映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.03.23 「羊の木」 渋谷シネパレス

2018.03.23「羊の木」渋谷シネパレス

仮釈放された犯罪者6人が北陸の小さな町魚深に新住民としてやってくる。刑務所の経費削減、町の過疎対策、両方を兼ね備えた極秘の国家プロジェクト、自治体が身元引受人となり仕事を斡旋、最低10年そこに住むという条件である。これが成功するか否かに、国の未来が掛かっている。

この一見荒唐無稽な設定、でも変に説得力がある。日本の現状を見た時、その位のことを国は密かに考えているかも知れない。

娑婆に放り出された犯罪者は皆殺人を犯している。過疎化が進む魚深の町でどんな事件を引き起こすのか。映画の宣伝はもっぱらこのミステリーを前面に出す。けれど映画は実に淡々と平凡な日常として6人の受け入れを描写していく。市役所の月末 (錦戸亮) が受け入れの係。事情を知らされていない月末は駅や隣町の空港に迎えに行き、判で押したように“いい街ですよ、魚は上手いし人情は厚い”と言う。相手からのリアクションは無い。唯一、宮越 (松田龍平) だけが“いい街ですね、魚は上手いし、人情も厚そうだし”と自分から言う。自販機の前で二人して炭酸飲料を飲む。コミュニケーションってこんなところから始まるのかも知れない。

宮越は過剰防衛での殺人、元ヤクザの大野 (田中泯) は抗争相手の親分を針金で絞殺した、カミソリで喉を搔き切った酒乱の床屋福元 (水澤紳吾)、SEXの痴戯で首絞めをしてその結果殺してしまった太田理江子 (優香)、DV夫を撲殺した栗本清美 (市川実日子)、暴力性をむき出しにする最もストレートなキャラクター、傷害致死の杉山 (北村一輝)、一度は社会の矩を超えた面々が再びそっと日常にフェードインしていく。映画はそれを丁寧に描き、受け入れる側の反応をデリケートに拾う。6人の過去をフラッシュバックでインサートするようなことはしない。わずかな描写の中で役者の力と数行の台詞がこれまでの人生を的確に語る。

 

映画の宣伝に誘導されて、ミステリー、事件物、という先入観で見てしまった。殺人は起きるのだが、その犯人捜しという趣はない。6人が複雑に絡んだり、過去とののっぴきならないしがらみだったり、話はそっちへは展開しない。ましてや過去を清算してやり直そうとする、健さん映画のような人情物でもない (そういう作りの方が一般受けするかも知れないが)。どこか物足りない。作り手の意図は別のところにある? ということで二度見をした。

 

原作は山上たつひこいがらしみきおの漫画 (未読) 、それを監督の意向を汲んで香川まさひとが換骨奪胎して脚本化。どの位変えているのだろうか。

 

大野は顔に傷を持つ一目で堅気ではないことが解る初老。かつては狂犬だった。組に入るも、そこにも窮屈な掟があった。掟とは自己の抑制と他者の承認で成り立つ。その窮屈を越えてしまった者が再びその中へ戻るというのは大変なことだ。世間は異物を敏感に嗅ぎ分ける。大野はよく解っている。“人間、肌で感じたことが一番本当なんじゃないか”

 

栗本清美は寡黙で潔癖症、もしかしたら宗教にハマっていたかも知れない。些細なことでも折り合いをつけられない生き方が透けて見える。生命の再生を信じている、多分。

 

床屋福元役の水澤紳吾という役者を知らなかった。なんと成り切っていることか。飯の喰い方に圧倒された。真面目でいつも自信なくオドオドして、酒が入ると反転する。

 

杉山に向って大野が言う。“お前は若い頃の俺のようだ”組にも入らず狂犬のまんま。社会の矩に収まろうなど全く考えていない。

 

太田理江子の性は自然である。遺伝子レベルで根源的、生存のエネルギーである。ただこれを野放しにすると人間社会は維持出来ない。それを様々な理由付けで抑制する。禁忌である。人間の文化とは自然に対する抑制であることは世界中どこを見ても共通する。時々この装置が壊れている者が現れる。芸術家はそんな人を物語の主役に据える。だが必ず社会的制裁を受けて最後は悲劇となる。そうしないと社会が維持出来ない。

優香がそんな役を見事に演じていて驚いた。介護施設で月末の父親 (北見敏之) と出会い、恋というより欲望が爆発してトイレ(?)の中で貪り合うキスシーンは、全ての抑制を剥ぎ取ってエロそのものだ。優香と月末の父親との今後を、どうしても明るく想像出来ない。優香はその内別の男と愛欲を重ねる。その時月末の父親は… 「祭りの準備」(1975) の浜村淳を思いだした。

 

月末の錦戸亮はアクの強い6人に対しひたすらニュートラルである。“コロッケ買って来たよ”という何気ない台詞の中に今の状況が込められている。高齢の父親は昼間は介護施設に通う。母親はすでに他界している。本当はこの町を出たかったのだ。しっかりと社会の枠に収まっているが心の奥底には消化しきれないものが溜っている。かつて高校生の頃は文 (木村文乃) と須藤 (松尾論) とバンドを組んでいた。文が好きだった。

 

文は都会に出て看護士として働くも医師との不倫 (多分) の末、この町に戻って来た。須藤の“不倫?”というツッコミに何とも投げやりな態度を返す木村が良い。木村がこんな気だるい役をやれるなんて。

文が戻って来たことを期にバンドを再開する。月末はまだ文に未練がある。それを須藤がからかう。月末のベースと須藤のDrがしっかりと土台を作り、文のギターがノイズの様にコードを速弾きする。木村が様になっている。メロディーラインは無い。多分この映画にぴったりの曲想だ。ギリギリで音楽の矩を超えない。

バンド練習のプレイバック撮影 (先に録音した音に合わせて撮影すること・PB) は見事というしかない。特にDrは同録ではないかと思った。松尾論はDrの心得があるのか。DrのPBは本当に難しいのだ。こんなにぴったりと合っているなんて。ただ一つ一つの音がクリア過ぎるのが気にはなった。あの場だと実際には音はモアモアでただの騒音の塊になってしまう。映画の嘘、あれで良い。音楽スタッフと三人の役者に拍手である。

 

一番描きたかったのは宮越と月末だ。宮越は今風に言えばサイコパスである。自分の都合で罪悪感無く人を殺す。杉山が“俺はお前みたいな奴が何のためらいもなく人を殺すのをみたことがある”と言う。初めから他者が欠落しているのだ。

勝手、我儘、自己中心、そんな心理学の範疇を遥かに超えて、無感情に人を殺す。でもそれって先天的なもの? 後天的なもの? いつのまにかサイコパスという名前が付けられ、その言葉が出てくるとそこで思考は行き止まりとなる。絶対悪、追及しても無駄? それではホラーでありスプラッターだ。ジェイソンだ。この映画はサイコパスに逃げない。サイコパスが他者を受け入れて人間社会の中で生きようとする物語なのだ。

月末のバンドが高校の時の仲間と聞いて、宮越が “高校の同級生? いいなぁ”と呟く。その台詞の背後には大変な物語が隠されている。おそらく監督と脚本家の間には出来上がった脚本の何十倍もの背後の物語が確認されているはずだ。それを役者が血肉化する。言葉になったものだけを伝える役者とその背後の物語までも伝えられる役者とでは映画の厚味が違ってくる。この映画、どの役者も台詞の背後を感じさせてくれる。見事なキャスティング。監督のシテヤッタリという顔が見える様。

 

宮越には自分の都合しかない。いつも突然現れる。最初にバンドの練習を覗いた時も窓越しに突然現れた。映画はこの不連続な突然性、或る意味幼児的天真爛漫をホラー仕立てにして引っ張って行く。突然現れる宮越は怖い。

その宮越が月末たちのバンドを見て、初めて他者と関わりを持とうとした。仲間になりたくなった。だからギターを始めたのだ。ギターをちょっとでもかじった人には解るはずだが、最初はコードのCとFとG7から入る。CとG7は押さえ易い。Fが最初の壁である。宮越は、文や月末から一所懸命にそれを習う。押さえのポジションをひとつひとつ教えてもらう。

練習してる? という月末に指を触らせる。指先が固くなっている。必死なのだ。他者と共鳴したいのだ。

 

宮越と文が付き合い始める。月末が嫉妬してつい宮越の素性を話してしまう。月末は後悔してそのことを宮越に話す。“それって友達として言ってるの?”頷く月末。その時宮越は嬉しかったはずだ、多分。“言ってくれれば付き合わなかった”宮越の中には月末という他者が確実に存在していた。

宮越が練習しようよと、月末の部屋に押し掛ける。暫くして疲れたと眠ってしまう。まるで勝手な子供だ。次のカットで眠っている月末、それを覗き込む宮越。ダイレクトの繋ぎ、時間経過のカットは無い。これは怖い。一瞬首を絞めるのかと思わせる。次のカットで目覚めた月末、その時宮越はギターを抱えて夜の闇を見ていた。この時宮越は何を考えていたのだろう。月末という他者、それとも文?

宮越がノロロ様の崖に行こうと言い出す。強引に月末を引っ張って、二人は海に面したノロロ様の生贄儀式の断崖に立つ。傍らには呼びつけた文もいる。ノロロ様に決めてもらおう。強引に月末の手を引っ張って二人は飛び降りる。

この一連、物語のクライマックス、一度見の時は都合良く眠ってしまったり簡単に崖から飛び降りたり、リアリティのない展開に物足りなさを感じた。二度見の時は全く違って見えた。宮越の幼児性と他者が芽生えた苦悩が入り混じって、心の中が可視化されていた。

ミステリーとして説得力を持たせる為の理由付けのカットはいくらでも入れることは出来たはずだ。でもそうすると単なる物語になってしまう。

この一連、月末は強引に引っ張られて、何が何だか解らなかったかも知れない。ここは引っ張る松田より引っ張られる錦戸の方が難しい。錦戸には一貫してニュートラルな中に微妙なニュアンスの変化がある。

審判はノロロ様が下す。社会を維持する為に措定されたノロロ様、結果は解っている。それは宮越も解っている。審判は宮越にとって救済だったのかも知れない。

 

劇伴はプリペアドPfか、サンプリングsynか、それともギターをミュートして作ったか。6人の疑念を誘うようなところにサスペンス効果も兼ねて付けられている。良く聴けば調性はあるがほとんど効果音的な音楽である。感情を増幅するようなことにならない様、細心の注意を払っている。

確か二か所、崖の上でノロロ様を説明するところ、友情らしきものをお互いが感じるところ(?) にギターの分散和音で音楽らしい音楽が鳴る。突如の音楽らしい音楽にちょっと唐突感があった。理屈としては解るが、音楽無しでも良かったか。

二人が崖から飛び降りるところ、音楽的にはクライマックス、ここだけはSynが厚く荘厳なメロディを奏した。宗教的な意味合いか。Synの響きがちょっと安っぽい感じに聴こえた。唐突に人声の大コーラスというのも映画のデフォルメとしてはありだったか。

などと勝手なことを言いつつ、全体に映画の内容を良く理解した音楽。エンディングはボブ・ディランの曲「DEATH IS NOT THE END」のNick Cave & The Bad Seedsによるカバー。歌詞が解らないのだが、音楽の流れとしては素朴な感じで良かった。

 

おそらく監督が細かい指示を出し音を一つずつ貼り付けていったのだろう。きっと監督は自分の思い通りに出来た。これは一つの完成型である。

楽家から全く違った発想が提案されることがある。その時監督の意図を超えた掛け算効果が生まれる。例えばどこかの民族音楽、あるいはそれ風、ガムランだったりイランだったり、楽器のディジュリドゥだったり、そんな全く異質の音楽をぶつけた時、映画は芳醇な別世界になる。街を覆うノロロ様のテーマだ。音楽を監督がコントロールすると監督の知っている音楽の範囲を出ない。それで充分ではあるのだが、映画が劇的に変わることはない。プリペアドPfの効果音的劇伴は西欧的知性的現代音楽の響きである。もっと土の匂いのする音楽を見つけられたら、違った映画になっていたかも知れない。

パリ、テキサス」(1984) のライ・ク―ダ―のスライドギターのテイストでやる手もあったかなどと勝手に色々考えた。

 

羊の木とは、有り得ないことが起きる、そんな意味か。

たかだか人間の理性、判断出来ないものは山ほどある。その為にはやっぱり神様は必要だ。政治化してない素朴な神様、人間が措定したノロロ様はきっとのっぺらぼうだ。

 

監督.  吉田大八    音楽.  山口龍夫