映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.10.16 「散り椿」 新宿ピカデリー

2018.10.16「散り椿新宿ピカデリー

 

端正な映画である。シーンシーンがまるで一服の絵の様、完璧で美しい。きっと要求通りの天気になるまで平気で待ち続けた黒澤映画の様な撮影をしたのだろう。脚本 (小泉堯史) も出来る限り削ぎ落とす、おそらく原作 (葉室麟、未読) も端正で凜としたものなのだろう。端正の塊のような映画だ。

おそらく監督には、ドラマを作るということは二の次、美しいシーンを作るということが第一にあった? それは見事に達成されている。

話はシンプル。四天王と言われた若き藩士が家老 (奥田瑛二) の不正を暴こうとするも失敗、その中の一人瓜生新兵衛 (岡田准一) は藩を追われ、妻 (麻生久美子) と流浪の旅に出る。妻は四天王の一人、榊原采女 (西島秀俊) と添うはずも家の反対に合い、新兵衛と結ばれることになった。二人は旅の過程で助け合い深い絆で結ばれて行く。その妻が病で身罷る。妻は、今は藩政の中枢で不正と戦う采女を助けてやってほしい、そしてもう一度故郷のあの散り椿が見たいと言い残す。新兵衛は藩に戻り、紆余曲折を経て、采女と助け合い、悪家老を倒す、という話である。

家老には藩の財政を立て直すという使命があり、その為には清濁併せのむことも必要だった。新兵衛にはどこかに消し切れない妻への猜疑心があり、友である采女への複雑な思いもあった。

それらを描こうとするとドロドロするから通り一遍の描写でサラッとかわす。複雑な感情をサラッとかわすとクライマックスの感動は浅くなる。観終わった後は、岡田の殺陣が凄い、岡田の所作が見事である、絵が綺麗、土砂降りの雨が黒澤映画の様だ、になってしまう。でもドラマは二の次、端正で美しい絵を撮りたかったのだから、思いは達せられている。

映画には、映像と音を使っての様々な表現方法がある。映像にシンクロした台詞や音付けは基本だが、それをズラしたり別のシーンの台詞をぶつけたり、単純な回想やナレーション処理だけでなく、その表現方法は多様だ。この映画は敢えてそれを使わない。回想やナレーションは使うものの、基本は完璧なシーンを作りその音付けをしてシーンとして完結させることだ。狙い通り一つ一つのシーンは完璧、きちんと収まり落ち着き払う。

役者は決められた台詞をきちんと言い、決められた所作をきちんと演じる。落ち着き払ってバレはない。

これって黒澤映画の真逆なのでは? 黒澤時代劇はエネルギーが次のシーンにまで溢れ出している。シーン毎に緩急が必ずある。「散り椿」ドラマに盛り上がりが欠けるからここぞという時に噴き出す血しぶきも土砂降りの雨も気持ちが付いてこないので浮いてしまう。そしてユーモアがどこにも見当たらない。何とシーン毎に独立して美しくドラマとして感動のない、でも見事な絵巻物の様な映画か。

黒澤よりも、静寂ということで僕は「切腹」を思い出した。「切腹」も落ち着き払ったシーンの連続の映画だ。でも火の出るような台詞のやり取りがある。最後は斬り合いの大移動だ。

そして武満徹武家社会の非人間的な不条理を映画の奥の方から見つめる音楽があった。

 

この映画の音楽は情感の薄さを補う為に付けられている。

音楽の種類は3つ (?) 、メインテーマ、バロック調の曲、馬の走りに付けられる西部劇の様なリズム強調の曲。でも印象としてはメインテーマのメロ押しのワンテーマ。マイナーのメロディーラインのハッキリした曲をチェロのソロで奏する。重厚ですっきりとしている。それがピアノになり、チェロとピアノのユニゾンになり、オケとのユニゾンになる。入り方はいつもメロ頭。エモーショナルな所には必ず入る。楽器は多少は違えどワンパターン。初めは情感を補強してくれたのだが、段々と、またか? になってしまった。ドラマの表層に付けられた音楽で奥行を作るような音楽ではない。解っていながら付けざるを得なかったのかも知れない。

美しい映像、絵ズラに合った音楽、ドラマに関係なく、どこを切り取ってもそれなりに見られる美しい絵巻物。監督はそれを狙ったのだろうから目的は達せられたはずだ。

 

岡田准一は確かにこの映画を支えている。良い役者になった。

 

監督・撮影.木村大作   音楽.加古隆