映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.05.29 「美しい星」 シネリーブル池袋

2017.05.29「美しい星」シネリーブル池袋

 

三島由紀夫の原作。荒唐無稽なSF、それを吉田大八が監督するとのことで期待した。冷戦時代の原作を今に合うよう、相当手を入れたそう。

主人公の気象予報士リリー・フランキーが演じる。当たらないが売りの、ちょっと捻った予報士。だがどうしてもそう見えない。リリーは社会から承認されている感の全く無い人。それが初めて承認されている役をやった。違和感が漂う。

いくつかの不可解なことが起きて、突然火星人であることに目覚め、TVでそれを宣言する。ヘンテコなキメのポーズをする。元から胡散臭さを漂わす人がそんなキメのポーズを取っても悪ふざけにしか見えない。地球温暖化の対策を叫ぶ。もう時間がない。この荒唐無稽になかなか入っていけない。単純にドタバタ喜劇として笑っちゃって良いのか、思わず回りを見てしまう。 

息子 (亀梨和也) は自転車で宅配をやっている。ちょっとした事故をきっかけに政治家の下で働くことになる。そして水星人であることに目覚める。

大学生の美貌の娘 (橋本愛) はチャラチャラした学生生活に馴染めないでいる。路上で唄う男の歌に感動する。歌の題名は「金星」。自分が金星人であることに目覚める。

息子と娘の話になってようやく映画に入っていけた。亀梨も良いが、橋本愛が青春の不安定さと危うい一途さを全身で表わす。ミスコンの舞台でのキメのポーズも何やらオウム風の宗教臭を漂わせてそこだけ別世界を作る。

怪しげな水の商法にハマった母親 (中島朋子) が地球的生活感を醸す。母親は地球人。

 

火星人も水星人も金星人も、地球人より少し高いところから物を見ることが出来る。地球的利害を超えた見方、この視点で見ると地球温暖化問題も核の問題も自明のことである。太陽系連合は、こんな単純なことが地球人には何故解らないのか! と叫ぶ。全くその通りなのだが、これを素朴に叫ぶと漫画になってしまう。黒澤の「夢」もそうだったが、感動も説得力もなく、ハイその通りです、で終わってしまう。これに説得力を持たせるのが映画的表現のはずだ。すでにトランプが真逆の漫画を現実に演じている。トランプって存在自体がパロディだ。

この映画はそっちよりも家族の再生に重点があると感じた。水星人の息子と金星人の娘に母親は “間違いなくあたしが生んだのよ” と言う。これは可笑しかった。確かに生物学的にはその通り。しかし分子原子と遡り、宇宙的生命の循環というレベルで考えた時、DNAなんてすっ飛んで、血族なんて意味をなさなくなる。たまたま今、人間としてあることの奇跡。

 

死期の近づいた火星人の父親を囲んで、水星人の息子と金星人の娘と地球人の母の太陽系連合家族が地球という美しい星で偶然出会って家族となった、それが奇跡であることを理解する。火星人でも金星人でも何人でも良い。人間としてこの地球上で家族となった奇跡への感謝、そして地球という惑星の美しい奇跡への感謝、そういうことなのだろう。

この深い荒唐無稽、これが映画として如何に説得力を持つか、僕にはストンと落ちなかった。多分僕の感受性のチャンネルをリアルから別のものに切り替え損なった為だ。ノッケで躓いた。多分それはリリーに躓いたからだと思う。

リリー・フランキー、どんなつまらない映画でも彼だけは確実に映画の中の人として存在していた。「凶悪」や「そして父になる」や「お父さんと伊藤さん」や「SCOOP」、どれも成り切っていたし、「女が眠る時」や「シェルコレクター」でも、リリーだけは確実に映画の中でリアルに存在していた。

この映画でリリーは初めて映画の中の存在になれなかった。デッサン顔俳優リリーはどんな色にも染まると思っていた。染まらないこともあったのだ。

 

音楽は打楽器と人声中心の原始的で単純な繰り返しがトランス状態を作る。どこかインドネシアとかの宗教儀式っぽい。これがシーンを跨いでクレッシェンドしてバサッと無くなる。音楽が無かったらかなり辛いものになっていたかも知れない。

 

火星人リリーを乗せたチープなセットの宇宙船の窓から、地上で見送る家族が見える。この時の家族がはっきりしない。リリーも含めた四人だったか、リリーは居なかったか。しっかりヨリで家族を捉え、そこからゆっくりと宇宙へズームバックして宇宙船からの見た眼になるというカットが無かったような気がする。僕の見落としか、注意力の問題か、ちょっと自信がない。火星人リリーの後姿ナメで窓越しの家族を捉えれば、あんなセット作らずとも良かったのに。

佐々木蔵ノ介は瞬き一つせず、リアリティを感じさせてくれた。

 

 

監督 吉田大八    音楽 渡邊琢磨