映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.10.10 「ダンケルク」 新宿ピカデリー

2017.10.10 「ダンケルク新宿ピカデリー

 

今頃「ダンケルク」、昨年秋の映画。二度見したかったのだが、その機会を逸した。直後のメモを頼りに記す。細部の記憶は曖昧。

 

映画は文学と美術と音楽と科学技術を総動員して作り出す表現である。そこから出来る限り文学性を取り除いたら…

ダンケルク」は台詞と物語を出来る限り排除する。「ダンケルク」というだけですでに歴史的事実は了解されている。その歴史的事実を改めて検証する、あるいは新たな視点から描く、という作り方だってある。この映画はそれらを全て排除する。ダンケルクというイギリスとは目と鼻の先にあるドーバー海峡沿いの街に追い詰められた若き兵士が生き延びようと必死でもがく姿だけを描く。

のっけから何の説明もなくひと気の無い街を若者が逃げ惑う。そこに銃弾が降り注ぐ。敵の姿は無い。何処からともなく降り注ぐ。海岸にたどり着くとそこには何万という兵士が海の向こうからの救出の船を待っている。荒涼とした砂浜に列を作る兵士達の灰色の大ロングが詩的でさえある。逃げ込める場所などないそこに、敵の爆撃機が機銃掃射してくる。面白いように兵士は倒れて行く。その中で生き延びようとする若者…

座礁した船がある。満ち潮になれば動くかも知れない。何人かがその船にたどり着く。船倉に身を隠して満ち潮を待つ。船が動いた時、機銃掃射が船倉に穴を開け海水が侵入してくる。甲板に出れば銃弾が待っている。

時々、兵士たちを守るべく敵の爆撃機と戦う空軍兵士のシークエンスが入る。機上からの見た目の空撮が、この海岸にいかに多くの兵士が追い詰められているかを一目で解らせてくれる。みんな生き延びたいと必死の若者たちだ。

台詞は極端に少ない。物語は “生き延びたい” だけだ。砂浜、船倉、機上、ランダムに繋げているが躓くことはない。エピソードごとの中心の役者はいるが、ほとんど僕には同じに見える。端正な顔立ちで人気者もいるらしい。個々の役名は不要だ。設定も不要だ。何とか “生き延びたい” ともがく若者がいる、それで充分だ。戦争のリアルってこういうことなのだ。

もがく若者にほとんど同化している自分に気づく。だから必死になって、疲れる。

塚本晋也の「野火」を思い出した。あそこにも戦争のリアルがあった。

台詞と物語をベースにそれを映像化して映画の世界を作る、それもあっていい。というかそれが通常で主流だ。一方で、映像と音で疑似体験空間を作るのも映画だ。但しこちらの極端な例はテーマパークのイヴェント映像だ。「ダンケルク」は劇場公開用劇映画にしっかりと留まる。

コマーシャリズムの映画である以上、最低限のドラマ設定はやむを得ない。それをケネス・ブラナーとマーク・ライアンスが担う。ケネス・ブラナーは全員救出など無理なことは端から解った上で、一人でも多くを救いたいと奮闘する英国の指揮官、マーク・ライアンスは同じ思いで小舟を出す漁師。“生き延びたい” 以外のドラマはこの二人の名優で充分だ。

音楽はハンス・ジマー。確か最後の方、一箇所だけ救出成功 (もちろん一部)  のところにメロディーが高らかに鳴る。それ以外メロらしいメロはない。全編ベタ付け。感情移入を誘発する様な音楽は細心の注意を払って排除する。そうしないとウソになる。状況を作り出すこと、映像の運びをスムーズにすること、に徹する。違う音楽の付け方があるとすれば、音楽を全く無しにすることくらいだ。ベタ付けは嫌いだが、この映画に関する限り上手くいっていると思う。ハンス・ジマー的音楽の付け方の、これと「ブレードランナー2049」は到達点の様な気がする。

本当はケネス・ブラナーもマーク・ライアンスも高らかに鳴るメロも無しにしたかったのかも知れない。“生き延びたい” だけの映画。でもそれは膨大な予算を掛けたコマーシャリズムの映画には無理な話。ギリギリのところでこの監督は劇場用映画を作り上げた。

僕はダンケルクの海岸に二時間居た。

 

監督 クリストファー・ノーラン   音楽 ハンス・ジマー