映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.09.13「検察側の罪人」新宿ピカデリー

2018.09.13「検察側の罪人新宿ピカデリー

 

キムタク、ニノ、夢の競演が売り。人気者二人、スケジュールはピンポイントだったのだろう。脚本を詰め切れてないのは明らか。原田監督自身の強い思いの企画ならいざ知らず、そうでなければ脚本に第三者を入れるべきだった。三人寄れば文殊の知恵、客観性が出る。この多層で複雑な話、一回見ただけで一体どれ位の人が解るものか。早いカットでの展開、台詞による説明、必死に追ったが僕の理解力では着いていけなかった。

 

実の妹の様に可愛がり、また慕われもしていた少女がレイプの末、無残に殺される。犯人は逮捕されるが検察は物証を固めきれず、無罪釈放、そして時効。これをトラウマとして抱えるエリート検事・最上 (木村拓哉)。その部下として配属される将来を嘱望されている若手検事・沖野 (二宮和也)。

ファーストカットは失念、ただ最初の音楽は、女声のヴォーカリーズの様なSynのVoiceの様な、これから始まるこの映画の事件を予兆させて良い。メロディーもそうだが音色、あとでこれは二胡 (中国の弦楽器) であることが分かる。何故か最上が帰宅すると妻が二胡を弾いているシーンが出てくる。この妻役・土屋玲子、バイオリニストであり二胡奏者でもあり、映画の音楽を富貴晴美と共同で担当している人である。二胡がメロを取る劇伴はこの人の手になる曲なのだろう。珍しい楽器だから何か意味があるのかも知れない。僕には解らなかった。ただこの音色で全編を通すならと期待が膨らむ。

 

最上の深い拘りがもう一つ。祖父はインパール作戦に参加し白骨街道を生き延び、戦後その時死んでいった戦友の思いを書いて作家となった。その作戦がいかに理不尽なものだったか。社会の不正国家の不正、それに対する強い憤りがある。

日常の中で個人としての人間が起こす悪に対する正義、国や社会が犯す悪事に対する正義、最上はこの二つの正義への思いを抱えて検事となる。

 

今、目の前で金目当ての夫婦殺人事件が起きる。その被疑者の中に嘗て少女レイプ殺人で検察が詰め切れず釈放となった男の名前があった。松倉 (酒向芳)、いかにも悪党、というより少し異常性を漂わす。取調室の彼を見て、こいつが犯人に違いないと誰しも思うだろう。この役者、知らなかった。最上の憎悪が蘇る。

一方、代議士の娘と結婚し、法曹から政治の世界に転身し、今は代議士となっている学生時代の刎頚の友・丹野 (平岳大) が、金絡みのスキャンダルで窮地に立たされている。妻の父親は黒い噂が付きまとう政界の大物。丹野は義理の父の疑獄の証拠となる資料を持ち出そうとしてハメられたらしい。こちらは大きな正義を通そうと命懸けで戦う。検察も動き出している。大きな正義は時の政治に左右される。最上は検察の動きを密かに漏らしている。

最上が丹野に言う“君は好きだから結婚したのか、それとも政治的野望の為か”(不確か)

大物政治家は極右勢力と繋がりを持つ。

これだけの状況を端的に解らせるには、小説ならいざ知らず、限られた時間の映画では大変なことである。メインの話はあくまで日常の正義、時効をむかえてしまった少女殺しの犯人を目の前にして、正義の鉄槌を打ち下ろすという話だ。

 

後半からは荒唐無稽な現代版「必殺仕置人」へと飛躍する。沖野が強引な取調べで松倉に時効になった少女殺しを自白させる。しかし時効、裁きは下せない。夫婦殺しも松倉に違いない。最上の正義感と思い込みが松倉をぐいぐいと犯人に仕立て上げていく。酒向芳の怪演が、さもありなんと思わせる。最上は沖野が研修生の頃、思い込みが冷静な捜査の目を曇らせると教えていた。沖野に最上への疑念がわく。そんな時、唐突に真犯人として弓岡 (大倉孝二) が浮上する。飲み屋で夫婦殺しを自慢げに話していたというのだ。随分と都合の良い話だ。弓岡が真犯人となるとまたしても松倉を法の下で裁けないと考えた最上は、弓岡を殺害する。こうなると検事などではない、必殺仕置人、あるいはただの復讐鬼。ピストルやら何やらの手配段取りは裏社会の便利屋・諏訪部 (松重豊) が引き受ける。諏訪部の父親は白骨街道で戦死、最上と諏訪部はインパールへの思いで繋がっている。ギャング映画に必ず出てくる裏社会の便利屋、松重がいい味を出す。ここのところの松重は一時の大杉漣の様。引っ張りダコで外れがない。

この突然の荒唐無稽の展開、そのアリバイ工作の為、細かい説明シーンが次々に出てくる。別件逮捕、ガサ入れ、不都合な領収書をポケットにねじ込む最上、途中でどうでもよくなる。とても追い切れない。要は、少女殺しの犯人を別件でもいいから法で裁こうと、弓岡を殺して松倉を夫婦殺しの犯人として仕立て上げるという最上のストーリーだ。弓岡の死体を埋める為に必死で穴を掘る最上はどう見ても尋常ではない。

最上に疑念を抱いた沖野が反旗を翻し、松倉は犯人ではないことが証明される。どんな証明だったかは忘れた、解らなかった。

松倉の無罪獲得を祝うパーティーが開かれる。そこで白川 (山崎努) が挨拶に立つ。この人てっきり右翼の大物だと思った。この男が丹野の義父の代議士と繋がり、インパールへと繋がる。松倉はその末端、そうして大きな悪と小さな悪が一つの流れとなる。そんなストーリーを勝手に作って見ていた。ところが何と白川は冤罪阻止の人権派の大物弁護士だった。山崎努の出番はここだけ。物語の中心には関わらない。

松倉は怪しげな交通事故で死ぬ。諏訪部の段取りである。

これだけのことをやりながら最上は相変わらず検察官である。沖野はどこまで把握しているのか。訪ねてきた沖野に最上は自殺した丹野が残したメモを示す。命と引き換えに丹野が残した義父の代議士の悪事の記録である。この件を一緒に命がけでやらないか? なのか。俺はもうじき逮捕されるからこれを頼む、なのか。大悪小悪、大小問わず法律を犯してでも正義を通す為には誰かがやらなければならない、なのか。

沖野が不条理な叫びを上げて映画は終る。ユーモアの欠片もなくホッとする所もないまま方的にまくし立てられて終ってしまった感じ。

実はここまで書くのに初めてネットで数多ある映画のブログを見てしまった。基本的に人のブログは見ないことにしている。PCを使いこなせていないということもある。初めて映画のブログを検索してあまりの多さに驚愕。そして粗筋なるものが細かく書かれているブログがあることに驚いた。こういう人は一回見ただけでこんなにも細部までストーリーを把握するのか。僕の何十倍も話を理解している。幾つか参考にした。そうでなかったらこんなに話をきちんとは書けなかった。一度見ただけでよくここまで話を理解するもの…

 

例えば、松本清張 (原作)、橋本忍 (脚本)、野村芳太郎 (監督) の作品には、罪は罪としながらも、どうしようもなく殺人犯への同情がわく。犯人に感情移入が出来る。殺すことになってしまった理由が見ている側が納得するように丁寧に描かれる。法の裁きが理不尽とさえ思える。

最上が執拗に松倉を追い詰める、ついには法の手を経ずに殺す、これにどの位の人が納得して、解るよなぁ、その気持ち、となれるか。その為には少女と最上の関係がしっかりと描かれていなければならない。事件がいかに酷いものだったかが伝わってこなければならない。時効という制度の是非も。この大元が希薄なのだ。

インパールやら丹野の政治的不正の追求やら、こちらはさりげなく挟んで物語に深みを作る程度で抑えて、まずは本筋をしっかり描かなくては。このメリハリが脚本で詰め切れてない。未読だが膨大な原作なのだろう。その中から核となる物語をしっかり押さえ、後は捨てるか匂わせる。百戦錬磨のプロに釈迦に説法とは思うが、それが原作物映画化の基本。本作りに第三者が入っていればこんなに満遍なく焦点絞らずエピソードを並べ、話の辻褄合わせに振り回され、ただ尺だけを喰ってしまう、こんな脚本にはならなかっただろう。時間がなかったのかも知れないが…

 

音楽は冒頭の二胡の曲は時々出てくるものの、全体のトーンはラテン、オケの上にボンゴやコンガ、マリンバ等のラテンパーカッションが載る。ラテンムードミュージックと言った感じ。オープニングとエンディングに流れるメインテーマはマイナーの古臭いメロの曲だが映画には合っている。イイ感じで朗々と流れるが、途中のシーン替わりでバサッとカットアウト (CO) する。COの衝撃が演出効果を作っていると言うわけではない。ダビング (音付け作業) は素人がやっている訳ではないから監督指示の確信犯的COなのだろう。一体どういう効果を狙ったのか。

「タブー」「グリーン・アイズ」「パーフィディア」というラテンの名曲が、BGMとかカーラジオとか劇中音楽ということではなく、劇伴扱いで、かなりオンで流れる。突然「タブー」が流れて、確か丹野と最上が高級ホテルの一室で密会するシーンではなかったか (不確か)。一瞬二人はホモかと思った。

既成曲はすでにそれ自体が色を持っている。はっきりとした狙いがあって使うと大変な演出効果を生むが、単なる音源として劇伴扱いで使うと無様なだけだ。既成曲の力が心地よい流れを作り絞り難く、ついつい長く付けてしまう。その間の映像が持つドラマはノッペリと平坦になり、極端に言えば音楽ビデオの背景映像の様になってしまったりする。全体を見ずそのシーンに合うということだけで音楽を付けてしまうとダメなのだ。

既成音源ではなく新録しているよう。メロを譜面通りにきちんと演奏してフェイクするようなところはなく、古臭いラテンムード音楽のスタイル。これもわざわざ狙ったのだろうか。

 

編集が思ったように行かず、最後の手として強引に既成曲の力を借りて流れを作ったとしか思えない。デビッド・フィンチャー、日本では中島哲也などが、オリジナルや既成曲をゴチャマゼにして強引な音付けをして、上手くいってない映像を何とか力技で見せてしまうということをする。でもこれは音楽に精通していることと、充て方が神業的に上手いことと、全体がそのトーンで音付けされている、ということが揃って成立する。原田監督は音付けの悪あがきを「関ケ原」でもやっていた。音楽の少ない原田作品は「わが母の記」(2012)も「駆け出し男と駆け込み女」(2015)も「日本の一番長い日」(2015)も良い出来だった…

 

少女にまつわる回想で、子供たちが歌を唄うシーンが出てくる。綺麗な合唱ではなく自然に思い思いに。その曲が「Cry me a River」(ジュリー・ロンドンが唄って1950年代にヒットしたスタンダードの名曲)、この選曲は何なのか。川に向かって立ちすくむ少女の後姿のカットがある。それに合わせたとでもいうのか。こんなスタンダードナンバーを子供が唄うわけない。時代的にも1950年代の曲、最上が学生の頃ではない。時代が合わなくても子供が唄う歌でなくても、シーンに合っていて演出効果があれば良い。全く合わない。違和感だけだ。監督の思い入れなのだろうか…

 

キムタクもニノも吉高由里子 (冤罪の父を持つという役) も、熱演なのだろうが、結果として良かったとは思えない。好きな俳優だが大倉孝二はミスキャスト。

 

丹野の葬式ともう一箇所 (?) に大駱駝艦の舞踏の人たちが映っていた。あれは何なのだろう。日本の暗部の象徴とでもいうのだろうか。

 

監督・脚本. 原田眞人  音楽.富貴晴美土屋玲子