映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.05.07 「草原の河」 岩波ホール

2017.05.07「草原の河」岩波ホール

 

チベット遊牧民の家族を淡々と描く。父、母、幼い娘、間もなく妹か弟が生まれようとしている。行者様と呼ばれる祖父と父は仲が悪い。

羊の群れと共に高原を移動する。乳離れをし切れていない少女は弟か妹が出来ることを素直に受け入れられない。可愛がっていた羊が狼に襲われその死体を見る。村の子供が祖父に優しくしない父親の悪口を言っていた。些細な日常が大ロングの自然の中で米粒の様に描かれる。何千年と続く自然の摂理に則した生活。太古から続く悠久の時間。

直ぐそばまで文明が押し寄せている。文明とは人間の都合だ。人間の都合に合わせて自然は捻じ曲げられ、時間は人間化する。これを止めることは出来ない。父親はバイクに乗っているも、まだここには悠久の時間が流れている。ギリギリだ。

少女の ”私” はまだ目覚めていない。こちらも時間の問題だ。遠からず文明を選び ”私” が鎌首を持ち上げてくる。”私” の集合体である社会や国家に遭遇する。ましてやチベット、いやでも中国と向き合わねばならない。こちらもギリギリだ。

直ぐそこまで来ている文明と ”私の目覚め” を前にして、ギリギリで描く少女の黄金の日々。これを神話と言わずして何と言おう。神話は間もなく崩壊する。失ったものを思い出して郷愁だけが残る。

 

少女も父親も素人だそうである。母親だけは歌手とのこと。少女はほとんど役と同じ生活をしている子なのかも知れない。しかしドキュメンタリーではない。劇映画としての凝縮がある。ハリウッド並みではないにしても何人かのスタッフの前で演じているのだ。これは驚愕に値する。少女の自我を宿し始めた眼を忘れることが出来ない。

 

音楽は頭のタイトルバックと尻のエンドロールだけ。タイトルバックはバンジョーの様な琴の様な、余韻のない弦を弾いてソロで奏される曲。メロディは多分チベット高原の民族のメロディなのだろう。劇中に音楽は無い。通り過ぎる風の音、雨音、狼、人間の気配、等の音が音楽以上に雄弁である。エンドは男声が民族色有るメロを歌い上げて、背後にVC中心の弦楽器群が厚くそれを支える。トラッドな曲なのかオリジナルなのか。エンドの弦はきちんとした西洋音楽の書法だった気がする。神話の額縁をしっかりと作っている。

 

「ラサへの歩き方」 (2016.08.02拙ブログ) は二つの時間が並存していた。人間尺取虫をしている脇を車が通り過ぎる。「草原の河」は片方だけを描く。しかも少女の眼を通して。これはやっぱり神話である。

河を越えるとおじいちゃんの居る聖域だ。聖域には簡単に行けた。死は自然で当たり前のことだった。

 

編集は余分な説明を削ぎ落として簡潔、今風である。

 

監督・脚本 ソンタルジャ  音楽デザイン ドゥッカル・ツェラン

エンドクレジット音楽 テンジン・チョーギャル