映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.11.09 「日日是好日」 シネリーブル池袋

2018.11.09「日日是好日」シネリーブル池袋

 

大森立嗣監督、麿赤児の息子、弟は大森南朋。関わった人は、荒井晴彦阪本順治井筒和幸荒戸源次郎、等(情報・ウィキペディアレベル)。「まほろ駅前多田便利軒」「さよなら渓谷」「光」といった作品群。そして風貌。てっきり武闘派かと思っていた。

その監督がお茶?間違いでは?

病気も殺人もレイプも色恋沙汰(少しはあるが)もない、等身大の女性・典子(黒木華)の20年に渡る成長記、それをお茶を通して描く。映画的スペクタクルや誇張はない。舞台はほとんどが茶室とその行きかえり、唯一広い画は海辺のみ。静かで落ち着いて普通、これが何と見事なエンタテイメントになっていたのだ。大森監督、ミスキャスト(ミス・スタッフィング?)ではなかった。

茶道の微妙な所作でエンタメを作る。袱紗の扱い、お茶のズルズルという飲み方、すり足などで笑わせる。干支に合わせた茶碗でゆったりとした人間社会の日常とは違った時間を表わす。ただ掛けられていただけの掛け軸の書が深い精神性を帯びてくる。説明的説教的なところは全くない。ごく自然に納得させてくれる。二十歳の大してお茶に興味もなかった普通の女性の目線で描かれているからだ。少女は成長し、目は深くなり、それが映画にも現れ、観る我々も一緒に茶道というものを理解していく。一人の女性の成長が我が事のように思えてくる。こんなデリケートを武闘派と思っていた監督がやりおおせたのだ。先入観で人を見てはいけない。

そういえば「セトウツミ」(拙ブログ2016.9.14)もこの監督だ。二人の高校生(池松壮亮菅田将暉)が公園の階段に座り、ひたすらオシャベリをする。カメラがそれをほとんど正面からフィックスで捉える。それだけである時期の少年の心の揺れを見事に映画的表現として成立させていた。成る程、デリケートはいけたのだ。

 

二十歳の典子は普通だ。自分が何をしたいかも解らない。勧められて大してやる気もないまま,週一辺お茶の稽古に武田先生(樹木希林)の元へ通うようになる。お茶はまず形からという先生に、それ形式主義じゃないですかと典子、そうやって何でも頭で考えようとする、と軽くいなされる。まず初めに形ありき、中身は後から付いてくる。存在は本質に先んずる、サルトルだ。禅だ。深い考えもないまま、浅薄な連想をする。ありのままを受け入れよ。人間社会の音ではなく、自然の音に耳を傾けよ。雨の音、水の音、冷水とお湯では音が違うこと、お茶を注ぐ音。一見どうでもいいことを、週一回のお茶のお稽古で叩き込まれる。その内そんな態度が身に付いていき、音の違いが分る様になり、掛け軸の“滝”という殴り書きの様な書から音が聞こえてくる。

“滝”のシーン、文字を見つめる典子、グランドノイズと蝉の声がFOして素(無音)となり、ひと間置いて滝音がFIしてくる。このひと間の素が精神世界へ入っていくブリッジの役割をする。これがあるからその後の、“そうだ、ありのままに見れば良いのだ”というモノローグが生きてくる。“滝”の音、FOして茶室の静寂。典子は一つ成長したのだ。こういうデリケートな音付けは良い。

大森監督は音に対して繊細だ。「セトウツミ」でもグランドノイズの処理が上手かった。グランドノイズ、台詞の後ろに流れる街ノイズや空気音、台詞でも効果音でもないから有っても無くてもよいようなものと思われがちだ。突然これが無くなった時初めて気が付く。普通はこれを意識することはない。しかしこれを無くすと同じ画面を突然異次元のものにすることが出来る。映像が精神世界へ飛躍する。大森監督はこの処理が上手い。僕は素を上手く使う監督は好きだ。

週一回のお茶のお稽古、それは週一回非日常の時間を持つということだ。人間社会からちょっと飛躍した時間を持つということ。そこには人間社会を超えた大きな自然世界がある。悠久の時間の流れがある。生まれて死んでいく人間。その途中にある人間社会のアクセクがどうでも良いことに感じられる時間。生命の不思議、生まれて来たことへの感謝。小さな庭の木々にカメラが寄り、それがズームして植物の中に入り、細胞を突き進み、DNAにまで達するあのシーン、「モリの居る場所」(拙ブログ2018.10.01)でモリ(山崎努)が飽くことなく見続けたあの生命の不思議だ。

茶道とは、茶室に入り、お茶をたて、茶器を眺め、、掛け軸(禅画)を見つめて、アクセクを脱ぎ捨て、心を宇宙に解放する、それを習慣化するトレーニングなのだ、多分。それが典子と共にこちらにも解って来る。

20年の月日が流れる。その間父の死や失恋や上手くいかない就職や、色んなことがある。それでも週一回のお稽古には通い続けた。いつの間にかそれが典子の心の中心線になっていた。

 

この落ち着いた映画、それに躍動感を与えたのが世武裕子の音楽だ。ピアノでシンプル軽快な4拍子のメロ、中世の香りがするエチュードの様な曲。メロはシンプルだが左手(?)のコードは決してシンプルではない。画面に合わせて転調したように聴こえる。クオリティー高く画面に細かく合わせたこのテーマがお茶の所作に躍動感を与える。映画が弾む。このテーマはチェロやフルートとユニゾンになり、少しづつ成長に合わせて変化する。

もう一つのテーマ、こちらは3拍子、ヴァイオリン・ソロがメロをとる。こちらは落ち着きのある静、感情に則した使われ方。映像は余計な説明を省くべくFOを多用。そのFOの底からスーッと入って来るヴァイオリンは秀逸だ。これらの音楽が無かったら、こんなに流れの良い映画になってなかった。エンタメになってなかった。大森にとっても世武にとっても幸運な出会い。およそ接点のなさそうな二人を組ませた人は凄い。軽快でエチュードのようなピアノテーマを発想した世武が凄い。

 

俳優(男女とも)とは、美形非美形を問わず、目鼻立ちがハッキリして主張の強い顔を持つ人がなるものだと思っていた。黒木華の顔は平べったい。目鼻立ちの主張もない。全く普通だ。僕の中では役者顔の真逆である。最初に印象に残ったのは「小さいおうち」(拙ブログ2014.1.27)。役柄が田舎から出て来た素朴な女中さんということだったので、何とピッタリな娘を見つけて来たものだと感心した。役柄に見事にハマっていた。次に「銀の匙」(2014)でお嬢様役をやった時にはやっぱり役者向きではないなと思った。「リップヴァンウィンクルの花嫁」(拙ブログ2016.4.22)で驚いた。今回の作品でさらに驚いた。今、“普通”をやらせたら右に出る者はいないのではないか。“普通”というのは役者にとって一番難しいのかも知れない。「リップヴァン~」もそうだったし、この作品もそうである。どちらも“普通”の女の子でなければダメなのだ。“普通”がいつの間にか輝きだすのだ。二十歳の“普通”の女の子が二十年を経て、落ち着いて少しふっくらとして、「日日是好日」という言葉が解って来る、このデリケートを黒木華は見事に演じた。平べったい顔の役者は絶対必要だ。ここでもまた先入観は打ち砕かれた。

 

樹木希林は、演じているのか本人がそのままそこにいるのか、見分けが付かない。多分死期が迫っていることを解っていた頃の撮影のはずだ。武田先生と一体となって悠久の時間と生まれてきたことへの感謝を感じながら演じていたのかも知れない。

 

お父さん(鶴見辰吾)が死んだ後の、海辺のイリュージョンは無くてもよかったのでは。“ありがとう!”でお父さんは見えてくる。

 

監督. 大森立嗣    音楽. 世武裕子