映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.08.04 「ブランカとギター弾き」 シネスイッチ銀座

2017.08.04「ブランカとギター弾き」シネスイッチ銀座

 

素朴が力になる、そんな久々の映画である。マニラのストリートチルドレンブランカ (サイデル・ガブテロ) と路上のギター弾きピーター (ピーター・ミラリ) の心通う物語。

母親に甘える子供を見るブランカ。母親がほしい。大人が子供を売買する。それなら逆があっても良い。いかにも子供らしい発想。必死に盗みやスリを働いてお金を貯める。そして”母親買います”のチラシをあちこちに貼る。広場で出会った盲目のギター弾きピーターは、お金で買えるものと買えないものがあると諭すも、理解出来ないブランカ

ビーターに勧められて、ギターに合わせて歌を唄う。これが評判となり、二人はクラブに住み込みで唄う職を得る。ブランカは初めて屋根の下のベッドで寝る。それだけでブランカは喜び、ピーターに感謝する。

ブランカは明るくて聰明で生命力に溢れている。周りの子供たちも生きる為に盗みやスリをするが、みんな明るい。子供の世界は生き生きとしている。悲惨はある。何年かしたらこの子たちの何人かは麻薬に関わるだろう。ドゥテルテに殺されるかも知れない。映画は今はそちら側を見ない。生命力の方だけを見る。

折角の職だったが、似たような境遇の小僧の悪企みでそれを失う。やり手ババアに売り飛ばされそうにもなる。ブランカは孤児院へ行くことを決意する。

孤児院にブランカは馴染めなかった。脱走して街へ戻り、広場でピーターと再会する。喜びと涙のブランカのアップ、映画はこの顔で終わる。泣いてしまった。

何の捻りもない一直線の話。それを大きな感動に高めたのは、ブランカを演じた、ほとんど素人の凜とした少女、本物の路上ギター弾きのピーター、そしてスラムの子供たちだ。現地の素人をオーディションで選んだらしい。本物が持つリアリティがそのまま映画に生かされ、彼らの明るさと生命力が、“悲惨”という紋切り型の見方を吹き飛ばす。

黒味になって“家とは誰かが待っていてくれる場所である”(不確か) というテロップが入る。普段なら、相田みつおみたいなこと言うんじゃねぇ! と興ざめするところが、その通りと肯いてしまった。そしてヴェネチア映画祭で上映された翌日、ピーターは死去したと、またテロップが入る。虚構と現実の壁は溶解して、ただ一つ映画の現実がある。

バンコクナイツ」も「ラサへの歩き方」も「草原の河」も、みんなそうだった。でもちゃんと台本はある。演出もある。

良いカットが沢山ある。スラムのロング、港のロング、夕陽、どれも秀逸だ。そこには必ず高層ビルがさりげなく入っている。こんな痛烈な批判は無い。

 

冒頭、マニラのスラムのロングからストリートチルドレンの日常にカメラが寄っていく。そこにアコーディオン(?)で3拍子の素朴な音楽が被る。映画の世界ととっても合ったスケールの音楽。続いて聴こえるギターの音、少し電気的歪みがのっている。アレっ? 写ったピーターのギターにはギターマイクが付いていた。脇にガラクタのアンブ。

僕はこの映画をフィリピンの土着の音楽と西洋音楽が混じりあって生まれたフィリピンのブルースの様な音楽がふんだんに出てくるものと勝手に思っていた。路上のギター弾きはアコースティックギターの超絶技巧。ところがこの映画、そういうものではなかった。アンプを通したショボイ音、演奏は素朴そのもの。でもそれを補って余りある、本物の超絶技巧の音楽はなかったけれど、本物の路上のギター弾きの存在があった。それで充分だ。

ギターの演奏シーンはほんの少しだけ。音楽のメインはブランカが唄う歌である。トラディショナルかと思ったら、詩の内容が映画とシンクロしている。監督が作詞をしたオリジナルらしい。これをピーターの簡単なギターをバックにブランカが唄う。綺麗な澄んだ声だ。彼女は歌が本職なのだそう。音楽はこの歌が全て。後は冒頭の3拍子のアコとサスペンスを煽るリズムだけの曲。これで充分。

ローリングに日本人らしき名前がチラホラ。KOHKI HASEI、何と監督は日本人だった。世界を放浪した写真家とのこと。短編で認められ、長編はこれが最初。イタリアの資本でフィリピンのスタッフを使ってオールマニラロケ、キャストはみんな素人とのこと。こういう人が出て来たのだ。驚いて嬉しくなって、時代は確実に動いているなあ、と我が老いを感じた。

 

ピーターのギターでブランカが唄って、弟分セバスチャンがお布施を集めて、三人で疑似家族を作れば良い。3万ペソで買う母親よりもよっぽど暖かいはずだ。

 

監督 長谷井宏紀   音楽 アスカ・マツヤマ、フランシス・デヴェラ