだけ覚えといて。自然に忘れるまで。

なんてことが全く感じられない映画だった。本当にカンヌで賞を取ったのか。

原題 Its only the end of the world 

これを”たかが世界の終わり”としたのは出版社か映画の配給会社か。”たかが”に騙された。見事!

 

監督 グザヴィエ・ドラン  音楽 ガブリエル・ヤーレ

 

PS

偶然、武満徹の「波の盆」を聴いた、久々。例えば、この曲を頭とお尻に付けたら、一気に宇宙的広がりが出る。非日常となった男が、日常真っ只中の家族にお別れを言いに行く物語になる。映画の中の現実音楽は別として、背景音楽は頭とお尻の2曲だけ。思いつきだが、説明調の歌なんかよりずっと良いはずだ。