映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.11.29 「鈴木家の嘘」 新宿ピカデリー

2018.11.29「鈴木家の嘘」新宿ピカデリー

 

「○○家の~」というとどうしてもコメディを想像してしまう。ましてや岸部一徳だ。これは軽いホームコメディに違いない。ところがノッケから引き籠り息子の首つり自殺だ。でも肝心なところは写さず避けている。これはその内カメラが引いて行くとTV画面になり、お茶をすすりながらそれを見る茶の間になるに違いない。“引き籠り自殺なんて可哀そうね、でも押入れの梁に紐吊って首つりなんて出来るもの?”そんな台詞がいつ被って来るか待っていた。ところがそんな台詞はあらわれず、映画はシリアスそのもの。重くて暗い。この導入、想定していたものとあまりに違うので暫く気持ちの整理が付かなかった。

 

引き籠りの長男・浩一(加瀬亮)が自分の部屋で首つり自殺する。母・悠子(原日出子)が発見しショックで記憶を失う。四十九日法要を済ませて親族が病院を訪れると、そこで母は意識が戻る。但し浩一の自殺ということだけは消されたままだ。

“浩一は?” とっさに妹・富美(木竜麻生)が、“お兄ちゃん、引き籠り止めて部屋から出て、おじさんのアルゼンチンの会社で働いているの” 父・幸男(岸部一徳)も直ぐに同調する。叔父・博(大森南朋)は確かにアルゼンチンと行ったり来たりの仕事をしていた。

それからはこの嘘を守る為にみんなが右往左往することになる。重くシリアスな通奏低音は変わらなくもその上にてんてこ舞いのコメディが乗っかる。

富美は浩一から母に宛てた手紙を書き、それを叔父の部下に頼んでわざわざアルゼンチンから投函してもらう。父は浩一の痕跡を捜してソープランドのイヴちゃんの元に通う(このエピソード、どこか見逃したか、僕には良く解らなかった)。みんなそれぞれ浩一の自殺の理由を解ろうとする。それを自分との関わりの中に見つけて自分を責める。ひとり博だけがアルゼンチンの女を妻に迎え、ラテンのノリで映画を明るくする。

嘘を守ろうとするコメディと、自分との関わりの中で自殺の理由を解ろうとするシリアスな謎解きの要素が絶妙にブレンドされて飽くことなく展開していく。それぞれが浩一の死を一所懸命考えたのだ。でも家族と言えど心の闇は解らない。

 

自殺の“何故?”は周囲に深く突き刺さる。こうしておけば良かった、こうしておけば追い詰めることにはならなかった、残された者は自分との関係の中で理由の欠片を探す。それは自分を納得させる作業なのかも知れない。

 

富美は身内の死を抱えた人が集まる心理療法のようなサークルに通う。順番に自分の経験を話すのだが、自分の番が来ると毎回パスする。終盤、遂にパスせず話した、堰を切ったように。この映画のクライマックスだ。カメラはワンカット長回しで富美を映し続ける。木竜麻生が富美と同化してのり移った様に演じる。このシーンはこの映画の白眉だ。僕はこの女優を知らなかった。「菊とギロチン」(残念ながら未見)でも好演したらしい。きっと色んな賞を取るに違いない。

岸部一徳は居るだけでユーモアとペーソスが漂う。岸部が演じると勝手にこちらでその人のそれまでの人生を想像してしまう。脚本で描いたキャラクターを十倍くらい膨らますことが出来る役者だ。

原日出子は嘘を感づいている様ないない様な、そんな淡いを見事に演じていた。本当は一番葛藤すべきは母親だったはずだ。この映画はそこを描いていない。それは映画が終わったあとに始まるのだ。きっと父と妹がそれを支える。そこまで描くともっと重いものになってしまう。映画としては程好い纏め方だと思う。

大森南朋はこんなラテンのノリも出来たのだ。

そして加瀬亮、少ししか映らないが、陰の主役としてしっかりと存在感を発揮した。受験やら就職やらが上手くいかずマザコンゆえに引き籠ってしまった。甘えているのだが、それでも本人はさぞ辛かったんだろうなあと解らせてくれる。

岸本加世子はしっかりと普通のおばさんを演じていた。役者はみんな素晴らしい。

 

やがて嘘はバレる。みんなで一所懸命嘘をついたことがこの家族の求心力となった。母はそれに感謝し、父と妹は浩一の死を納得しないまでも受け入れる。微かに光の射す終わり方である。

 

音楽、明星。主に橋口亮介作品を担当している人だ。ポピュラー系、楽器はピアノかキーボード? 音楽は最小限必要な所のみ。その音楽も考え得る限りのシンプルさ。3拍子4分音符の短い動機。これがテーマとして配置される。ピアノソロだったり、後ろにチェロが薄く入ったり。決して邪魔にならない。多分監督は優しくて邪魔にならないことを一番に考えたのだ。優しさはあるが主張しない音楽が欲しかったのだ。その通りになっている。これはこれで良いのかも知れない。

でも僕は観終わって印象に残ったのは劇中に劇伴として使われていたベートーヴェンピアノソナタ(「悲愴」第二楽章)だった。明るくもなく暗くもなく、希望でもなく絶望でもない、この有名なテーマはこの映画にピッタリだった。いっそこのテーマで通せば良かった。少なくともエンドロールはこれで行ってほしかった。明星の歌が合ってないというのではない。この映画に限らないのだが、エンドロールで突然歌が入るのはよほど奇跡的なことが無い限り、音楽の質が違うゆえに、耳馴染んでないゆえに、違和感がある。大ヒットを狙うタイアップだらけの映画なら仕方ない。宣伝効果を考えれば多少の違和感には目をつむる。しかしこの映画の様に中身で勝負する映画、エンドロールまできっちりと演出してほしいのだ。エンドはこれで行ってほしかった。

僕はこの曲、長らくベートーヴェンと知らなかった。クラシックの素養がないのでビリー・ジョエルの「This Night」(サビはこのメロに歌詞を付けている)だと思っていた。歌詞は解らないがビリーが唄うと強い意志を感じる力強いものになっている。ベートーヴェンと知って原曲を聴いた時、あまりの違いに驚いた。何とも曖昧でひ弱で明るくもなく暗くもない。でもその内、繊細で決して非力ではなく希望だって微かにある、そう聴こえて来た。この曲を映画の中に使ったのは正解である。だったらこのテーマで通せば良かった。あるいは劇中の音楽は全部無しにして、エンドにだけこれを流す、でも良かった。

しっかりした脚本で上手い構成、とても初監督作品とは思えない。良い映画だったので、つい勝手なことを言ってしまいました。ゴメンナサイ。

 

監督・脚本.野尻克己    音楽.明星    主題歌.明星