映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.07.03 「空飛ぶタイヤ」 丸の内ピカデリー

2018.07.03「空飛ぶタイヤ丸の内ピカデリー

 

かつて邦画には社会派エンタテイメントというジャンルがあった。代表的な監督は山本薩夫である。「白い巨塔」(1966)「華麗なる一族」(1974)「金環蝕」(1975)「皇帝のいない八月」(1978)等、企業や政治の闇に切り込んだストーリーに、スターを配して、一級の娯楽作品とした。

この映画はその系譜に連なる。邦画の久々の社会派エンタテイメントである。誰が見ても面白い様に出来ている。人生を深く洞察するという様なことは無いかも知れないが、社会の不正への憤り、その中で右往左往する人間の哀しさ儚さままならなさが、万人の共感を呼ぶ。

ホープ自動車となっているが、モデルは三菱自動車あたりか。走行中のトラックのタイヤが外れ、歩道を歩いていた母娘を襲う。母親は死ぬ。運送会社の若き二代目社長(長瀬智也)が自社の整備不良をひたすら詫びる。可愛がっていた若き整備工だったが即刻クビを言い渡す。その整備工は細かくチェックリストを付けていた。整備不良では絶対にありませんと言い切る。もしかしてトラック自体の構造に欠陥があるのでは… そこから、小さな運送会社と財閥系のホープ自動車の戦いが始まる。まるで蟻と像、歯が立たない。けんもほろろだ。実はこの構造的欠陥をホープ自動車の極一部では認識されていた。それに気付いたホープ自動車のエリート(ディーン・フジオカ)が、これを正義感からではなく、出世の道具として利用する。

会社は正義では動かない。利害で動く。それが“会社の都合”という言葉になる。会社勤めを少しでも経験した者には解るはずだ。“会社の都合”が何より優先することを。それを補強するのが、従業員とその家族に責任がある、というお題目。そこに会社の社会的責任は微塵もない。企業の社会的責任なんて言ったら、何青臭いこと言ってるんだと笑われてしまう。

ただ近年コンプライアンスの名のもとに法令順守が厳しくなっており、発覚した時の騒ぎを考えて企業も神経を使う様にはなっている。ただ、後で高いものにつかない様細心の注意を払いつつ、隠せるものは隠せ!は変わらない。

従業員とその家族を守るということに於いては小さな運送会社の社長とて同じだ。ホープ自動車から黙って1億受け取れと提案がある。これで無かったことにしろという話だ。先代から仕える専務(笹野高史)はこれで会社が救われると喜ぶ。しかし二代目熱血漢は悩んだ末に喉から手が出るほど欲しいこの金を、拒否する。この正義感、大衆娯楽の真骨頂。確かに規模が小さいから出来るとは言える。巨大になれば成る程、会社の都合は侵さざるものになり、正義感は埋没する。

社長が拒否すると、それまで喜んでいた専務は、怒るでもなく、そうですか、解りました、と飄々と仕事を続ける。「終わった人」でカツラを被った笹野より、こっちの方が断然良い。

長瀬とD・フジオカを交互に描いて、問題が明るみに出ていく脚本(林民夫)が上手い。今は内部告発とPCのメールが真相究明の重要なツール。昔はそれを女が担っていた。D・フジオカとムロツヨシ等が社内情報のやり取りをする夜の酒場はホテルのラウンジかサロンの様な所、昔だったら銀座のクラブと決まっていた。そこに女が絡んだ。銀座のクラブが寂れるのはもっともだと納得。深キョンが長瀬の妻役で出ているが話に深く絡む訳ではない。女優ッ気のない映画である。

同じ様な事故があちこちで起きている。そのリストを手に入れた長瀬は全国の運送会社を訪ね歩く。構造的欠陥であることが明白になっていく。ホープ自動車の社内の隠蔽がD・フジオカ等によって暴かれていく。両方が同時並行して隠蔽の大元、ホープ自動車専務(岸部一徳)にたどり着き、クライマックスとなる。

ここは一貫した太い音楽で括って欲しかった。その方が盛り上がる。音楽・安川午朗。ドラマに則して細かく付けられていて、どれも役割を果たしている。ただひとつ、クライマックスに向かう太い旋律があれば。

山本薩夫には佐藤勝という剛腕作曲家がいた。佐藤だったらシーン変わりに引っ張られることなく、大編成の太いテーマでクライマックスに持って行ったはずだ。安川午朗は小編成の細かいドラマに合わせた音楽は的確なのだが、大きな編成で太くテーマ押しでやるべきところに物足りなさを感じる。

欠陥と隠蔽が明るみに出てリコールとなり専務は失脚、言われるままに融資していた財閥系本丸の銀行の重役も失脚、実は銀行の戦略室のエリート(高橋一生)が描いていた青図通りだったことを匂わせ、映画は終わる。程無くして、ホープ自動車は吸収合併されて消滅、財閥はお荷物だったホープ自動車を処理することが出来、政治は自動車業界の淘汰と再編を一歩進めることが出来たのである。

D・フジオカやムロツヨシはどうなったのだろう。二代目社長の運送会社は無事やっていけてるのか。結局は“会社の都合”の名の下にコマとして使われてしまうやりきれなさが残る。

 

主題歌・サザンオールスターズ。桑田が云々、曲が云々の前に、主題歌を作るということを考えるべきである。名の知れたアーティストに主題歌を歌わせて宣伝に寄与させると言う時代はとうに過ぎている。映画の余韻をしっかりと担保して観客に音として残す様な主題歌は別、そうでない限り主題歌は止めた方が良い。そんなの解り切ったことだろうに。

“会社の都合”か。

 

監督.本木克英   音楽.安川午朗