映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

2017.11.10「ブレードランナー 2049」丸の内ピカデリー

 

二度見した。一度目は ”タイレル社” や ”レイチェル” と言う言葉を聞いて一気に30年前に戻り、前作を観た時の衝撃を思い出した。灰色に煙るLAの高層ビル群をぬって飛行するブレードランナーの空飛ぶ車、それを俯瞰で捉えたカット、シンセで作るリズム、地上にはビチャビチャと雨が降り、猥雑この上ない。返還前の香港の裏町の様。見上げるとビルの壁面に映し出された巨大な女が手招きしていた。今作ではそれがホログラフで浮き出て来る。あちこちに日本語が氾濫、Oh! ブレードランナーの世界。

30年ぶりの再会に興奮して、話を追い切れなかった。ただ、時々唐突に流れる、劇伴とは全く異質の、明るく汚れのない音楽が気になり続けた。もしかして「ピーターと狼」(以下P&W) ? まさか。ちょっと流れてはブツ切りとなる。精々一小節、二小節は流れない。ウルトライントロ当てクイズだ。何回聞いてもP&Wの出だし。ホログラフのジョイ(主人公Kのバーチャル彼女) の所に流れるから、ジョイのテーマとしてのオリジナルか。それにしては付け方があまりに無造作だ。エンドロールは膨大でどこに音楽関係があるかも分からないまま終わってしまった。

圧倒的映像、シンセのリズムで作り出す音楽の迫力、ジョイは何て可愛いんだ、あの曲はオリジナルそれともP&W ? 一度目はこれだけで終わってしまった。

P&Wだけでも確認したい。エンドロールの既成曲クレジットを見れば解るはずだ。ということで二度見となった。

 

良く出来た映画は一度見だけでは映画が持つ情報量の半分も解らないかも知れない。二度見で解ることが山の様にある。結論が分かっていても、そこに至る伏線小技が一つ一つ納得して行けて一度目より感動したりする。名作は何度見にも耐えられるものだ。

 

エンドロールの終わりの方、既成曲クレジットの中にP&Wはあった。やっぱりそうだった。ジョイが現れる時のジングル、着メロの様なもの。ウォレス社のジングルあるいはKがそう設定したのか。これで唐突に流れてCOするのが納得出来た。シンセだが劇伴とは全く違う音色、灰色に淀む中でここだけ晴天という感じだ。でも何故P&Wなのか。曲調がノー天気な位明るくて健康的で汚れがないのでコントラストが付くという理由は容易に考えられる。でもブーでもピーでもボロンでも良かったはず。映画音楽としてではなく、現実音として流れる訳だからもっとさり気なくても良いはずだ。音量は決して小さくない。しっかりと耳に付く。全体を通した時、この曲が唯一ピュアな点としてあることに気付く。ジョイという存在がそういうことなのだ。この選曲は大成功。でも何故P&Wなのか。曲調以上の意味があるのか。解る人は教えてほしい。

 

主人公はK (ライアン・ゴズリング)、ブレードランナーとして旧型レプリカントを解任 (殺害) する使命を帯びた新型レプリカントである。LAの雑踏を歩く時、“人間もどき”“もどき”の罵声が飛ぶ。ブレードランナーというポジションはたむろする人間たちより多分上なのだ。地球に残されている人間は切り捨てられた人々、選ばれた人々は汚染された地球を捨て9つのコロニーに居るらしい。そこを維持する為に地球がありレプリカントがいる。“もどき”の罵声は、移民のくせして俺たちより良い仕事についていやがる、に聴こえる。人間対レプリカントレプリカントの中でも新型と旧型、LAを囲む巨大な城壁の外Out of worldにはさらなる下層の人間とレプリカントが汚染の中で生きている。これをアメリカの現実いや世界の現実として読み解くことは難しいことではないかも知れない。しかしそれは製作者の本意ではないはずだ。本作は“人間もどき”が人間かも知れないと意識する物語、自分とは何か、を追い求める物語なのだ。レプリカントの苦悩はそっくりそのまま僕ら人間に置き換えられる。

前作でルトガー・ハウアーは寿命が尽きる寸前にデッカード (ハリソン・フォード) を救う。レプリカントにも心があった! で終わる。今作はそれを生物学的視点からアプローチする。生殖能力の有無である。

冒頭、解任される旧型レプリカントがKに最期の言葉として言う。“お前は奇跡を見たことが無い” 奇跡とは… 

レイチェルの遺体の帝王切開の跡、レプリカントが妊娠していた、そして子供を産んだ、レイチェルはそれがもとで死ぬ、子供はどこかで生きている!

タイレル博士 (フランケンシュタイン博士、それとも神? ) は完全な人間を創っていたのだ。

このことが知れたら人間とレプリカントの垣根は壊れる。レプリカントは人間と同等の要求をしてくる。

Kの女ボスがこの事実を無きものにせよと命令する。製造されたレプリカントを解任する指令は受けているが、誕生したレプリカントを解任することはインプットされてないと答えるK。“命令に背くの?”“命令に背くという選択肢はありません”

レイチェルの遺体が埋められていた場所に立てられていた白く立ち枯れた木、その根元に6-10-21という数字が彫られていた。Kが大切にしている木馬の置物にも同じ数字が刻まれている。偶然の一致か。Kは子供の頃、養護施設で仲間の少年たちからそれを奪われそうになったという記憶を持つ。しかし子供の頃の記憶は植え付けられたものであることを知っている。でももしかして… ここからKの自分捜しの戦いが始まる。

 

遺体の毛髪からDNAを解析して調べた結果、6-10-21誕生の全く同じDNAの男女がいたことが解る。双子だったのかも知れない。人間もレプリカントもDNAの塩基はA・T・G・C、私は半分の0・1 、脇でそうつぶやくジョイ。

 

作り出されたレプリカントには当然ながらそれ以前の記憶が無い。それが不安を呼び起こす。

人間の記憶 (あるいは意識) はFI (フェードイン) 、レプリカントはCI (カットイン)だ。CIだとその前の“無”は鮮やかに浮き出る。それが不安を呼び起こす。だからFIの物語が必要なのだ。FIする人間だってある時、それ以前に気が付く。時間の流れの中でポツンと一瞬ある自分、何らかの意味づけがほしい。きっと芸術や宗教はその為にある。

ウォレス社でレプリカントの記憶作りを担当する、免疫不全で無菌室の中で生活するステリン博士はその第一人者、つまりは最高の芸術家ということだ。記憶はフィクションでなければならない。本当に起こったことを移植することは禁じられている。でも彼女はKから子供の頃の木馬の記憶を聞いた時、思わず涙した。この涙、二度見でないと解らない。

彼女の登場シーンはこの映画で唯一の緑色の自然だ。灰色の中で突然現れる緑は凄いインパクトだ。しかしこれもバーチャル。

 

Kは感情を現さない。いつも無表情で任務をこなす。家に帰るとスイッチを入れ、P&Wが流れてジョイが現れる。ジョイはセクサロイドでその為のプログラムが施されている。Kに話を合わせ、思いやり、奉仕する。Kの為に喜び涙も流す。愛しているのだ。そうプログラムされている。Kが、もしかしたら自分はレイチェルから生まれたかも? と話すと、あなたはどこか普通のレプリカントと違っていた、きっとそうよ、と話を合わす。製造番号Kではなく、名前を名乗るべきよ。ジョイはKをジョーと呼ぶ。ジョイの純愛はKに取って、この映画に取って、唯一の救いだ。しかしそれがプログラミングの範囲であることをKは解っている。肉体を持たないジョイが人間 (レプリカント?) の娼婦を連れてきて、その肉体を借りてKと結ばれた朝、娼婦が帰り際にジョイに言う。“合体した時、ちょっとあんたの中を見たけど、何にもない、カラッポね (大体の意味)”ジョイは単一目的の為のシンプルなプログラムなのだ。一途な愛というプログラム。

 

一度見の時、ストーリーが良く解らず、複雑だなぁと思った。二度見で話は単純一直線であることが良く解った。自分はもしかしたらレイチェルから生まれたのかも知れない。それを確かめたい。この思いに則して前作と辻褄を合わせながら、大技小技を使って実に上手くエピソードが並べられていく。理屈で考えられたエピソードも時々入る圧倒的映像で納得させられてしまう。シンセリズムの音楽が話をグイグイと引っ張って行く。素 (無音)を巧みに使う。「ボーダーライン」もそうだったがこの監督は素を本当に効果的に使う。映像のメリハリと音のメリハリで飽きさせることがない。

 

Kはレイチェルの子ではなかった。双子は捜索を惑わす為のデッカードの偽装だった。レプリカント解放運動の女闘士もこの眼で女の子の誕生を見たとKに言った。“もしかして自分がそうだと思ったの? みんなそう思いたがるのよ(大体の意味)”

Kの木馬の記憶はステリン博士が禁を犯して移植した自分の体験だった。

エピソードは綺麗に並んだ。Kはデッカードの居場所を突き止め、最後の確認をすることになる。

 

満を持してハリソン・フォードが登場する。場所は廃墟と化したラスベガス。デッカードはそこで犬と暮らしていた。犬は本物かレプリカントか。そのホテルはかつてエルビスやシナトラがショーを行った所、彼らのショーがバーチャル映像でフラッシュする。エルビスは「エルビス オン ステージ」の映像? 多分そうだ。

ここまでブレードランナーらしいアクションは冒頭以外ほとんど無い。軸足は完全に自分捜しだった。膨大な予算を掛けたハリウッド大作、大衆受けはMUSTである。ここからは無理してのアクション。デッカードとKが戦う必然性が無い。そこで生殖の秘密を知ろうとするウォレスの忠実な女レプリカント・ラヴが戦いの相手となる。水中での戦いはハラハラドキドキを一生懸命演出してクライマックスを作る。水に浸かって大変な撮影だったと思う。でもここだけが狭っ苦しい。セット感がありありと分かる。もちろんただのアクションではなく、この監督らしく、戦いの中でラヴが強引にKにキスをするという演出がある。戦いながらも共にレプリカントとしての運命を生きるエール、良い演出ではある。しかしこのアクションの一連、無いとエンタメにならないのは解りつつ、どこまで必要だったか。他にクライマックスを作る手立ては無かったのか。無理を承知で引っ掛った。

 

ラヴを倒して、ステリン研究所へたどり着いたKは、中に娘がいる、とデッカードに言う。“俺は君の何なのか?”と確かデッカードは言った (不確か) “Father!”とは言わなかった。Kは沈黙で返した。ステリンの記憶を拠り所に生きて来たKにとってはそうだったはずだ。

深手を負って階段に横たわるKに雪が降り積もる。寿命が近いようだ。しかし一度見ではそれが解らなかった。階段に横たわるKの俯瞰のカットが立っている様に見えた。レプリカントだから死なないだろう位に思った。そのままエンドロールになってしまった。この終わり方だけは一考してほしかった。一度見でも寿命が尽きることを解らせなければ。俯瞰ではなく、Kの真横、そこに雪が降り積もっていく。走馬灯の様に人生がフラッシュバックする。そこにジョイの声がリヴァーブ一杯に響く。“ジョー!”長い余韻が切れたところでエンドロールの音楽がカットイン、そうすれば寿命が尽きることが明解になる。ちょっとセンチメンタルかも知れないが、エンタメは座りが良くなければ。今のままだとあまりに曖昧、そして荒涼としている。レプリカントも人間も同じという存在として死なせてあげたい。

Kが一度だけ微笑むところ、どこだったか記憶曖昧。これが気になるのだが三度見はちょっと億劫だ。

ハリウッド大作のエンタメとしてこんな映画を作ってしまうのだから、プロデューサー、監督は凄い。この監督は「メッセージ」でもそうだったが、深淵なテーマを娯楽映画として見せるテクニックを持っている。見せ方音付けが本当に上手いなぁ。

ベンジャミン・ウォルフィッシュ&ハンス・ジマー、この作品との出会いは彼らにとって幸運の一言に尽きる。メロディー感は最後だけ、そこに若干の不満もあるが、全体として見事なコラボレーションである。作り直しを何回もして、大変だったんだろうなぁ。「ダンケルク」とこの作品で、ハンス・ジマースタイルは極まった。

 

監督. ドゥニ・ヴィルヌーヴ   音楽. ベンジャミン・ウォルフィッシュハンス・ジマー