映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

 

暫く更新を怠っていた。今年最初のUPである。今年に入ってまだ映画を二本しか見ていない。一本目は「家に帰ろう」、とっても良い。これについては近々UPの予定。二本目がこれ、重いだろうことは想像がついた。平和な日本でゆる~く暮らす僕にとってはちょっと億劫な気もしたが、観て良かった。

 

バハール (ゴルシフテ・ファラハ二) はクルド人、フランスに留学した経験を持つ弁護士。夫と幼い息子一人。家で寛いでいるところを突然ISに襲われる。男たちは塀に並べられ、こともなげに銃殺される。食べたり話したりの日常の行為の延長の様に。息子はISの手で戦闘員として洗脳教育するべく連れ去られる。バハールは性奴隷として奴隷市場に売られ売買を繰り返される。

これは劇映画だ。脚本があり、演出され、俳優が演じている。似たようなことが現実に起きていることを僕らはニュース等で知っている。だから映画として創り出されたものであると距離を置いて見ることが出来ない。普通の映画の様な距離感が取れない。今起きている現実が映画として再現されている様で、映画の良し悪しという見方が難しい。

決してドキュメンタリーの様な作りではない。むしろきちんとしたエンタテイメントの作りだ。もっとドキュメンタリー寄りの作り方もあったはずだ。その辺は意見の分かれるところだと思う。

 

人は人を平気で殺す。ナチはその工場まで作った。随分前、「朝まで生テレビ」の『南京大虐殺』の特集で、従軍した人が、何万人か解らないが中国人の手足を縛り縄で数珠つなぎにして次から次へと揚子江に落としていったと泣きながら語ったのを強烈に覚えている。アメリカはベトナムでソンミ事件を起こしている。ロシアもポーランドカティンの森事件を起こしている。中国でもアフリカでもユーゴスラビアでも。人間は人間を平気で殺すのだ。山で遭難した人を救出するとか、洞窟に取り残された子供たちを世界中が協力して助け出すとか、人ひとりの命は地球より重いなんて、平和な一時だけの話だ。人類の歴史は同類同志の殺し合いの歴史である。もしかしたら生物としてはそれが自然なのかも知れない。それを超えるのが人間の文化だ。相変わらず人類は自然のまんまであり、一向に進歩していない。

そんな現実がシリアでは、今、ある。日本に生まれて良かった、今の日本に生まれて良かった… 戦いの悲惨は女に凝縮される。映画はその凝縮としてバハールを描く。

 

アサド政権があり、反政府勢力があり、ISが居て、クルド人がいる。それにロシアやアメリカやトルコが絡む。みんなそれぞれ歴史を背負い、利害が絡み、それなりの言い分がある。ISにだってそれなりの言い分はあるはずだ。成る程、長い間にわたり男が作った歴史の結果だ。今、世界は男の歴史の帰結としてある。

この映画の視点は明解だ。悲惨の凝縮としての女からの視点だ。だから余計な政治状況の説明はない。自分たちをこんな悲惨に合わせた者、それが敵だ。

 

ISから逃げ出した女たちが武器を取る。バハールを中心に ”太陽の女たち” という武装集団が自然発生的に生まれる。女たちは街を奪還する為に戦う。バハールは息子を奪い返すために戦う。

回想で、ISから命懸けで逃れるエピソードが語られる。この回想は鬼気迫るものがある。破水した妊婦を連れての脱出劇だ。国境検問所までの数十メートル、途中で産み落としたら追手に捕まる。あと数メートル我慢! 手に汗握るシーン、女ならではの視点。

 

似たようなシチュエーションで「灼熱の魂」(拙ブログ2012.2.15.) があった。謎解きサスペンス仕立てで作劇は凝っていた。映画的興趣としてはこちらが上かも知れない。何せ監督は今をときめくドゥニ・ビルヌーブ、この作品の後、「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18)「メッセージ」(拙ブログ2017.5.23)「ブレードランナー2049」(拙ブログ2017.11.10)を撮っている。自身の作家性と商業主義のバランスを見事に取っている人だ。

それに比べるとこちらの作劇はシンプルで一直線だ。今起きている現実がそうだからだ。シンプルな筋立てにリアリティを与え、一級品にまで引き上げているのがバハール役のゴルシフテ・ファラハ二という女優。僕はこの人を知らなかった。この映画の為にオーディションで見つけたのかと思っていた。圧倒的な美貌、その大きな瞳は神懸っている。戦うミューズである。バハールそのもの、この映画の為にだけ女優になった人だと思った。今後他の役はやらないし出来ないだろうと思った。ところがジャームッシュの映画やなんと「パイレーツオブカリビアン」にまで出ている人だという。僕には想像がつかない。もしこちらを先に見ていたらどうだっただろうか。

 

音楽は ”太陽の女たち” が戦闘の合間に唄う歌が全てである。

 

私たち女がやってきたぞ 私たち女が街に入っていくぞ

戦いの準備は万端だ 私たちの信念で奴らを一掃しよう

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の時代

女たち それは最後の銃弾 手元に残された手榴弾

この体と血が土地と子孫を育む 母乳は赤く染まり 私たちの死が命を産むだろう

私たちはゴルディンの女 

さあ街に入ろう 戦いの準備は万端だ

私たちの信念 新しい日の始まり

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の…  (予告編の字幕より ネット調べ)

 

この歌は実際のものかと思ったら、監督が現地の女性たちを取材した中で作ったオリジナルなのだそうである。曲も現地の音楽を参考にして音楽担当のM・キビ―が作ったとのこと。実際に現地で唄われている様にしか思えない。この歌がこの映画の全てを語っている。

 

劇伴はかなりしっかりと入っている。映画自体が基本的にはエンタテイメントの作りを守っており、従って音楽もエンタメ映画の付け方である。感情と状況に即してしっかりと付けている。ピアノをリバーブ目一杯効かせて回想シーンやサスペンスシーンにあてたり、Tpがソロを取ったり、大きくはないが弦もしっかりと入っている。少しエモーショナル過ぎやしないかというところもある。もっと音楽を減らして辛口にした方がよかったのではと思う。

 

”太陽の女たち” は街の奪還に成功し、バハールは息子を取り戻す。この辺は随分あっさりした描き方だ。洗脳された息子がバハールを撃ってしまう位の結末かと思ったら、無事に救出されて終わった。後味は良い。映画的作劇に毒されているのは僕の方だった。

 

隻眼の仏ジャーナリスト・マチルド (エマニュエル・ベルコ) 、彼女はバハールを見つめ報道して世界に発信する。彼女は外の世界からのバハールたちへの連帯の象徴だ。報道なんてワンクリックで終わり (そんな意味、不確か) と言う彼女の言葉が痛い。それでも彼女はバハールへの連帯のメッセージを世界に発信し続ける。

 

”太陽の女たち” の不揃いなあの歌は、男たちへの宣戦布告に聞こえてならない。

 

監督.エヴァ・ユッソン   音楽.モーガン・キビ―