映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.07.26 「女と男の観覧車」 丸の内ピカデリー

2018.07.26「女と男の観覧車」丸の内ピカデリー

 

ウッディ・アレン師匠のNYマンハッタン亭、今宵のお噺はケイト・ウィンスレットを主演に迎えてのロングアイランド物語、相変わらずの軽妙洒脱な語り口、これ既に名人の域、まずはその芸をご堪能あれ。

1950年代、盛りを過ぎたロングアイランド、舞台女優の夢破れ、遊園地職員のハンプティ(ジム・ペルーシ)と一緒になったジニー(ケイト・ウィンスレット)、前夫との間にガキ一人、ハンプティにも前妻との間に娘ひとり、ともに再婚同志。娘のキャロライナ(ジュノー・テンプル)は二十歳そこそこで性悪のギャングと駆け落ち。それが突然戻って来たところからお噺は始まる。殺されるかも知れないという娘を始めは突っ返すハンプティ、だが可愛い娘、結局は一緒に住みだす。それでなくとも演劇からは最も遠いところで生きるハンプティにジニーは違和感を感じていた。そこにキャロライナが加わって一触即発。白馬の騎士宜しく颯爽と現れたひと夏のアルバイト監視員のマッチョ男ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)、大学で演劇を学び、将来は劇作家を目指す。シェイクスピアから始まり、チェーホフテネシー・ウィリアムズと来れば、ジニーがコロッと行くのはいと容易。海の家(アメリカでは何と言うのだろう)の影に隠れての密会、浅はかと笑うなかれ、ジニーは現実からの脱出を夢見てしまう。ミッキーの演劇はナンパのネタだったか、若いキャロライナを見た瞬間、心はそっちへと走る。義理の娘に男を取られた。ジニーは狂う。それでなくともテンションは高め、身振り手振りも大仰で演劇的だ。全てがハンプティにもミッキーにもキャロライナにもバレる。舞台衣装らしきものを着てメイクをして、ミッキーに朗々と捲し立てる姿は哀しくも鬼気迫るものがある。ケイト・ウィンスレット、大熱演だ。

 

ケイト・ウィンスレットは気品のある綺麗な顔の持ち主、「愛を読むひと」を思い出す。だが僕は全く別の下らないことが気になって仕方なかった。何であんな頑丈な体躯をしているのだろう。夢破れた中年女だからスレンダーである必要はない。でも肩幅広く、厚い胸板、しっかりとした腰回り、身体が儚さを拒否している。その身体で演劇的大仰を演じている。熱演なのだがどうしても入り込めなかった。

キャロライナは胸を強調してお尻を振って、アメリカンバカ娘の典型、自分のことを“アタイはね”と言うのではと思っていたら、後半意外にも夜学に通い堅実、尻軽ではなかった。尻軽はギャングとの間で卒業したのだろう。芝居も唯一普通の映画的テンション。大仰肉厚な役者と芝居に囲まれて、唯一映画的で爽やかささえ漂わす儲け役だった。

音楽は全て50年代の既成曲。師匠の選曲と変幻自在な充て方は右に出るもの無し。洋楽を聞き始めた僕はちょっと背伸びして僕の世代の少し前のこの頃の曲を随分聴いた。ミルス・ブラザース、ライチャス・ブラザース、そんな名前が浮かぶ。解った曲名は「ブルーレディに赤いバラ」「キッス・オブ・ファイアー」位。でもどれも耳馴染んだ曲ばかり。ローリングの既成曲リストをゆっくり見たかった。男声ジャズコーラスを中心に選ばれている。

 

ジニーの連れ子のクソガキが出てくる。このガキ、ストーリーに関係なく突然現れて、いつも火を付けて回る。電柱、ゴミ箱、納屋…、幸い大火にはならずに済んでいる。こいつの意味は何なんだろう。あまりにシュール過ぎて解らない。まるで赤塚不二夫の考え出すキャラクターみたいだ。でもこいつが居るので映画が面白くなっていることは確かだ。師匠の語り芸の真骨頂。“火事小僧!”

 

 

監督・脚本.ウッディ・アレン   音楽クレジット無し